第5話「すれ違いの帰宅、すれ違わない心」
◆【ある平日、午後の診察室】
「ちくってするだけだから、すぐ終わるよ。がんばれ、結翔」
真希がそう優しく語りかけると、生後半年を迎えたばかりの結翔は、ぷにっとした顔で不満をあらわにしながら、予防接種を受けるべく小さな腕を差し出した。
看護師がそっと注射を打ち終えると、途端に泣き出す結翔。
「ふえっ……ふええええ……!!」
「あー、よく頑張った、偉い偉い。よしよし……」
真希は結翔を抱き上げ、小さく揺らしながら背中をとんとんと叩く。
(――こうして、ひとつひとつ乗り越えていくのよね)
仕事の合間に半休を取って、接種のために訪れた小児科。
“課長”としてではなく、“母親”としての時間。
そこには、いつもとまったく違う顔をした春日井真希の姿があった。
◆【帰り道、すれ違いの“視線”】
午後3時半。
診察が終わり、最寄り駅に向かう途中――
真希は結翔をベビーカーに乗せたまま、ふと立ち寄ったパン屋で小さなバゲットを買い、駅のベンチで小休止していた。
「もう少しでパパも帰ってくるわよ」
そんな会話をしながら、離乳食のアイデアをスマホで検索していると――
ふと、誰かの視線を感じて顔を上げた。
そこには、ルクシア広報部の女性社員・田辺詩織が立っていた。
(……あ)
詩織の目が、真希→ベビーカー→赤ちゃん→もう一度真希の顔へ……と、視線を往復させる。
「あの……もしかして、課……えっと、そっくりな人……ですか?」
明らかに“バレてはいないけど気づいている”反応。
真希はとっさに微笑みながら、こう返した。
「いえ、違いますよ。よく言われるんですけど……」
「……あっ、すみません! 失礼しましたっ」
詩織はぺこぺこと頭を下げながら駅の改札へと去っていったが――
その背中はどこか、名残惜しげだった。
◆【“それでも、歩いていく”】
(危なかった……いや、もう“本当に限界”かもしれない)
真希は小さくため息をついた。
けれどすぐに結翔が、「あぅー」と意味のない言葉を発して笑ったことで、思わず真希も微笑む。
「バレてもいい。でも、それはあなたを守ったあと。あなたが一人で立てるようになってから」
心の中で、そっとそう誓う。
◆【その頃、会社では――】
「なあ、最近さ、課長ってちょくちょく午後休取ってない?」
営業部の男子社員・間宮翔太が、ふとした雑談のなかでそんな言葉を投げた。
「言われてみれば……」
「なんか、誰かと住んでるって噂もあったよな?」
「それって……もしかして……」
噂は、静かに、しかし確実に広がり始めていた。
だがそのなかにいた、広報部の田辺詩織だけは――
何も言わずに、ひとりだけ黙っていた。
(あの赤ちゃんの顔……どこかで、もう一度見たい)
彼女の中に芽生えた“確信未満の予感”だけが、じっと静かに息を潜めていた。
◆【夜のキッチン、ふたりの沈黙】
夜9時。
静かなダイニングで、夕食の片づけを終えたふたりは、キッチンに並んで立っていた。
「……今日の予防接種、大丈夫だった?」
「うん、少し泣いたけど……すぐ笑ったわ。強くなったと思う、結翔」
真希は柔らかく答えたが、その表情には疲れと、どこか不安げな影があった。
「でも、今日駅で会っちゃったの。田辺詩織さんに……」
悠真は、思わず皿を持つ手を止める。
「……え?」
「直接はバレてない。でも、あの顔は……もう、気づいてるわ」
◆【“秘密”の限界】
「ずっとね、思ってたの。
この生活が壊れるのが怖くて、“秘密にする”って守り続けてきたけど……」
真希は、ふと笑って、自分の腕に目を落とす。
「でももう、結翔は“ただの赤ちゃん”じゃなくて、“私たちの息子”になってる」
「この子を、いつまでも隠すような生き方をしていいのかって――正直、わからなくなってきたの」
悠真は、黙って彼女の言葉を受け止めていた。
そして、静かに歩み寄り、彼女の肩に手を置いた。
「真希さん。……俺、今月末、課長に昇進の推薦を受けた」
「えっ……」
「来週には本決定の予定。もちろん、これから先も社内には言わないつもりだったけど――」
彼は深く息を吸い、言葉を選ぶようにゆっくりと続ける。
「……俺たち、どこかで“踏み出す時”が来ると思うんだ。
そのタイミングを、もう他人に決めさせたくない」
◆【“俺たちの意思”で、生きていこう】
「誰かにバレて“仕方なく公表”するんじゃなくて、
俺たちが、“これが私たちの家族です”って……ちゃんと、選べるようになりたい」
悠真の声は震えていなかった。
けれど、それがどれだけの覚悟を背負った言葉なのか、真希には痛いほどわかっていた。
「……悠真」
真希の瞳に、静かに涙が溜まる。
「ずっと、守ってくれてありがとう。……でも、もう、ひとりで背負わないで」
ふたりの額が、そっと触れ合う。
「これからは、ふたりで決めよう。
家族のことも、未来のことも……会社のことだって」
悠真は優しく頷いて、真希の涙を指で拭った。
「ありがとう。……俺、ちゃんと“父親”になれるように、頑張るから」
「ううん、もうなってるわ。……充分すぎるほど、ね」
◆【静かに、夜は更けていく】
寝室では、結翔がすやすやと眠っている。
ふたりは寄り添って、その寝顔を見つめたまま――
ただ、小さく手を握り合っていた。
「……ねえ、悠真。私たち、ちゃんとここまで来られたね」
「うん。バレずに、でも、逃げずに」
「これからも、ギリギリでやり過ごして……でも、ちゃんとふたりで守っていこう」
「ああ。俺たちの家族を、ちゃんと俺たちの意思で」
ふたりの視線の先で、結翔が夢の中で小さく笑ったように見えた。
その微笑みはまるで、“ふたりが選んだ未来”を祝福するように、温かく揺れていた――
◆【“秘密”のままじゃない、“想い”の共有】
深夜0時近く。
一日の終わり、静かなリビングのソファに、ふたりは寄り添って座っていた。
真希はブランケットを膝にかけて、悠真の肩にもたれながら目を細める。
その手には、今日撮った結翔の写真が映るスマホ。
「……ちょっと見ないうちに、こんなに大きくなるのね」
「うん。俺もびっくりする。
ついこの前まで、“抱っこするのも怖い”って思ってたのに……今は、こんなにも愛おしい」
「ふふ、あなた、最初“首据わるのまだですか!?”って看護師さんに焦って聞いてたわよね」
「うわ、それまだ言う?!」
「一生言うわよ、パパ」
ふたりの間に、やわらかな笑いが流れた。
◆【“選ぶ”という決意】
少しして、真希が小さな声で呟く。
「……ねぇ、悠真。
私、いつかこの子に聞かれたら、ちゃんと答えたいの。
“どうしてパパとママは、最初隠してたの?”って」
「うん」
「そのとき、“守るためだったのよ”って、はっきり言えるように、強くなりたい」
悠真は頷き、彼女の手を握った。
「その日が来ても、もう隠さない。
俺たちが選んで、俺たちの言葉で、ちゃんとこの子に伝える」
「……ありがとう」
ふたりの視線の先には、眠っている結翔のベビーベッド。
すやすやと、何も知らずに寝息を立てるその姿が、ふたりの未来を映していた。
◆【夜明けの手前、“ふたり”が歩く道】
「お互い、仕事も大変になってきたわね」
「うん。でも、こうして一緒に過ごせる時間があるだけで救われるよ」
「ねえ悠真。あなた、もっと昇進すると思うわよ。
私の部下じゃなくなっちゃうかもしれないけど」
「それでも、俺はあなたの“夫”だから。何があっても、そこだけは変わらない」
「……そうね」
ふたりは再び、そっと寄り添った。
◆【決して崩れない“3人の輪”】
「明日も、きっといろんなことがあるけど――」
「でも、私たちなら、大丈夫」
「バレそうでも、ギリギリでも、
こうしてふたりで乗り越えていけるって、信じてるから」
ふたりの指が、そっと絡み合った。
その小さなぬくもりは、“夫婦”というよりも、“運命共同体”のように深く――
そして、“家族”という絆に、確かに変わっていた。
静かな部屋に、結翔の寝息だけが心地よく響いていた。
そして夜は、またふたりの“秘密と幸せ”を包み込むように、静かに更けていく――。
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