「気付いた?」 ― 夜の川辺にて
数年前の話である。
ひどく暑く寝苦しい夜だった。なにをしても眠れなかった僕は、どうせ夏休み中であり翌日にはなんの予定もなかったのでせっかくだから普段しないことをしようと思い散歩に出かけることにした。
イヤホンから音楽を流し、鍵だけを持って夜の町を歩き始めた僕は、普段はうるさく車が通っている道にも車どころか猫一匹いない状況にどこかいつもと違う楽しさと、ひょっとしたらいまこの町には僕しかいないのではないか、というあり得ない不安感を同時に感じていた。
そんな気分のまま近所にある川沿いを歩いていると、遠くにある街灯の下になにかが蹲っているように見えた。どこか生暖かいぬめりとした風を汗ばんだ肌に感じながら僕は、誰か泥酔でもしていて、あそこで休んでいたり倒れたりしているのだろうかと思い足早にそちらへと向かう。
「あっ……」
あの、大丈夫ですか。そう尋ねようとした僕は途中で言葉を詰まらせる。
先程も感じた生暖かい風がまたも肌を舐め、今度はその中に水底で腐った魚のような腐臭が混じっていたのだ。
同時に直感する。アレは、人じゃない。少なくともこの世のものでは。
なにかで聞いたことがあった。この世ならざるものの存在に気が付いたときは、それを向こうに悟らせてはならない、と。
気付いたことに気付かれてしまうとこちらを追いかけてくるから、と。
僕の声に気が付いたのだろうか。ソレは蹲ったまま僕の方へと顔を向けたような気がした。咄嗟に僕はその場でしゃがみ込むと靴紐を結び直すふりをする。
僕は靴紐が解けたから声をあげただけだ。なにも見ていない。
自分にそう言い聞かせながら僕は立ち上がると、何事もなかったかのようにまた歩き始める。
そのままソイツがいる街灯を通るときに、たまたまイヤホンから流れていた音楽が終わり、次の曲が始まるまでの間に僕は聞いてしまった。
『気付いた? 気付いた? 気付いた? 気付いてるよね?』
酷く濁った、悪意を煮詰めたようなそんな声を聞こえないふりして僕はそのまま歩き去る。そして街灯とソイツが見えなくなると同時に僕は全力で走り始めた。
その川でなにがあったのかは僕は知らない。だけど、もしアイツに気が付かれていたとしたら、きっと僕はいまこの世にいないだろう。そんな恐怖を感じた。
自室でここまで書き上げた僕は軽く伸びをする。友達がなにか怖い話を知らないかと聞いてきたので、僕の体験した唯一の恐怖体験であるこの話を教えようと考えたのだ。
「それにしても、アレはいったいなんだったんだろうなあ」
独り言を呟きながらヘッドホンを外した僕の肌を生ぬるい風が舐めた。
そして……。
『ほおら、やっぱり気付いてた』