第6話「会社の“噂”と、ふたりの“けじめ”」
◆【突然の“昇格打診”】
月曜日の朝。出社して間もなく、悠真のもとに一本の内線が入った。
「高槻さん。社長室に来ていただけますか。氷室社長と橘副社長がお待ちです」
(……また社長室?)
予感はしていた。
だが、それは思っていたよりも、はるかに早く、重い話だった。
「君を、次期課長に正式推薦したい」
そう告げたのは氷室結衣社長だった。
隣に座る橘理沙副社長は、静かに補足する。
「社内外での信頼評価、仕事への姿勢、若手指導力――どれも申し分ない。
ただ、君自身がどう思っているか、それを確認したくてね」
悠真は、ゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとうございます。でも、正直に申し上げます。
僕は……今、課長という立場は早すぎると思っています」
「ほう?」
「まだ“父”になったばかりで、毎日の家庭と仕事のバランスもぎりぎりです。
責任の重いポジションに就くことで、家庭への影響が出るのでは……と」
理沙副社長がふと目を細めた。
「なるほど。……“仕事人”である前に、“父親”でもあるわけだ」
結衣社長はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「断る勇気がある者ほど、本当は適任なのかもしれないわね」
そしてふたりは、その場で無理な昇進を強要せず、ただこう言った。
「“いま”は保留にしましょう。必要なタイミングは、君が自分で決めなさい」
悠真は深く頭を下げた。
◆【“母親説”の急浮上】
その頃――社内では、ある噂が急速に広がり始めていた。
「ねぇ、春日井課長って、最近ずっと定時で帰ってるよね」
「しかもこの前、ベビーカー押してるっぽい人、駅で見たって田辺さんが……」
「え!? じゃあ、まさか子どもが?」
「え、独身じゃなかったっけ……?」
何も知らない社員たちの憶測が、勝手に“母親説”を膨らませていく。
そして、ついにそれが結衣社長の耳に届いた。
「……面白いわね。
まるで、“真実”がひとりでに歩いて、本人たちを追い越していくみたい」
◆【“呼び出し”の通知】
夕方、真希と悠真のもとに一本のメールが届いた。
【至急:氷室社長室にて、本日18:30より】
内容は明かされていない。
だが、ふたりはすぐに察した。
(――ついに、“話すとき”が来たのかもしれない)
真希は、結翔を託児に預ける準備を整え、悠真の隣に静かに立った。
「行きましょう。……家族として」
ふたりの足音が、静かに社長室へと向かっていく。
それは、“秘密を守る”ための扉ではなく――
“未来を語る”ための扉へと、静かに近づいていた
◆【社長室のドアを開けて】
18時30分ちょうど。
ルクシア本社の最上階――“社長室”と名のつく空間のドアを、ふたりは静かにノックした。
「どうぞ」
氷室結衣社長の声は、相変わらず落ち着いていて威圧感はない。
隣には副社長・橘理沙の姿。
ふたりは、悠真と真希を招き入れると、書類もPCもない“完全な対話の場”を用意していた。
「まず最初に、ありがとう。今日、来てくれて」
社長のその言葉に、真希が静かに口を開いた。
「……私たち、今までずっと隠してきました。
結婚していることも、子どもが生まれたことも。
でもそれは、“守るため”の選択でした。息子と……この人と、自分たちの未来を」
「わかってるわ。あなたたちが誠実に働いてきたことも、チームに嘘をつくことなく仕事で信頼を積んできたことも」
結衣は一度、目を伏せてからこう続けた。
「でもね、会社ってのは“不確かな噂”に、想像以上に人が踊らされるの。
今、まさにその渦が巻き起こってる」
◆【“噂”を超える、“事実”の重み】
「『春日井課長って母親らしいよ』とか、
『広報の高槻が何か関係あるんじゃ』とか、いろんな憶測が飛び交ってる」
橘副社長が表情を引き締めた。
「だからこそ、今このタイミングで“どう振る舞うか”が、あなたたちにとって試金石になる」
「――選択肢はふたつ」
結衣が、指を立てながら静かに言った。
「一つは、今までどおり黙って“やり過ごす”こと。
もう一つは、自分たちの言葉で“伝える”こと」
真希と悠真は、顔を見合わせた。
◆【“けじめ”という選択】
「……僕は、今日、課長昇進の件も断りました。
まだ父親としても夫としても、全然半人前です。
でも、少しずつでも、ちゃんと自分の役割を果たしたい。
“家族を守るために隠す”のではなく、“守れる自分になる”ために、選びたいんです」
悠真の言葉は、真希の胸に真っ直ぐ響いた。
「私も、覚悟を決めます。
――けじめをつけて、ちゃんとこの職場に“私たちの働き方”を見せられるように」
◆【社長の微笑み】
結衣は、ふたりの言葉を聞き終えると、ふっと笑った。
「いい顔ね。ふたりとも。……ようやく、今のあなたたちにぴったりな表情」
「大丈夫よ。私は社長であると同時に、“結婚している女”でもある。
副社長の理沙も、“家庭を持つこと”の大変さはよく知ってる」
橘副社長がうなずく。
「だから、ちゃんと会社としても支えるわ。
……ただし、“覚悟”をもって、明日からまた働いてちょうだい」
真希と悠真は、深く頭を下げた。
◆【帰り道、ふたりの背中】
社長室を出たあと、誰もいないエレベーターホールで、ふたりはそっと手をつないだ。
「……ふぅ、緊張した」
「うん。でも、言えてよかった。これが、俺たちの“けじめ”だね」
「ねえ悠真。いつか……結翔に話せるかな。
“あなたを守るために、こんなふうにふたりで頑張ったのよ”って」
「もちろん。……そのとき、きっと堂々と笑って話せるよ」
ふたりの背中は、少しだけ軽くなっていた。
次の朝が、不安ではなく、少しだけ楽しみに思えた。
◆【社長からの提案】
沈黙のあと、氷室結衣社長はふたりに向けて、そっと口を開いた。
「……今のまま、非公表でも構わないわ。
だけどその代わり、“堂々と、隠すこと”をしてほしいの」
真希は一瞬、言葉の意味を測るように社長を見つめた。
「“隠すことを前提に怯える”んじゃなくて、
“非公表を選んだことに誇りを持ちなさい”ってことよ」
「つまり、“秘密にする”じゃなく、“選んだだけ”ってことですか?」
悠真が静かに返すと、社長は小さく頷いた。
「そう。……それができれば、あなたたちはこれからも堂々と働ける。
会社も守れるし、家族も守れる」
橘副社長が補足するように言った。
「噂が出たら、それはそれでいい。
でもあなたたちは、そのたびに、“今まで通り”やり過ごせばいいの」
「……わかりました」
真希は、静かに答えた。
「私はこの会社を辞めるつもりもないし、家族を隠し続けるつもりもない。
でも、今この瞬間は、“選ぶ”ときじゃない。
だから――適度に、自然に、これからもやり過ごします」
悠真も、真希の言葉に続いた。
「その代わり、ちゃんと仕事で証明します。
父としても、社員としても、何一つ後ろめたいことはないって」
結衣社長は笑みを浮かべた。
「それで十分。
あなたたちなら、きっとやり遂げられるって信じてる」
◆【変わるもの、変わらないもの】
社長室を出るふたりを見送ったあと、橘副社長がぽつりと呟いた。
「やっぱり、いい夫婦ね。ふたりとも芯が通ってる」
「ええ。……だからこそ、まだ“壊さないほうがいい”って判断したわ。
この静けさの中に、確かな強さがあるもの」
◆【社内の視線、ふたりの絆】
翌日――
真希が執務室に入ると、数人の視線がふとこちらに向いた。
けれど彼女は微笑み、これまで通りのテンポでデスクにつく。
悠真もまた、隣の広報課で変わらぬ表情と声で、次のプロジェクトミーティングを仕切っていた。
(大丈夫。私たちは、“秘密”を隠してるんじゃない。
これは、“選んだだけ”。そう、自分に言い聞かせれば――)
真希は胸の中でそう確かめる。
そして、デスクの引き出しの奥。
小さく畳まれた、家族3人で撮った小さな写真を、そっと指先で撫でた。
◆【“家族”という真実は、誰にも揺らがない】
廊下で偶然すれ違った悠真と、ほんの一瞬だけ目が合った。
口に出さなくても、わかっている。
ふたりの間にあるのは、もう“秘密”なんかじゃない。
それは、“家族”という真実で――
そして、“選んだ生き方”の形だった。
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