由布子の仕事
「シノ先生‼︎このペースじゃ間に合いませんよ⁉︎」
「わ、分かってるんですけど……どうしても思いつかないんです……」
湊の隣の家。東雲家は今、かなり慌ただしい様子をみせている。由布子さんは一人暮らしだが、現在由布子さんの家に同年代らしき女性と2人で何やら言い争い……というより由布子さんが一方的に口うるさく言われていた
由布子相手に口うるさく言っているのは、一ノ瀬時雨。由布子さんの担当編集者だ
由布子さんは恋愛小説作家であり、シノ先生っていうのは、苗字の東雲から取ってシノ
そこに先生を付けたシンプルな作者名だ
もう既に1作目を完結させ、今は2作目の3巻目の原稿待ちらしい
「シノ先生に恋愛経験がないからアイデアの引き出しが少なすぎるんです!」
「そ、そうかもしれません……」
激しく落ち込む由布子
「とにかく!なんとか3日ぐらいは引き伸ばすので、それまでには絶対!ぜーったいに原稿下さい‼︎」
「……はい」
見たところ、原稿はあと3分の1程度は残っている。それなりの量があるので、素人目から見てもアイデアが出てスラスラと書けないと恐らく間に合わない
「……お願いしますね。本当に」
「……分かってます」
「……私は次の仕事があるので帰りますね」
時雨さんは自分の鞄を持った。由布子は見送る為に、玄関前まで一緒に出た
「……私は作家ではないので、参考程度に聞いて欲しいんですけど、実際に誰かを好きになってみれば少しはアイデアが湧いてくれると思いますよ?」
「誰かを好きに……ですか」
「なんなら私が合コンやら、婚活パーティーやらに由布子さんを招待しましょうか?良い男性いるかもしれませんよ?」
「だ、男性はちょっと……」
はぁ……と時雨さんは大きなため息をついた
「なんで男性が苦手な人が恋愛物の小説書こうと思ったんですか……」
「に、二次元と三次元では話が違くて……」
由布子さんは結構重度の男性恐怖症の持ち主。
高校はまでは女子校に通うことで男性を回避出来ていた
が、大学ではそうもいかず、可愛い由布子さんはほぼ毎日ナンパをされていた
結局そんな大学生活に耐えられずに自主退学
元々仕事に出来ていた作家一本で一人暮らしをしている
なんでこんなに詳しいかって?私は由布子さんが隣に越してきた日からずっと生活を見ているからだ
高校を卒業してすぐに一人暮らしをしていたから、かれこれ5年は由布子さんのことを見守っている。ただ5年経った今でも、湊との関係は挨拶、会話をする程度で止まっているのだが……
だが、私のせいではあるが、2人でご飯を食べる事とか出来ている辺り、湊に対して恐怖心はないみたい
まあ好きな人に恐怖心抱くってどんな状況?とは思うが
「……あ、こんにちは」
と、ここでタイミング良く湊が家から出てきた。ラフな格好で財布を持っているから、おそらくコンビニにでも行くつもりなのだろう
「ここ……こんにちは!」
「……ふーん」
勘が鋭いのか、はたまた誰から見ても分かりやすい反応を由布子さんがしているのか分からないが、時雨さんは由布子さんにとって湊がどういう存在なのか一瞬で理解した
「初めまして。私は由布子さんの担当編集の一ノ瀬 時雨と言います」
時雨さんはご丁寧に名刺を取り出して、湊に渡した
「わざわざありがとうございます。……シノ先生の担当さんでしたか」
「あ、シノ先生ってご存知なんですね」
「えっえっえっ?湊さん知ってたんですか……?」
「まあ何度か隣で由布子さんの家のドア叩きながら「シノ先生!原稿まだですか⁉︎」って声が聞こえてたので」
「お、お騒がせして申し訳ありません‼︎まさか隣に聞こえるほどうるさくしていたとは思わず……」
「良いですよ。微かに聞こえてたぐらいですから」
ここでハッ!と時雨さんは何か閃いた様子を見せた
「えっと湊さん……で良いんですよね?」
「はい」
「お願いがあるんですけど聞いてもらえませんか⁉︎」
「内容次第ですね」
「今、シノ先生はスランプに陥っているんです!こういう時って環境を少し変えれば改善されたりするんです。なので……原稿〆切までの3日間。由布子さんを湊さんの家に泊めさせてあげてもらえませんか⁉︎」
「はっ⁉︎えっ⁉︎」
この時雨の提案に1番の驚きを見せているのは由布子さんだった。後ろで口をパクパクとさせ、急な提案に戸惑いを見せている様子
「環境を変えたいならどこか遠いところとかの方がいいのではないですか?変えるっていっても隣ですよ?」
「今から遠出させると、さらに書く時間が無くなってしまいますから。あとシノ先生はボッチの人なので頼る友達もいないんですよ」
勝手な物言いに由布子さんは静かな怒りを時雨さんに抱いた
「だからお願いします‼︎シノ先生を助けると思って!」
「んー……俺は構いませんけど、由布子さんはそれで良いんですか?」
「え、えっと……」
……私は空気で察した
由布子さんは気遣いの出来る女性。おそらく迷惑だからといってこの話は断るだろう
だからこそ、私の出番だ
「お気持ちは嬉しいのですが、やっぱりめーーはぅ⁉︎」
「……シノ先生?」
「お気持ちは嬉しいので、お世話になってもいいですか?」
私は由布子さんの身体を乗っ取り、お世話になると返事をした
「……じゃあ2階に書斎にしてる部屋があるので、そこを貸しますね」
「ありがとうございます!そうと決まればシノ先生!仕事用のパソコンを運び出しますよ!」
「は、はい!」
時雨さんはまた由布子さんの家に戻り、パソコンの線を外しはじめた
「あれ……私は何をしてっ……」
由布子さんの身体から追い出され、由布子さんは意識を取り戻した
「ってええ⁉︎し、時雨さん何やってるんですか⁉︎」
いきなり目の前で仕事道具であるパソコンの線を抜いている時雨。そりゃ焦るよね
「何って……そりゃあ湊さんの家に仕事のパソコン移すために決まってるじゃないですか」
「い、いつの間に決まって……」
「変なこと言ってないで由布子さんも手伝って下さい!時間が惜しいんですから」
「……はい」
不審に思う由布子さんは首を傾げながらもパソコンの線を外す作業を手伝った
♢ ♢ ♢
「ふぅ……これでいいですね」
湊家の書斎に由布子のパソコンが置かれた
「いいですか由布子さん?湊さんの家の物とか盗まないこと」
「ぬ、盗みませんよ!」
「まあそうですよね。湊さん安心してください。由布子さんは犯罪とか出来る度胸ないですから」
「元々由布子さんがそんなことすると思ってないので、心配してないですよ」
当たり前のことを当たり前のように言う時雨さん。だがまあ注意喚起は必要だろう
「……先生をよろしくお願いします」
「任されました」
「えっと……よ、よろしくお願いします‼︎」
「よろしくお願いします」
3人各々挨拶を済ませたところで、時雨さんは次の用事の時間が迫っているとのことで、急いで家から飛び出していった
「とりあえずもう作業に入りますか?それとも一度休憩でも挟みますか?」
湊は由布子さんに2択を迫った
「……とりあえず缶詰め(一定の場所に留まり、外部との干渉をなくすこと)になってみようと思います」
「そうですか。じゃあコーヒーだけ持ってきますね」
「い、いえ!そんな気を遣って頂かなくても!」
「これは俺のワガママです。そこの本棚見てもらえます?」
湊が指をさした方にある本棚には、数冊の本があった
「私の作品……持ってたんですか?」
「由布子さんがシノ先生ってネームで書いてるって知って買い始めたんですが、今ではすっかりファンなんですよ。なので、新作を出してもらわないとこっちも困るので、これぐらいはお手伝いさせて下さい」
由布子さんは嬉しさからか、顔を赤くしていた
「じゃあ……お言葉に甘えて……」
「はい。あ、ここに泊める見返りとしてサインとか頂けますか?」
「そんなものでいいんですか?」
「ええ。それにサインってすごく嬉しい物ですから」
「……私ので良ければいつでも書きます」
「本当ですか!じゃあその本棚の一巻の表紙にお願いしてもいいですか?」
「はい」
湊は由布子さんの処女作である作品の一巻とペンを渡し、サインを書いてもらった
「……はい。書けました」
「おおー。大切にしますね!」
「ふふっ……ありがとうございます」
……2人のいい雰囲気を感じ取った
私は湊には由布子さんがピッタリであると再認識した