プロローグ:最弱の作家は机で眠る
古びた一DKのワンルーム。積み重なったカップラーメンの空容器。洗濯してない服の山。そんな部屋の机の前で、男が頭を抱えていた。
締め切りまで、あと3時間。
「やっぱダメだ...書けない」
パソコンの画面には「第一章」という文字だけが虚しく光る。この三日間、一文字も書けていない。いや、もっと正確に言えば──書く気すら起きない。
佐藤奏、28歳。いわゆる「売れない」ライトノベル作家。だが、もう「作家」とすら名乗る資格はないのかもしれない。
机の上には、いくつかの文庫本が積まれている。装丁は派手だが、全てバーゲンコーナー行きのシール付き。自分の作品だ。
『転生勇者の英雄譚』──発行部数8000部、重版なし。
『聖女様の異世界救済』──発行部数5000部、書店からの返本率85%。
『転生貴族の魔王討伐』──発行部数3000部、Amazonレビュー★2.1。
スマホには未読メッセージが32件。全て担当編集の山田から。一週間前から、電話は着信拒否に設定している。
古びた壁には、かつての夢の形見が貼ってある。
「第23回ファンタジー新人賞・選外」
「第47回異世界小説大賞・選外」
「第12回Web小説コンテスト・選外」
全て、デビュー前の戦歴。まだ、本当に書きたいものを書いていた頃の記念品。今となっては嘲笑うように、机を見下ろしている。
「誰か、殺してくれ...」
机に突っ伏しながら呟く。その時、インターホンが鳴った。
「佐藤先生ー!生きてますかー!?」
悪魔の声だ。山田編集である。
「先生!部屋の明かりついてるの見えてますからね!?生存確認させてくださーい!」
黙殺を決め込む。が──
「締め切り3ヶ月延期したんですよ?ねぇ?3ヶ月ですよ?普通の妊娠期間の三分の一ですよ?象なら妊娠できちゃう期間ですよ?」
「象の妊娠期間を知ってる編集者がいるか!」
反射的に突っ込んでしまい、声を上げた瞬間に後悔する。
「あ、やっぱり家にいましたね!開けてください!」
観念して玄関を開ける。インスタントラーメンの空き箱だらけの部屋に、山田編集が顔を出した。表情が一瞬固まる。無理もない。一週間前に比べて明らかに部屋は荒れている。
「先生...ちゃんと食べてます?」
机の上のカップラーメン。冷蔵庫の中身は酒だけ。台所には食器を洗っていない匂いが漂う。
「...生きてます」
「生きてますじゃないですよ!ちゃんと栄養取らないと!」
山田は持参したコンビニ袋から、おにぎりとサンドイッチを取り出す。
この一週間、まともな食事を取っていなかったことに気づく。
「それより原稿は...」
言いかけて、山田の表情が曇るのが見えた。机の上のパソコンには、まだ「第一章」の文字しかない。その画面の向こう、ブラウザには小説投稿サイトの新着ランキングが表示されている。
1位『転生最強勇者の異世界征服』──いいね数28万
2位『最強賢者の異世界転生活』──いいね数25万
3位『追放聖女は実は最強でした』──いいね数20万
そして俺の投稿作品『孤独な作家の異世界日記』──いいね数12。
現実を直視したくなくて、無料投稿サイトにこっそり上げた本当に書きたかった作品。その結果がこれだ。
「先生、これ見てください!」
山田が取り出したのは、派手な装丁の企画書。
「次の新作企画です!『転生した勇者が魔王を倒して、世界に平和が戻る物語』!王道ですよ!王道!」
「...それ、俺の前作と展開同じじゃないですか」
「いえいえ、違いますよ!前作は『転生した聖女が勇者を助けて、魔王を倒す』でしたから!」
「それのどこが違うんだ!!」
机を叩く。コーヒーが溢れ、原稿用紙を濡らす。でも、もう気にならない。どうせ、そこには何も書かれていないのだから。
「山田さん...もういいです」
「え?」
「俺、限界です。もう、同じ展開しか書けない自分に...耐えられない」
「先生...」
デビュー前は違った。誰も見たことがない物語を書きたかった。読者の期待を裏切り、そして驚かせる展開を考えていた。それなのに、売れ線を追いかけているうちに...。
「先生!顔色が...!大丈夫ですか!?」
まぶたが重い。視界が揺れる。三日間の徹夜が、ここで限界を迎えたらしい。
「先生!救急車呼びます!」
山田の声が遠のいていく。早まる心臓の鼓動。重たくなる呼吸。
机の上には、学生時代に書いた処女作の原稿がある。誰にも評価されなかったけど、本当に書きたかった自分の物語。その原稿が、最期に目に入った。
「こんなテンプレみたいな展開じゃない...本当の...物語が...」
全てが、暗転した。
それは「売れない作家」としての最期の言葉だった。
だが──これは終わりではない。
むしろ、本当の物語は、ここから始まるのだと、まだ誰も知らない。
更新頑張るよ