表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

粋な計らい

作者: まに

 ゴールデンウイークが明けた。月末に迫る体育祭の準備も進み、学校全体が少しずつお祭りムードに染まりゆく。

 それ自体は結構なことだが、体育祭の練習のために部活動の時間が削られるのは、瑞原勇馬としてはやや複雑なものがあった。もちろん縦割りのチームで知り合った二、三年の先輩方と触れ合う時間は楽しい。色別対抗リレーのメンバー同士で今度決起集会――と題しての遊び――に行く予定も立てた。本番を待ち遠しく思っている辺り、自分もそれなりに楽しみにしているのは間違いない。それでもやはり――部活動の時間を削られるのはちょっぴりイヤなのだ。学校行事が大切ならば、部活より授業の時間を減らしてほしい。

 それにしたって今日は暑い。ファミレスの窓から見る五月の夕焼け空は、梅雨すら通り越して初夏の風情を醸していた。暑さがあまり好きではない勇馬にとっては、これから先の季節は想像するだけで少し憂鬱だ。

「お待たせいたしました、チョコレートサンデーです」

 ウェイトレスの声がした。勇馬は手を挙げて応じる。

「はい、ありがとうございます」

「ご注文は以上でお揃いでしょうか」

「はい」

 必要最小限の言葉でもって返答する。相手の質問など半ば聞こえていないようなものだった。今、勇馬を支配するのは目の前にそびえるスイーツの山のみ。

「ごゆっくりどうぞ」

 ウェイトレスさんが小さく頭を下げてテーブルを去ると、勇馬は待ちくたびれたと言わんばかりに朗らかな表情で手を合わせる。

「いただきます!」

 スプーンでアイスと生クリームを掬い取り、大きく開けた口の中へ運ぶ。

「――美味いっ!」

 感動が心の奥底から溢れ出した。やはり一日頑張って疲れた時には甘いものに限る――なんて一人で幸福に浸っていると、向かいの席に座っている真庭諜廼と安東慶彦がため息をついた。

「相変わらず勇馬は甘いものが大好きだねぇ」

「てっきり辛いのがダメだから甘いものばかり食べてるのかと思ってたけど、これはガチのヤツだな」

「まぁ、勇馬の甘党はっぷり置いておくとして――注文も揃ったわけだし、そろそろ本題に入ろうよ」

「ん、そうだな」

 とは言いつつ、勇馬はチョコレートサンデーを食べ進める手を止めない。溶けてしまうともったいないし、ものを食べながらでも会話はできる。

「さっき学校でも言ったけど、二人にはちょっとばかり知恵を貸してもらいたいんだ」

「勇馬はバカだからなぁ」

「その通り、おれはバカだ。だけど『三人寄れば文殊の知恵』って言葉がある通り――」

「その言葉を知ってることにぼくらは驚きだよ」

「ちょっと黙ってろ」

 友人たちの煽りにも怯まず勇馬は語り続ける。

「とにかく、助けてくれ。お礼と言ってはなんだが、今日のお代は全部おれが持つ」

「……んー」

 諜廼は納得がいかないように首を傾げていた。

「どうした、何か不満か?」

「いや、不満っていうか……助けてくれと言われても、何のことかわからない以上どうしようもないっていうか」

「……確かに、まずはそこを話さないとだな」

 勇馬の語気が急に弱々しくなった。コイツ、本当にバカだ――諜廼と慶彦は先行きに一抹の不安を抱く。

「えっと、どこから話すべきかな」

 勇馬は少しずつ己の記憶を辿る。そう、それは確か――。




 昨日の朝、ホームルームが終わると、クラス委員長の菅井美希が立ち上がって教壇の前に立った。何が始まるのかと怪訝に思う勇馬であったが、その内容は程なく彼女の口から語られることとなった。

「今から、クラスTシャツの背中に記入する漢字の希望を取ります。各列に用紙を回すので、一枚取って後ろに回して下さい」

 成る程な――勇馬は口には出さずに頷いた。

 クラスTシャツとは聞いての通り、クラスの団結を図るために自分たちでデザインしたお揃いのTシャツのことである。黒地をベースに、胸の辺りにはオシャレな筆記体で書かれた英語(勇馬には読めなかった)が、背中には『ARISA』とか『MAHO』のようにクラスメイト全員の名前が輪になって書かれている。今回のアンケートは、その内側に各自好きな漢字一字を入れようという趣向だ。

「締め切りは本日の放課後です。全員分を揃えて職員室へ持って行くので、それまでに提出をよろしくお願いします」

 美希は伝えるべき用事を伝えると、二つに結んだおさげヘアーを揺らして速やかに教壇を後にした。相変わらずメリハリのはっきりした仕事ぶりでつくづく感心してしまう。男女共に(勇馬とは少し違った意味で)バカな人が多い一組をまとめられるのは彼女と男子の学級委員を務める橘幹久くらいのものだろう。

 ともあれ――勇馬は手元に回ってきた用紙を前にして頭を抱えた。好きな漢字と言われても難しい。ありきたりすぎても面白くないので、友情とか団結を連想させる漢字は極力避けたい。自分の名前を使うのもカッコイイとは思うが、『勇馬』だとどちらを選ぶかで印象が大きく変わってくる。背中に堂々と『勇』の文字を刻むのは小恥ずかしいし、『馬』を書いて動物を連想されるのもばつが悪い。

 はてさて、どうしたものかと一人で頭を悩ませていると、

「随分とお困りのようね」

 と声をかけられた。見ると、今しがたみなの前で流麗な語らいを披露していた顔があった。一年一組のクラス委員長を務める菅井美希、その人である。

「瑞原くんはこういうの苦手でしょ」

 美希はそう言って勇馬の右後ろの席に腰かける――そういえば近くの席だった――と、シャーペンを取り出して続けた。

「わたし程度で良ければ力を貸すけど?」

「じゃあ頼むわ。おれにはサッパリだ」

「そうね。瑞原くんとしては、何か『こうしたい』みたいなイメージとか方向性は決まってる?」

「おれらしい字にしたいなぁとは思ってるんだ。『絆』とか『誠』とかは他の人たちとカブりそうだからなるべくナシにしたい」

「同感ね。どちらも字としては素敵だけど、いささか陳腐だわ。特に『絆』なんて、卒業アルバムの表紙とか、クラブチームのスローガンとか、この手の行事にはまさにもってこいじゃない。面白味に欠けるわ」

 勇馬の目に映る美希の表情はいつもよりいくらか朗らかに見えた。教室ですれ違う菅井美希はもっと真面目一直線で少しおカタい印象を与えがちなのだが、何と言うか――楽しそうである。賢い彼女のことだ、頭を使う課題が好きなのかもしれない。

「わたしからの目線だけど、そうね――瑞原くんと言えばやはり走ってるイメージが強いわ」

「『走』はおれも考えたけど何かダサくないか?」

 勇馬の意見に対し、美希は右手の人さし指を振って否定の意を表した。

「だったら『走』からさらに連想していけば良いのよ。たとえば、『風』とか『疾』とかね」

「あー、それは名案だな」

 流石は優等生。勇馬は小さく唸った。

「それか、『走』だとカッコ悪いなら、漢字の音を取るっていうのも面白いわよ」

「どういうことだ?」

「『ソウ』という音読みから連想して、『爽』とか『壮』とか。前者は走り抜ける感じがあるし、後者は強者の印象を与えられて良いと思うわ」

「成る程」

 ダジャレというか、小粋なジョークの類か。そんなものまで思いつくとは。

 美希に頼りっぱなしでは悪いと思い、勇馬もない知恵を振り絞ることにした。どんな文字が良いだろう。陸上であるとか、走るであるとか、そういった語句から連想される漢字は――……。

「速いものっていうイメージには持っていけるんだけどなぁ……どうもピンとこないって言うか」

「一応、何か思いついた字はあるの?」

「『矢』と『星』だな。どっちもダメだ。何かイタい感じがする」

「となると、あとは『駆』とか――」

「それはダメだな。三組にその字を使う、カケルって名前のヤツがいる」

「友人の名前を使うのは確かに少し恥ずかしいわね」

「何か気持ち悪いよな」

 勇馬は苦笑しつつ、「でも」と続けた。

「さっき菅井が出してくれた中で『疾』と『爽』が気に入ったし、その辺から考えてみようと思う」

「あら、それなら良かった」

 美希が安堵したように微笑むのと同時に一校時目の担当教師が教室に入って来た。授業開始まではまだ若干時間があるが、早めに準備をしておく方が良いだろう。

「助かったよ。これで放課後には間に合いそうだ」

「いえいえ、気にしないで。困った時はお互い様だもの」

 会話はそこで終わるかと思われたが、その瞬間、勇馬は不意に疑問というか好奇心のようなものが湧き上がった。

「そういえば、菅井はどうするんだ?」

「ん? ああ、わたしの字ね――」

 美希は得意げな笑みを作る。

「わたしも瑞原くんと同様、自分らしい一文字にするつもりよ。何かはまだ内緒だけど」

 美希はそう言ってにこりと笑った。先程見せた安堵のそれとは異なり、少し茶目っ気のある笑顔だった。それと同時に授業開始のチャイムが鳴った。

「じゃあ、答え合わせはTシャツが届いた時にでも」

「ああ、楽しみにしておく」

 今度こそ会話は終わった。勇馬を含めたクラスの全員が教室の前方を向くと、教壇に立つ教師が口を開いた。

「それじゃあ、クラス委員長は号令を頼む」

「はい。起立」

 右後ろから聞こえた美希の声はすっかりあの生真面目なクラス委員長のそれに戻っていた。本当に大したものだと改めて感心しつつ、勇馬は声に従って立ち上がった。




 そして翌日――今日の朝。

 いつものように朝のホームルームが終わると、陸上部の顧問でもありながら生活指導も担当する石崎先生が一年一組の教室に入って来た。石崎先生は分厚い手のひらで教室の扉を開くと、首から先で覗き込むようにして声を張った。

「菅井美希はいるか」

「はい、こちらに」

「ちょっと来い」

「わかりました」

 美希は石崎先生の元へ向かうと、そのまま彼に連れられるようにして教室を去った。

 勇馬は石崎先生の語気に聞き覚えがあった。あの巨漢のあの声はよく知っている――部活動中、先輩や同期が怒られる前の、あの声だった。

 しかし、その予感が正しいとすると一つ謎が生じる。石崎先生が呼び出したのはクラス委員長を務める優等生、菅井美希だ。あの真面目で小粋な彼女が怒られるようなことがあるだろうか。

 胸に燻る不安に耐えかねて、勇馬は二人を追うために教室を飛び出した。




「……で、その後は?」

「おれの予想通りだったよ。菅井は生徒指導室に連れて行かれて、その中からあの怒鳴り声が聞こえた」

 慶彦の問いに、勇馬は深刻な面持ちで答えた。諜廼はそれを聞くと引きつった笑みを浮かべる。

「ひゃー。ザキさん容赦ないなぁ。女の子相手にマジギレか」

「しかも真面目でしっかり者の菅井さんに、だよね。何でだろう」

「そこがわからないからおまえらの力を借りたいんだよ」

 深刻そうな顔で言う勇馬。美味しそうなスイーツが脇にあるせいでいまいち緊張感が伝わりづらいのが惜しいところだ。

「まぁ、おれと慶彦の力くらいいくらでも貸せるけど、その前におれから質問したいことが二つある」

「……何だ?」

「一つ目」

 諜廼の人差指がぴんと立つ。

「ザキさんに怒鳴られて、その美希ちゃんはどうだった?」

 見ず知らずの女を馴れ馴れしく呼ぶかと思う勇馬だったが、今そこを追及するのは余計なのでやめておく。

「泣いてるとかはなかったよ。教室に戻って来た時の様子だと、むしろ少し怒ってるような気がした」

「へぇ。あのオニ教師に怒られたってのに、大した度胸だねぇ」

 慶彦は他人事のように言ってのける。こっちはこっちで事件を面白半分に捉えている気がするのだが信頼して大丈夫だろうか。

 諜廼は小さく頷くと、続けて中指を立てた。

「二つ目。おれと慶彦は何をすれば良い?」

「確かにそれは思ったね。今の話を聞いた限りじゃ、諜廼はともかく、ぼくは力になれそうもない」

 諜廼も勇馬も、慶彦のそれが謙遜であるのはわかりきっていた。彼ほどの博識がこの手の局面で役に立たないはずがない。ゆえに、慶彦の妄言はそのまま流す。

「何て言うんだろう……だから、そういう事件があってな。おれだけじゃなくて、教室全体が動揺してたんだよ。クラスのまとめ役が何か問題を起こしたのかって」

「……ふむ」

「おまえらは知らないだろうけど、一組は男女共々仲が良くて明るい反面、バカで自制が効きにくいクラスでもあるんだ」

「おまえが言うか」

「うるせぇ。……とにかく、そんなクラスをまともに統率させられるのは菅井くらいしかいないんだよ」

「でも、その美希ちゃんに謎の嫌疑がかけられてしまった」

「まとめ役を失ったクラスは崩壊する、と」

「若干大げさな気はするけど、まぁそういうことだ。菅井の疑いを晴らすために、アイツが怒られた理由を考えてもらいたい」

 諜廼も慶彦も勇馬の言いたいことはよくわかった。特に慶彦は勇馬との付き合いが長いから、彼の性格は熟知しているつもりでいる。自分の勉強すら面倒がるくせに誰かのために行動しようとする辺り、まさに勇馬らしい。

 けれど、一方で少し引っかかる点もあった。

「何で菅井さんなの?」

「どういうことだ?」

「いや、勇馬が誰かのために動く時って、大抵、仲の良い男子のためじゃん。知り合ってひと月程度の女子相手にそういうことする人だったかなって思ってさ」

「別に、世話になったからその恩を返したいだけだ」

「成る程ね。まぁ、それもそうか」

 慶彦は笑顔で頷いたが、疑問はまだあった。これから美希が叱責された理由を解き明かしたとして、一組の美希に対する信頼は復活するのだろうか。もし仮に美希が本当に激怒されるに足るだけの悪行を陰で起こしていた場合――。

 そこまで考えて、慶彦は思考をやめた。勇馬から解明を頼まれたのは、菅井美希が怒られた理由そのものである。そこから先は一年一組の問題だ。頼まれていない部分まで部外者が口出しするべきではない。

「でも、どうやって推察していくの。美希ちゃんが何してたかなんてわかったもんじゃないでしょ」

「まずは勇馬の考えを聞いてみたいね」

「……あまりアテにしないでもらいたいけど、おれはクラスTシャツの件に関すると思ってる」

「何で?」

「廊下でザキさんの怒鳴り声を聞いてたら、『おまえは学校を何だと思っている』って聞こえてきたんだ。学校の何かに関することで、最近あった出来事は何かって考えた時、クラスTシャツが真っ先に浮かんだ」

「悪くないね。ぼくもそれに同意だ」

「えっ? 安直すぎないか?」

 慶彦と諜廼で反応が分かれた。

「そうかな。校内で起こった問題ならば即刻対応するのが教員の務めでしょ。で、ザキさんが菅井さんを呼び出したのは今朝のホームルーム後だった。登校してからホームルームまでの一時間足らずで何か問題をやらかした可能性よりは、前日の放課後に焦点を絞る方が賢明だと思うよ」

「ああ、放課後に用紙を職員室へ持って行くって言ってたし、それで良いと思う」

「成る程……」

「じゃあ、クラスTシャツ関連で何が起きたかだな。……」

 そこで沈黙が訪れる。

「……何かあるか?」

「ぼくに聞かれてもねぇ。勇馬は?」

「無理だな。ていうか、そこがわかればおまえらに頼んでない」

「よし、勇馬。ザキさんの怒鳴り声の中で記憶に残ってる言葉はまだあるか?」

「えっと、確か……悪い、大体でも良いか?」

「良いよ」

「何となくなんだけど、高校生がどうとか、健全な育成がどうとか言ってたよ」

「酒とかタバコとか?」

「否定はしきれないけど、Tシャツとどう繋がるのかわからないね」

「もしそうだったら、石崎の怒りはもっともだよな……」

「だね。ぼくらが真剣に菅井さんのフォローする理由もなくなる。正誤のほどはさておき、この可能性は真剣に議論すべきじゃない」

 勇馬と慶彦は推理を立てて真摯に話し込む。

 諜廼にはその様子がいささか意外だった。面白いことが好きな慶彦がはまぁわからないでもないが、勇馬は走りに関することを除いては基本的に淡泊な性格をしている。先程は恩返しがどうとかクラスのまとめ役がどうとか言っていたが、それを考慮してもここまで真面目に考えるものだろうか。

 勇馬の思惑が読めないでいる諜廼だったが、いつの間にか無関係な方向に思考が逸れてしまっていたことに気づいた。いけないいけない――心の中で呟き、元のテーマに戻る。

 優等生でクラスからの信頼もあり、小粋なジョークも得意な美希が何らかの理由で生活指導の教員の逆鱗に触れた。

 勇馬と慶彦は原因は先日のTシャツに関連するものと見ている。

 ……。

「なぁ、流石に情報が少なすぎないか?」

「諦めるならそれでも良いぞ。無茶を頼んでるとは思うし」

「いや、そうじゃなくて。ここでいくら知恵を絞っても、このままじゃ流石に埒が明かないと思うんだよ」

「……何か考えがあるみたいだね。聞かせてもらおうか」

 諜廼は一旦間を置いてファミレスの時計を確認した。デジタル時計の数字は午後六時を示している。この時間なら――。

「今から学校に戻ろう」




 ファミレスから繚蘭学園までは十分程度で着く。帰りの方面に向かって歩いて行く同じ制服を着ている生徒たちと幾度もすれ違いながら、三人が目的地に到着したのは午後六時半の少し手前であった。諜廼の提案を受けた勇馬が「疲れてるから歩きたくない」だの「チョコレートサンデーをゆっくり味わいたい」だのとごね、それを宥めたあと早食いを見守る時間があったので、概ね順調な道中であったと言える。

「それじゃあ頼むぞ勇馬」

 職員室の扉の前に立つと、諜廼が神妙な口ぶりで言った。

「おれは確か一年一組のクラスTシャツに関するアンケート用紙を回収してくれば良いんだよな?」

「最悪、持ち出しがダメなら自分のが提出されてるかどうかを確認するフリをして美希ちゃんのを盗み見てやれ」

「何か人聞きの悪い言い方だなぁ」

 勇馬は眉をひそめて愚痴ると、スクールバッグを下ろして職員室の扉をノックした。

「一年一組の瑞原勇馬です。担任の先生に用があって来ました」

「どうぞー」

 室内から女性教師の声が聞こえた。勇馬は諜廼と慶彦の方を見て小さく頷くと、教室の中へと進んで行った。さながら戦場へ赴く兵士のような顔であった。

 扉が閉まると慶彦が不安げに口を開く。

「勇馬に務まるかなぁ」

 正直それは諜廼も思った。口にするとフラグみたいになるから言わないでおいたのに。

「ぼくか諜廼が一組なら良かったんだけどね」

「それを言っちゃダメだろ。それにしても、慶彦は随分と勇馬に協力的だけど――何か理由でもあるのか?」

「大した理由じゃないけど、勇馬が一生懸命だったからかな。諜廼も何となく気づいてるだろうけど、勇馬が自ら進んでクラスのために何かをしようとするのはぼくには結構意外でね。少なくとも中学時代までの陸上バカなアイツじゃ考えられなかった」

 そういえば二人は小学校からの付き合いか――なんて思い出しながら諜廼は慶彦の話に耳を傾ける。

「それだけあのクラスが気に入ってるってことなのかな。中学の時の知り合いも多いしね」

「あ、そうなんだ」

「同じ陸上部だった女子が三人いるんだよ。異性と話すのが苦手な勇馬には幸運かもね」

「へぇ」

 諜廼の相槌はぞんざいなものだった。

「まぁ、勇馬は女の子とか全く興味なさそうだけど」

「そうなんだよ! せっかくあの見た目と足の速さがあるのに、何てもったいない!」

 慶彦の口調はえらく高揚していた。というか――足の速さが女子の人気に繋がるのは小学生の話なのではないか。疑問に思わないこともなかったが、諜廼自身、日本の小学校に通っていなかったため深く議論できないのが歯がゆい。

「せめてもう少し愛想ってものを覚えれば良いのになぁ。ああいうのを宝の持ち腐れって言うんだろうね」

「……羨ましいのか?」

「いや、別に? ただ、選択肢はあった方が良いよねって話。かく言う諜廼こそ、どうなんだ?」

「何が?」

「諜廼だってクラスじゃモテモテじゃないか。一人くらい良い人がいると思うけど」

「うーん……」

 別に今のところは誰かと恋仲になりたいとかはない。せっかくの高校生活だし、恋をしたいというのはもちろんあるが――『恋をすること』自体を目的にしてしまうのは相手に失礼ではないだろうかとも思う。

「……まぁ、ぼちぼち考えるよ」

「意外とマイペースなんだね」

 別に早い方が良いものでもないだろう――と言おうとしたところで職員室の扉が開き、勇馬が出てきた。

 二人の視線が勇馬に向く。慶彦に愛想がないと評された、その端整な顔は――お世辞にも晴れやかな表情をしているとは言えなかった。




 総下校時刻の午後七時が迫っていたため、三人はひとまず校舎を出た。今は三人揃って帰り道の途中にある小さな公園に屯している。勇馬と慶彦には馴染みの場所で、昔から放課後などはここで遊んだりしていた。運が良いと別の高校に進んだ旧友と遭遇したりもする。それほど彼らには所縁のある場所なのだ。

 ベンチに荷物を置くと、諜廼と勇馬はそのまま座った。慶彦だけが踵を返し、近くの自販機へと向かって行った。

 自販機の前に立って品定めをする慶彦――その背後に向けて、勇馬が言う。

「慶彦、アレあるか?」

「うーん、ないねぇ。第一、アレって冬限定でしょ?」

「流石にないか。じゃあおれは無しで良いや」

「はいよー」

 慶彦はそう言うと自分の分の麦茶だけ購入して戻って来た。ベンチに座っている二人と向かい合わせになる地点で足を止めると、最初の一口を飲んでから、勇馬に向けて一言。

「で、どうだったの?」

「どうって言われてもな……」

「職員室から出て来た時の顔を見れば、良い情報を得られなかったのはわかった。問題は『何の情報も得られなかった』のか『悪い情報を得た』のかだ」

「後者の方だな」

「そっちか……」

 慶彦の言葉には落胆の色が窺えた。ともすれば、彼は前者の可能性を望んでいたのかもしれない。

「聞いておこうか。何を知ったのか……」

「って言っても、おまえらに頼まれた通りだよ。おれが職員室でやったのは、クラスのアンケート用紙を見せてもらって、その中にあった菅井の一文字を確認した。ただそれだけだ」

「つまり、菅井さんの書いた一文字こそが『悪い情報』だったってわけだね」

 勇馬が重々しく頷く。

 そして。

「菅井が書いていたのは『酒』だった」

「……」

 奇妙な沈黙が過る。そして、

「えっ? 『酒』? あの、アルコールの? 大人たちが好んで飲むやつ?」

 諜廼は口を閉ざし、慶彦は大きく驚きを示した。

「ああ」

 勇馬は重々しく答える。そこに含まれる感情が落胆であることは、もはや言うまでもない。

「……何か、残念だね」

「あんな字を書いたら教師の反感を買うのは当たり前だ」

 勇馬がそう言うと慶彦は脱力して地べたに屈みこんだ。その瞳からはすっかり意気が消えている。漏れたため息は菅井美希への失意に他ならない。まさか学級委員長ともあろう人物が、それを書いてどうなるかも予測できなかったのか。

「何だろう、くだらないことですごく時間を無駄にした気がする。結局意味もわからないし――」

「そうか? おれはわかったぜ。確かにくだらないけど」

「「えっ」」

 諜廼が平然と言うと、勇馬と義彦が口を揃えて目を丸くした。

「どういうことだよ?」

「多分勇馬にはわからないだろうけど、慶彦なら案外すぐピンと来ると思う」

「……何かムカつく言い方だな」

 諜廼は立ち上がり、電灯のふもとまで歩いた。地面に落ちていた木の枝を取り出し、地面に文字を書き出す。

 程なくして諜廼が書いたのは『酉水』という漢字二字だった。

「読める?」

「みず……」

「勇馬には期待してない。そもそも『みず』って読んだらダメだし」

「マジかよ、じゃあ無理だな」

 勇馬の清々しさに一瞬呆れかける。一方で、慶彦は何かに気づいたらしく、はっと目を見開いて砂地に書かれた文字を見ていた。

「……慶彦はわかったか?」

「……『すがい』だ」

「その通り」

 慶彦が呟き、諜廼が肯く。

こうなると一人、真性のおバカさんが取り残されてしまうのが残念なところ。勝手に納得する二人に置いていかれた勇馬はいささか不機嫌そうに割って入る。

「ちょっと待ってくれよ、どういうことだ」

「あの漢字、『すがい』って読むんだよ。菅井さんの名字と同じ音だ」

「部首のさんずいが水を表すのは聞いたことあるだろ? それに酉を加えれば、『酒』になる。もちろん『菅井』も『酉水』も二字だから、Tシャツに記すわけにはいかない」

「つまり――『酒』は菅井が言ってた通り、自分らしい一文字っていうことなのか?」

「まぁ、多分そういうこと」

 諜廼の返事は苦笑と共にあった。

 その表情を浮かべてしまう気持ちは勇馬にもわかる。確かに小粋なシャレも詰まっているし、美希にぴったりな一文字かもしれないが……だからといって未成年が法律で禁止されているものを書こうなんて、いくらなんでも馬鹿げている。

「そりゃあ怒られるよな」

 それをこぼしたのは誰であったかはわからないが、ひとまず謎が解けた安堵と、それ以上の徒労感で思わず口を衝いた台詞であったのは間違いなかった。




 それから一週間ほどが経った日。注文したTシャツが届いた。

「それでは順に配っていきます。名前を呼ばれた人から前に来て受け取って下さい」

 いつものように菅井美希はてきぱきと話を進めて行く。先週に一年一組に流れた嫌疑はすっかり消え失せていた。というか、そもそも嫌疑と呼べるほどの揺れなど、初めから存在していなかったのかもしれない。バカなクラスメイトに対して勇馬が少し神経質になっていただけなのだろう。つくづく良いクラスだと途方に暮れる。

 クラス全体にTシャツが行き渡ったところで、真島有沙がこのTシャツを着て写真を撮ろうと提案した。周りのメンバーがそれに同意して急遽写真撮影会が開かれることになったのだが、そこはもう重要ではないため割愛する。

 ただ――その時見かけた美希の背中に刻まれていた文字が『絆』であったことに、勇馬はやり切れない思いを抱かずにはいられなかった。


※本作は筆者が別所にて執筆している『繚蘭学園シリーズ』より傑作選として掲載したものです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ