第二話:闇夜に消える
深夜零時。館の時計が12回鳴り響く中、僕は静かに窓を開けた。
月光草──かつてはブラッドリー家の重要な収入源だった薬草。父上の書斎で見つけた古い帳簿には、その取引で得られた莫大な利益が記録されていた。
でも今は違う。傭兵を雇う余裕を失ってから、魔物の脅威に阻まれ、誰も採取に行けない。そんな話をヘンリーから聞いたのは、3ヶ月前のことだった。
それ以来、僕は毎晩欠かさず魔法の訓練を続けてきた。最初は魔力を感じ取ることすらできず、ただ夜中に座っているだけの日々。それでも諦めなかったのは、この家を救いたかったから。
「さて、行くか」
机の上には準備した道具が並んでいる。山の地図、採取用の袋、それに──。手のひらに意識を集中すると、小さな火花が散る。これだけ出せるようになるまでに、一ヶ月以上かかった。
「ごめんね、姉さん」
小声で呟きながら、窓の外に出る。つるバラを伝って降りるルートは、昼間に何度も確認済みだ。10歳の体で行うには少々きつかったが、それでも前世のアウトドア経験は役に立った。
地面に降り立ち、館の裏手へと回り込む。夜警の巡回時間は把握している。使用人たちの寝室の位置も。全て計算済みだ。
「足音を忘れずに...」
魔力を足に集中させる。これも訓練の一つ。完全な消音までは無理だが、かなり足音を抑えられるようになっていた。
(本当は、もっとまともなやり方があるはずなんだ)
でも、時間がない。このままでは家が没落する。姉の学園進学費用だって危うい。父上は病気がちで、母上は精一杯やりくりしているけど──。
「だから、僕がやるしかないんだ」
森への獣道に入る。月明かりが木々の間から漏れ落ちる。ヘンリーから聞いた話では、目的の薬草は山の中腹に自生しているはずだ。
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獣道を30分ほど進んだところで、目的の場所に到着。月明かりの下、青白く光る花が群生している。
「見つけた、噂の『月光草』」
月から魔力を吸収し、その力を蓄える特殊な植物。魔法薬の材料として重宝される。しかも今夜は満月。魔力が最も蓄えられている時期のはずだ。
「これだけあれば...」
袋に月光草を詰めながら、その生命力を感じる。体の中の魔力が、何かに共鳴するような感覚。
その時、地面が微かに震える。獣の足音。しかも、かなり大きい。
「嘘だろ...オーガ?」
木々の向こうから、巨大な人型の魔物が姿を現す。人の倍以上はある体格に、禍々しい角。ヘンリーの警告は本当だった。この山には、とんでもない魔物が棲みついているのだ。
(落ち着け...今までの訓練を思い出せ)
即座に身を隠す。幸い、風上だった。が、採取した月光草の匂いを嗅ぎつけたのか、オーガはこちらの方角を向いて唸り声を上げる。
体の中心に意識を集中する。いつもの訓練通り、魔力を少しずつ引き出していく。
「うおぉぉ!」
慌てて放った火の玉は、オーガの腕を直撃。だが、分厚い皮膚に焦げ跡を残しただけだった。
「効かない!?」
オーガの咆哮が夜の闇を揺るがす。皮膚を焦がされた痛みか、その巨体が狂ったように暴れ始める。
後ずさる僕の足が木の根に引っかかる。転倒は避けられたものの、バランスを崩した瞬間、袋から月光草がこぼれ落ちる。青白い光を放つ花びらが、闇夜に舞い散った。
「え...これは...」
突然、体の中の魔力が大きく波打つ。今までに感じたことのない魔力の量が、体の中を渦巻いている。散らばった月光草が、僕の中の魔力と共鳴を始めたのか。
オーガが再び突進してくる。もう隠れている場合じゃない。立ち上がり、右手を突き出す。
(制御を...でも、魔力が暴れすぎて...)
「ファイア!」
放たれた炎は、訓練の時の比ではない。炎の奔流がオーガの胸を直撃。轟音と閃光が夜の森を切り裂く。
「グオォォォ!」
オーガの胸部が大きく焼け焦げる。だが、それでも倒れない。むしろ、痛みで更に狂暴化したようだ。
「くそっ...」
体が震え始める。魔力の扱いに慣れていない体が、悲鳴を上げている。でも、このままじゃ──。
オーガの拳が振り下ろされる。咄嗟に飛び退くが、地響きで足元が崩れる。膝をつく僕の目の前で、月光草が風に揺れ、青白く輝いていた。
その時、体の中の魔力が爆発的に膨れ上がる。
「うっ...抑えられない...!」
制御を超えた魔力が、まるで洪水のように溢れ出す。手のひらから漏れる火花が、みるみる巨大化していく。
「危ない!でも、これしか...!」
渾身の叫びと共に、暴走する魔力を解き放つ。
「ファイアアアアアッ!」
灼熱の奔流。月光草の魔力と混ざり合った炎が、まるで小さな太陽のように輝きながら放たれる。
轟音と共に、オーガの上半身が消し飛ぶ。残された下半身が、ゆっくりと倒れ込む。
「は...はぁ...」
視界が歪み始める。魔力を使い切った体が、限界を迎えていた。
「帰らないと...」
朦朧とする意識の中、僕は立ち上がる。オーガの死体から目を逸らしながら、よろめく足取りで下山を始めた。月光草の青白い光が道標のように僕を導く。
(左...左足から...)
一歩一歩、意識を集中して歩を進める。今までの訓練で身につけた足音を消す技術も、もはや使えない。魔力を使い果たした体は、ただの10歳の少年の体だった。
木の根に足を取られ、膝をつく。痛みで目が覚める。
「まだ...まだ帰れる」
月明かりを頼りに、獣道を確認する。来た時よりも遥かに険しく感じる下り道。汗が滴り落ちる。
遠くで梟が鳴く。夜の森の音が、普段よりも大きく耳に響く。
(早く...早く帰らないと)
茂みが揺れる音に、反射的に振り返る。今度は何が出てくるのかという恐怖が背筋を走る。だが、そこにいたのは一匹の野ウサギ。お互いに驚いて、ウサギは茂みの中へ消えていった。
館が見える位置まで来た時、ようやく限界が訪れた。
(まずい...夜の外出が...ばれる)
視界が暗くなっていく中、館の方から人々の声が聞こえてきた。あの轟音で気付いたのだろう。
「あの音と光は何だ!?」
「山の方からですが...」
(見つかったら...姉さんに...父上に、母上に...)
そんなことを考えている余裕すら、もう残っていなかった。意識が急速に遠のいていく。
月光草を握りしめた手が、力なく地面に落ちた。
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本日の作戦結果:
・目標:月光草の採取
・状況:達成(ただし飛散)
・想定外:オーガの出現、魔力の暴走
・対処:複数回の魔法でなんとか撃退
・代償:全ての魔力を使い切る
・最大の問題:夜の外出がばれる......