第一話:没落貴族の長男は日記に綴る
今日も今日とて、この世界はテンプレ展開の匂いを漂わせている。
机に向かって日記を書きながら、僕は深いため息をついた。目の前には、父上の書斎から零れ落ちていた冒険譚が山積みになっている。この世界の「定番」と呼ばれる物語たちだ。
『勇者の冒険記』
『聖女様と七つの試練』
『転生貴族の栄光』
まるで前世で散々書かされた設定資料を読んでいるようだ。勇者が出てきて、聖女が出てきて、魔王を倒して、めでたしめでたし──。
そう、僕には前世の記憶がある。佐藤奏、28歳。過労死した売れない作家。締め切りに追われ、編集者に追われ、最期は安っぽい転生モノを書かされそうになって力尽きた。その末路が、この世界への転生。
しかも転生先は──
「没落寸前の辺境貴族の長男様でございます。ははは」
自嘲気味に笑う。小説のような設定に転生したものの、この世界の空気が、どこかおかしい。
日記に向かって、小さな文字を綴っていく。
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本日の世界情勢分析:
*1. 北方情勢
帝国軍の南進が加速。辺境伯領での軍備増強は防衛の名目だが、実際は侵攻準備の可能性大。
貿易商人の証言:北方での徴税強化、物資の備蓄開始。
前世の歴史で見た戦争前夜の状況に酷似。*
*2. 魔物活動の異常
出現頻度が過去10年で最高(ヘンリー談)
通常生息域から200キロ以上の南下を確認
家畜の失踪事件が急増。捕食痕なし→知的な存在による計画的な略奪?*
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「グレイ、また怪しい日記を書いているの?」
背後から冷たい声が聞こえる。さて、「10歳の坊ちゃん」モードの出番だ。
「おや、姉さん。今日も僕の部屋の見回り?」
僕は子供らしく首を傾げてみせる。そこには真っ直ぐな姿勢で立つ姉、エリザベスの姿。11歳とは思えない威厳を纏っている。
「......また変なことを考えているんじゃないかと思って」
机の上の本を見て、案の定、姉は眉をひそめた。
「これって...父上の書斎の本じゃない?」
「借りただけです〜」
「グレイ!」
にやりと笑う。姉の反応は実に分かりやすい。
「姉さん、僕には使命があるのです」
大げさに立ち上がって、窓の外を指さす。
「世界が、世界が危ないんです!」
「はぁ...」
予定通りの溜息。このリアクション、前世の編集者と同じだ。
「見えませんか?魔物が増えてるの!空の色だって変だし、羊さんたちも消えちゃったし!」
「母上!」
姉の声が響く。
「グレイがまた始まりました!」
「まぁ」
居間から母上の声。
「グレイったら、お話好きになったのね」
姉は机の上の本を手に取りながら、真剣な表情を浮かべる。
「5年後には学園入学なのよ?こんな物語ばかり読んでいて、どうするの?」
「姉さんこそ」
僕は茶化すように言う。
「まだ4年もあるのに、もう学園のことばかり」
実際には、あの学園こそが情報収集の重要拠点になるはずなのだが。
「私は──」
「エリザのことだから、絶対合格できますって」
「...!」
照れ隠しに本を元の位置に戻す姉の仕草を見ながら、僕は密かに分析を続けていた。姉は聡明だ。いずれ、この世界の異常に気付くだろう。その時のために、準備をしておかなければ。
「それより姉さん」
話題を逸らすように言う。
「山に生えてる薬草って、知ってる?」
「薬草...?」
首を傾げる姉。
「まさか、山に行く気?ダメよ、危ないから」
「いえいえ、ただの質問です」
今は質問だけ。実地調査は、まだ先の計画だ。
「グレイ」
「はい?」
「何か企んでいるでしょう?」
「なんにも〜」
10歳の子供らしく首を傾げてみせる。姉は諦めたように溜息をつくと、部屋を出て行った。
再び一人になった僕は、机の引き出しを開ける。そこには、執事のヘンリーから聞いた話を元に作った詳細な地図がある。薬草の生育地、魔物の出現地点、村人たちの証言...全てを記録している。
(準備は着々と。でも、まだ時間がかかる)
窓の外を見上げると、空には不穏な雲が渦を巻いていた。魔力密度の上昇を示す典型的な前兆だ。世界は、確実に物語の軌道に乗り始めている。
でも今は──前世で果たせなかった夢を叶えるチャンス。誰も見たことがない物語を、この手で。
「佐藤奏、物語改変計画、開始」
そう呟いた瞬間、
「グレイ、また独り言?」
「姉さん、盗み聞きは──」
「見守りよ、見守り」
「それ、編集者の台詞です」
「...何?」
「いえ、なんでもありません!」
「母上!グレイが訳の分からないことを!」
「エリザ、グレイ」
母上の声が響く。
「もう遅いわよ?」
「はい...」「はい、母上」
僕たち姉弟の返事に、母上が優しく笑う声が聞こえた。
(この平和な日々も、あとどれくらい続くかな)
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追伸:本日の計画進捗
*1. 情報収集
ヘンリー経由の情報網:構築中
商人からの情報買取:資金準備要
貴族社会の動向:継続監視中*
*2. 物資準備
薬草調査:植生地図完成
換金手段の確保:要検討
有事の備蓄:未着手*
*3. 長期計画
5年後の学園入学:重要拠点に
商業ネットワークの構築:準備段階
没落防止策:複数案を検討中*
*4. 目下の課題
姉の警戒:想定内
資金調達:最優先事項
年齢詐称:継続維持必要*
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「よし、これで今日の日記は終わり...って」
「...見つかったかしら」
「姉さん、もう寝ましょう?」
「あなたこそ」
優等生の微笑みを浮かべたまま、姉はゆっくりと廊下を去っていく。
(前世でこんなに可愛い姉がいたら、もっと頑張れたかもな)
なんて考えながら、僕は日記を閉じた。世界の危機も、没落の危機も、まだ誰も気付いていない。だからこそ──準備は怠れない。