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教会での誓い、そして破滅

やがて、厳粛なパイプオルガンの音が教会に響き渡り、場の空気を張り詰めた。高い天井に反響するその音は、ただの音楽ではなく儀式の始まりを告げる鐘のように重々しかった。列席した親族や友人たちの視線が一斉に正面の扉へと向けられる。誰もが息を呑み、静寂が訪れる。僕の心臓は早鐘のように打ち、額に薄い汗がにじんだ。白い手袋に包まれた掌が、微かに震えているのを感じた。


 扉がゆっくりと開いた。光が差し込み、そこに現れたのは純白のドレスを纏った彼女だった。だが、僕の目の前にいるはずの彼女は、どこか別世界にいるようだった。まっすぐ僕を見ようともしない瞳。その深い奥にあったはずの輝きは、まるで消え失せてしまったかのようだった。その瞳が僕を避けるように下を向き、その口元が微かに震えているのを、僕は見逃さなかった。


 胸の奥に不安が広がった。「どうしたんだろう…?」と思う暇もなかった。次の瞬間、教会の入り口に一人の男が立っていた。その存在はあまりにも唐突で、現実感を奪った。見覚えのない男。黒いスーツに身を包み、冷たい視線で彼女を見つめている。その男の唇が、ゆっくりと形を変えるのを見て、僕は初めて彼の存在を認識した。そして、静かに手を差し伸べた。


「行こう。」


 その声は驚くほど穏やかで、それでいて抗えない強さを持っていた。まるで、二人だけの世界で交わされた約束の言葉のようだった。彼女の身体がわずかに揺れる。その一瞬のためらいに、僕はすがるような希望を抱いたが、それは儚い錯覚だった。彼女はゆっくりと歩き出し、僕の横を素通りしてその男の元へ向かう。彼女が放つ純白の香りが、僕の鼻先をかすめていく。その香りが、僕の心をさらにかき乱した。ドレスの裾がひるがえるたび、僕の心が裂けていく音が聞こえるようだった。


「待て!」


 新婦の父親の声が響き渡った。悲鳴のような叫び声。それでも彼女は振り返らない。伸ばされたその手をしっかりと握り、迷いなく教会の外へ駆け出した。扉が再び閉じられると、場内は一瞬にして静まり返った。息を潜めたような空気の中で、誰もが状況を理解できずにいた。僕の耳には、心臓の早鐘と、彼女のドレスの裾が床を擦る音だけが、やけに鮮明に聞こえていた。


 しかしその静寂は長くは続かない。ざわめきが起こり、ひそひそ話が飛び交い、やがて怒号が響く。「どういうことだ!」新婦の父親の怒りの声がこだました。その声は、僕の心をさらに深くえぐった。僕の父親が彼の元へ歩み寄り、「一体どういうつもりだ」と詰め寄る。新婦の父親はうなだれ、ただ「申し訳ありません」と繰り返すばかりだった。その姿が余計に惨めさを増幅させる。


 両親たちは列席者に必死で頭を下げていた。「本当に申し訳ございません」と繰り返しながら、会場を混乱から立て直そうとしていた。しかし祝福の空間は、一瞬にして修羅場へと変わり果ててしまった。白い壁も赤いバージンロードも、全てが色あせて見える。僕は、その光景を呆然と見つめることしかできなかった。


 足が地面に縫い付けられたようで、動けなかった。顔を伏せる勇気もなく、ただ立ち尽くすしかなかった。僕の中で時間が止まったような気がした。ドレスの裾が翻った瞬間、僕の人生そのものがひっくり返されたようだった。僕の視界は歪み、周囲の光景がまるで水の中にいるようにぼやけて見えた。


「ご迷惑をおかけしました。結婚式にかかった費用は、すべて弁済させていただきます。」


 新婦の父親が震える声で言った。その言葉が、僕の心をさらに深くえぐる。お金で解決できる問題ではなかった。尊厳も、信頼も、未来も、あの瞬間すべて失われたのだ。僕の頭の中で繰り返されるのは、彼女の後ろ姿だけだった。その背中が、僕の人生から遠ざかっていく。


 招待客たちは互いに顔を見合わせ、どう言葉をかけるべきか迷っていた。親しい友人のひとりが何かを言おうと近づいたが、僕はその視線を避けた。慰めや同情の言葉は、今の僕にはただの刃にしかならなかった。僕の内側で、何かが崩れていく音がする。


 母が僕の肩に手を置いた。「大丈夫?」その声に応えることもできない。大丈夫なわけがなかった。僕はただ、すべてが夢であればと願った。しかし現実は容赦なく、教会の冷たい空気が肌を刺すように突きつけてきた。


 式場のスタッフが慌てて動き回り、列席者たちを控室へ案内している。叔父が僕に歩み寄り、「一旦控室で休もう」と声をかけたが、僕の足はその場から動かなかった。僕はまるで壊れた人形のように、ただ立ち尽くしていた。ドレスを翻して走り去る彼女の姿が、何度も何度も脳裏をよぎる。その光景がまるで幻影のように残り続け、現実との境界を曖昧にする。


 祝福のために集まった人々の視線が、今は哀れみと困惑に変わっているのがわかる。ざわめきの中に混じるため息、同情の声、憤り。それらすべてが耳に刺さり、息苦しさを増幅させる。僕は唇をかみしめたが、震えが止まらなかった。


――どうしてこうなったんだ。


 問いかけても答えは返ってこない。僕はただ、一瞬前まで信じて疑わなかった未来が崩れ去った事実に打ちのめされていた。


絶望の淵

 僕は教会の中央に、ただ一人取り残されていた。列席者たちが控室へと移動し、スタッフたちが後片付けを始めている。その効率的な動きが、僕の人生の終わりを淡々と告げているようだった。


 父が僕の元へ戻ってきた。その顔は怒りと羞恥、そしてわずかな悲しみに満ちていた。「お前、まさか何も知らなかったのか」と、信じられないという口調で尋ねる。僕は何も答えられなかった。知らなかった。本当に何も知らなかったのだ。僕の知る彼女は、僕との結婚を心から望んでいるはずだった。なぜ、なぜこんなことになったんだ。


 父はそれ以上何も言わず、僕の肩を一度強く掴んだ後、控室へと戻っていった。その手に込められた力強さが、僕の胸を締め付けた。それは父なりの慰めだったのかもしれないが、今の僕には重すぎた。僕は再び一人になり、教会の天井を見上げた。ステンドグラスから差し込む光が、僕の虚ろな心に何の温もりも与えなかった。


 どれほどの時間が経っただろうか。僕は誰かに声をかけられるまで、その場に立ち尽くしていた。それは、新婦の父親、つまり僕の義理の父親になるはずだった人だった。彼の顔はやつれ、目元には深いしわが刻まれていた。


「すまない、本当にすまない…」


 彼は僕の前に深く頭を下げた。その姿は、先ほどの怒りに満ちた父親の姿とはまるで別人のようだった。ただ、みじめさと後悔だけがそこにあった。


「彼女は…、いつから、あの男と…?」


 僕の口から出た言葉は、それだけだった。その問いに、彼は顔を上げることができない。沈黙がすべてを物語っていた。僕は、彼の沈黙から答えを導き出した。僕が彼女にプロポーズをした時、いや、それよりもっと前から、二人は密かに愛を育んでいたのだろう。僕との未来を語りながら、彼女は別の未来を思い描いていたのだ。


 僕の頭の中で、過去の記憶が次々と再生されていく。部活の帰り道、彼女が僕に話してくれた日常の出来事。彼女がふと見せた寂しそうな表情。あれは、僕への気持ちが薄れていることへの葛藤だったのだろうか。僕は彼女の何もかもを知っているつもりだった。いや、何も知らなかったのだ。彼女の心は、僕の知らないところで、ずっと遠くへ旅をしていた。


 僕の全身から力が抜けていく。その場にへたり込みそうになるのを、僕は必死で堪えた。みじめだった。愛した女性に裏切られたこと以上に、自分の無知と愚かさがみじめだった。僕は、彼女の嘘に気づくことさえできなかった。


 新婦の父親は、僕に小さな包みを差し出した。


「これ…」


 彼は言葉を詰まらせながら、包みの中身を僕に見せた。それは、結婚式の費用を弁済するための現金と、新居の鍵だった。


「新居は、娘がどうしても、と…」


 その言葉を聞いて、僕の頭の中で何かが切れた。新居。僕と彼女が、これから二人で暮らすはずだった場所。彼女はそこを、僕との未来の象徴として選んだ。しかし、それは彼女にとって、僕を欺くための最後の舞台だったのだ。


「いりません!」


 僕の声が、教会に響き渡った。震えながらも、僕はその包みを突き返した。お金で解決できる問題ではない。そのお金は、僕と彼女の、そして僕たちの家族の尊厳を踏みにじった代償なのだ。そんなもの、受け取れるはずがなかった。


「どうか、受け取ってください。これは、私の…彼女の償いですから…」


 彼はそれでも包みを僕に押しつけようとした。その姿が、僕をさらに惨めな気持ちにさせた。彼は、僕を金で黙らせようとしている。その行為が、僕の怒りをさらに燃え上がらせた。僕は彼の腕を強く払い、包みを床に落とした。


 散らばったお金が、教会の床で鈍い音を立てた。その音は、僕たちの関係の終わりを告げる、最後の合図だった。僕は、その場から逃げ出したかった。このみじめな現実から、一刻も早く逃げ出したかった。しかし、僕の足は動かない。僕の人生は、ここで止まってしまったかのようだった。


 僕は、床に散らばったお金をただ見つめていた。それは、僕が彼女に捧げた愛の、そして僕が信じていた未来の、あまりにも安い代償だった。僕はその場で、もう一度、すべてが夢であればと願った。しかし、教会の冷たい床が、僕の頬を刺すように冷たかった。それは、現実が僕の目の前にあることを、容赦なく突きつけてくるのだった。

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