コロナウイルスと、冬休みと、梶井基次郎の檸檬と、 煉獄杏寿郎と、私が芸術を楽しめるようになった日が今日であるということ
芸術を理解できる日が来た。
2020年12月26日土曜日、つまり今日この本日のことだ。
人によっては、すこぶる調子の良い日だとか、全てを肯定できそうな日だとか、本棚の手を届かせる感覚が心地良い日だとか、そういう風に解釈しているだろうあの日だ。
そうとも。ついに私の元に帰ってきてくれたのだ。やったあ!
今年はどんなだったか。
今年はコロナウイルスの影響で、見える範囲の皆が忙しそうだった。休む暇もない。私も、これは少し違うが、第一志望校の推薦試験に合格して大学受験の終止符が打たれるまでは、同じような焦燥に駆られる日々を過ごしていた。
あるいは休みだ。コロナが話題になった段階、つまり春。多くの学校で春休み拡大があったと思う。
私はその頃、受験勉強と古戦場をやっていた。
当時所属していた騎空団には1年近くお世話になった記憶がある。あの騎空団で兄弟と呼び合える人物ができた。私が一方的にかもしれないが、友と呼べる人物も複数出来た。化物語が好きなあの団長は果たして元気だろうか。
水古戦場が終了した後、私はあの騎空団を抜け、間に合わせの団で古戦場の英雄という称号を獲得し、グラブルを休止した。だからそれからの皆のことをあまり良く分かっていない。
コロナ休みの影響といえばあれもある。ちょうど今私が経験している、夏休みと冬休みの縮小だ。
私の学校ではクリスマスイブもクリスマスも出席させられた挙句、終業式がなかった。つまり今日から冬休みのはずなのだが、まるでその実感が湧いてこなかった。
惰眠を貪り尽くすこと四度寝である。
その間何度も夢を見て、ああこの夢はいつか見た夢と同じ世界の気がするだとか、ここまでしっかり夢を見るのもいつぶりだろうかとか、そんなことを考えながら正午を超え、やっと今冬休みだと実感できた。
そう、冬休みだ。
キンと冷たい空気、温かいお布団。窓ガラスから顔を出すと視界は遠くまで広がり、光がなんとも言えない感じで私の心をくすぐってくる。
芸術である。
梶井基次郎の檸檬を読んだことはあるだろうか。私は今読み解いているところだ。
えたいの知れない不吉な塊に取り憑かれ、以前は楽しめていた西洋の芸術が楽しめなくなった梶井が主人公である。
芸術とはなんとも理解しがたい。
例えばポンと机の上に消しゴムを置かれ、命、と言われてもピンとこない。前衛的な芸術展でそのようなモノが沢山並んでいることは想像に難くないだろう。首が折れてしまいそうだ。
私の場合、そういう場所に迷い込んだ時は、ピンとこない訳の分からないものをどれどれと眺め、自分の持つ美意識と照らし合わせる。そうして、うむやはり分からんだとか、これのここは良いなだとか、そういう風に楽しむ。
梶井の時代において、前衛的なものとは西洋の文化だった。
─生活が蝕まれていなかった以前私の好きであった所は、例えば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮き模様を持った琥珀色や翡翠色の香水瓶。煙管、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費やすことがあった。─
彼が西洋のそれを楽しめなくなった理由は、芸術を楽しめなくなったからだ。
芸術を楽しんでいると、時折どこかで深みに嵌る。
思考の流れが海のような感じになり、ドバドバと新しい考え方が浮いては見えなくなりを繰り返し出す。チラチラと浮かぶバックボーンに想いを侍らせながら、深く深く訳も分からずその作品に没頭していく。あるいは解像度が自然と上がっていく。
梶井の文章を見てみよう。
─以前はあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。一枚一枚に眼をさらし終わって後、さてあまりに尋常な周囲を見回すときのあの変にそぐわない気持ちを、私は以前には好んで味わっていたものであった。……─
つまり映画館である。
鬼滅の刃の映画を観に行き、暗い館内に光る画面を見ながら涙を流し、煉獄さん……ううっ……と頭の中でぼんやり考えながら面通りなりショッピングモールなりに出る。私はまだ映画館に行っていないが、原作は読んでいる。ところで今日私が書いているこの随筆のどこかに暗喩式のネタバレが含まれている。
するとどうだろう。人が歩いている。建物がある。商品がずらずら並んでいたり、木が整列したりしている。
現実である。
とにかくそういうことだ。
本を読んだときでも、音楽を聴いたときでも、映画館に行ったときでも、スポーツ観戦のときでも、梶井のように絵を見たときでも、とにかく芸術というものを楽しむとき、私たちはどこか別の世界へ行く。
そしてその世界の旅行が終わった後、私たちは現実世界を眺めながら、どこか自分と現実世界の境界を認識し、少し外れたところにいる感情を抱くのだ。
梶井は以前、西洋文化にこの感覚を抱き、楽しんでいたと述べた。
話がとっちらかってきた感覚がある。さて私は何を話したいんだったか。
そうだそうだ。本を手に取る感覚がとても重かったんだ。
自室に入る。さあ今日こそ本を読もうと意気込んだ。本棚に並べられた本どもを視界に収める。お気に入りの夢野の本に手を伸ばす。人差し指が上部に触れる。本が指に触れている。瓶詰の地獄だ。とても薄い本だ。胸が締め付けられる。指に力を入れる。本を傾ける。人差し指と親指で引き抜く。辛い。手の中に本がある。読んだことのあるお気に入りだ。とても素晴らしい本だった。表紙を開くのを戸惑う。とても苦しい。紙をめくる音。視界に入る。何。何が。沢山の文字が──
ということを、自分に与えたはずの週一日の休みのたびに繰り返す一年だった。私にとっての2020年だ。
檸檬を読みながら、私は梶井に共感をしていた。
芸術が理解できなくなっていた。本を読むのが億劫だった。空元気でなんとか読もうとしても、文字が頭の中で動かない。あんなにも色鮮やかに物語を映し出してくれた文字がうんともすんとも言わない。文字が滑ることはない。完璧に読み取れている。ただ、なんの感情も湧いてこなかった。世界はどこまでも現実で、私が無表情で眺めていたのは本に書かれている文字だった。
ああそうとも。苦しかったとも。
それが書きたかったのだ。
さて、芸術を楽しめる日が来た。
そうなのだ。なんと今の私は芸術が楽しめる。楽しめてしまうのだ。
見てくれ私の右手を。ははは、分厚い国語の教科書の上にある。我慢できずに読み始めたのだ。檸檬はその中にあった。私が本を買うとどうしても偏りが出るから、こういう便覧的なものには非常に助けてもらっている。
机の上を見てくれ。本棚から無造作にとってきた本どもがぐちゃぐちゃと塔を作り上げている。以前の私なら、あまりの拒否感から顔のパーツに食道と胃を追加していただろう。どいつもこいつも私が気に入ったから本棚に置いておいた本だ。
お湯を沸かす音が聞こえるか。紅茶を淹れるんだ。リプトンだ。よく見るだろうあの黄色いパッケージのやつだ。ティーバッグじゃないぞ。缶に入った一等いいやつを取ってきた。
見てくれ。窓の外から見える景色を。畑がある。建物がある。遠くの方の山だって見える。詳しくないからそれぞれの素晴らしさを解説することはできないが、なんだか風情がある感じがしてくる。
カーテンを閉めてみると光がチラチラと踊り出す。光が物質なのか現象なのか未だに曖昧なのだが、そんなことを理解していなくとも、まあなんて可愛いのでしょうと思わず口から零れてくる。
世界が美しく見える。
そうとも、芸術が楽しめる日が来たのだ。
学習さえ楽しめる。
なんたってこれも芸術に触れるということだからだ。
大学では常識としてそれを扱わなければならないから、受験勉強をするとどうしても作業になる。
だがどうだろう。教科書を開いて文字を読む。次に行うのは理解を深めて忘れぬようにすることではなく、思いを向けることだ。どこまでも建設的でなく無意味である。しかし楽しい。
ははあ、ここの文章はさっきのここと対応してるんだな。地震とな?そういえば地学はついぞ触ることもなかったな。どれ、ちょいと覗いてやるか。……えっ、マントルって液体じゃなかったの!!?
楽しい。
多分芸術が楽しめる日というのはまた私の前から姿を消す。次にいつくるか分からない。だがその少し不安な感覚さえ楽しめてしまう。芸術が楽しめる日は芸術以外も楽しめるのだろう。
よし、構成はきっとぐちゃぐちゃになっているだろうが、私の書きたかったことは多分書けている。
……ああその通り。紅茶がいい感じの頃合いになってね。
今日という日に乾杯しよう。おっとなんて解像度の高い乾杯なんだ。こいつを肴に、次は何を読もうかしらん。