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「人肉料理店」

 

 

 【人肉料理店】

 

 

 世界には、様々な文化がある。

 だが、我々には信じられないような異様な食べ物も、食べてみると意外とおいしい、むしろやみつきだ――そういう事は珍しくない。

 そうした風に、どんな文化とも仲良くできるはずだ。

 私は、そう信じていた――少なくとも、あの日までは。

 

 

 あれは私が、この国に転勤してきて7ヵ月目の事だったと思う。

 その夜、私はオフィスに籠ってシステムのコードを組み直していた。クライアント側が、唐突な仕様変更を命じてきたのだ。この国のビジネス・シーンでは、このような事態は少なくない。

 既に他の社員は帰宅していた。私と直属の上司は電灯の大部分を消したオフィスで、黙々とパソコンの画面に向かっていた。

 時計の針が9時を回った頃だったか、私が疲れ果てて目頭を揉みほぐしていると、上司が話し掛けてきた。

 

 「どうだ、そろそろ一緒にどこか食べにいかないか」

 

 その上司はつねに部下を気遣おうとする理想的なビジネス・パーソンであった。異国人である私がいち早くこの国の会社に溶け込めたのも、彼のおかげである。

 その日も、空腹で今にも倒れるばかりだった私を気遣って声を掛けてくれたのであろう。

 ――勿論、私は一も二も無く提案に乗った。

 

 

 私達はふらふらとした足取りでオフィスを出る。今や口に入るモノなら何だっていい――そんな気分で、手ごろな店を求めて近くの大通りをぶらつく事にした。

 だが、大してレストランも無いオフィス街の片隅である。

 普段なら大勢の人が行き交うストリートもすっかり静まり返っており、ときおり車の走行音が薄暗いビルの間に大きく響き渡っていた。

 「疲労困憊」。まさしくこの4字がピッタリな私達の間に、とりたてて会話が交わされる事は無かった。

 気まずい――どこまでも無慈悲な沈黙に耐えながらも、しばらく通りをふらついていたその時だった。

 ふと、私は薄暗い路地の一角から漏れる光に気付いた。辺りには、肉と脂をどろっどろに融け合うまで煮詰めた濃厚な臭いが充満している。

 

「食い物だ」

 

 思わず、本能を露わにした言葉が口からほとばしる。

 私は救われたような心地で路地を覗いた。

 

 

 ――果たしてそれは、こじんまりとした料理屋であった。大通りから数歩奥まった路地の暗がりに建つビル、その入口に古ぼけた黄色い看板が掛けられている。おそらく店名だろうが、未だこの国の文字を覚えられていなかった私にはそこに何と書かれているのか読み取る事は出来なかった。

 しかし、店の曇ったガラス戸からは暖かな光と料理の音が漏れている。どうやら営業はしているようだ。

 兎にも角にも話は後だ。一刻も早く食事にありつきたい一心で私は上司の方を窺った。

 ……ところが、上司はそんな私を見て眉を顰め、険しい表情を形作っている。

 

「……一体、どうしたのですか?」

 

 そう私が問いかけると、上司は顔を寄せて小声で囁いた。

 

「これから何を見ても、決して驚くんじゃないぞ」

 

 普段温厚で笑顔を浮かべている上司の、苦々しげな顔に私は驚いた。

 だが……それはどういう意味かと問い返そうとした時には、彼はもう料理屋に入店していた。私も慌てて追い掛ける。

 

 

 その料理屋は、やたらと奥に細長い形状の店であった。ちょうど、スラム街のアパートメント・ビルのようだ。

 店の天井は奇妙に低く、店内の壁や床は、油汚れのため電球の光を受けてぬらぬらと光っている。

 店内は長いカウンターで縦に分けられており、カウンターに囲われた右半分が厨房、左半分が客のためのスペースになっているようだった。カウンターには数人の客が座っている。店の外見とは裏腹に、意外と客足がいいらしいぞ。

 しかし彼らを見ている内に、私は妙な事柄に気が付いた――私達が店内に入店してからというもの、彼らは誰ひとりとして会話を交わす事無く、じっと厨房を見詰めているのだ。

 そしてカウンターの向こう側、狭い厨房には薄汚れた調理器具が並べられていた。その中で小さな初老の老人が、ドラム缶ほどもある大鍋を掻き回している。鍋の中には黒い汁がなみなみと注がれ、ぐつぐつと煮立っているようだった。

 老人はこちらに背を向けていて、顔は見えない。

 辺りに漂っていたせ返るようななまぐさい臭いはその鍋から発せられていた。もうもうと室内に満ちる湯気が、あらゆる窓ガラスを曇らせる。

 店の中は静寂に包まれていて、大鍋のぐつぐつと煮立つ音が狭苦しい店内に響くばかりだった。

 

 

 店内の異様な雰囲気に私は戸惑った。何かがおかしい……この国に来てからというもの、色々な料理店や屋台で不思議な料理を味わってきた。だが、こんな店は初めてだ。

 ところが、上司の方を見ると彼は入口脇の券売機チケット・ベンダーで食事券を発券していていた(この国の飲食店ではこのような自動化された(オートメーション)システムは珍しくない)。そのまま、目で私にもチケットの購入を促してくる。

 彼はこの店に来たことがあるのだろうか?

 ……何にせよ、チケットを買わねばならない。

 それはよく見掛ける飲料の自動販売機ベンダーを小さくしたような機械だった。機械上部にはドリンクのサンプルが展示されている代わりに、メニューの名前と金額を記したボタンが並んでいる。

 ただ不思議なのは、そのボタンがいやに少ないのだ。機械の左上に、僅かに5、6個ボタンが光っているだけである。たった6個しかメニューが無い料理店なんて、聞いた事が無い。それなら、券売機チケット・ベンダーなど導入する必要がないではないか。

 私はやはりメニューの文字を読み取る事が出来なかった。上司に聞くのも恥ずかしい話だ。こんな事なら、多少はこの国の文字を学んでおくべきだったと後悔する。

 しかし、左のボタンから右のボタンへとだんだんメニューの名前が長くなっている事は私にも分かった。名前が長くなるに従って、金額も少しずつ上がっているのが見て取れる。

 そう言えば、さきほど上司は右端のメニューを買っていた。最も名前が長く、高額なメニューだ。何も分からない身であるが、私もそれに倣う事にしよう。幸い、お金はある。

 

 

 ――ところが、不可解な事が起こった。

 私が右端のボタンを押そうとした瞬間……後ろで見ていた上司が、突如厳しい表情で私の腕を掴んだのだ。

 凄まじい力だった。

 何が起きたのか分からず身を竦ませていると、彼はすっと私の耳元に顔を寄せてきた。そして、

 

 

 「それは、やめておいた方がいい」

 

 

 と、静かに言い切った。

 先程見せたような、物凄い表情だった。

 その剣幕に圧され、何も言い返せないでいる内に――彼は勝手に、左端のボタンを押し込んでいた。最も短いメニュー名のボタンだ。

 ベンダーのトレイに、プラスチック製の食事券が吐き出される。彼はそれを素早く掴み取り、無言で私の手の中にねじ込んだ。――そして何も言わないまま、彼はカウンターの方へと歩き出し、入り口近くの椅子におもむろに腰掛けたのだった。

 

 

 私は店に着いてからの上司の異状に、何か言いようもない不安を覚えていた。まるで人が変わってしまったようだ……。

 上司の顔色を窺いながら、おそるおそる、上司の右隣の椅子につく。

 ……しかし、私の方に向き直った上司は笑顔を作り、さっきは済まなかったね、と詫びた。まさしくいつも浮かべているような、温和な顔だ。

 

「いやね、あれはこの店に慣れてない人が食べるべきじゃないものなんだ。頼んだら大変な事になる。

 大丈夫、これなら君も食べられるだろう」

 

 大変な事になる、とはどういう事なのだろうか?

 この店の料理には何か有害な食材でも用いられているというのだろうか。

 ――だが、コックや他の客の前でそのような質問を口に出来るはずも無い。ただ、私は上司の笑顔に心の底から安堵し、店への警戒心を解きつつあった。

 よくよく考えてみれば、妙な話では無い。

 この国に来てからと言うもの、私には慣れない味の料理は少なくなかった。ついさっき上司が注意をくれたのは、そういった意味だろう。

 客が無言なのも、私達のような残業で疲労したビジネス・パーソンばかりのために違いない。働き過ぎですっかり時間感覚が狂っていたが、もう夜なのだ。

 緊張を脱したためか、抑え込まれていた空腹が急激に勢力を取り戻し始める。私の口内には、ホテルの風呂桶バスタブのように唾液が充満し始めていた。

 

 

 そうしてしばらく待っていた頃だった。時間にして、およそ数分ほどだろうか。

 厨房で鍋を見詰めていた老人がゆらりと動いた。そのままゆっくり、カウンターの一番奥に座っている客に近づいていく。

 だが、料理を手にしているわけではない。

 ……何だ? 私達は既に購入した食事券を老人に渡していたし、店に詰めていた客も皆そうであるはずだ。今さら注文を聞くためでは無いはずである。

 ……とすれば彼が客のもとに来た理由は何であろう。そうだな……客のグラスに水を注ぐため、とかだろうか? 随分と珍しい、サービスの行き届いた店である。

 そんな考えを巡らしていた私をよそに、老人は客の前へ直る。

 老人は低くくぐもった声でこう呟いた。

 

 

 「ジンニク、入れますか?」

 

 

 ――私は耳を疑った。

 未だこの国の言語に不慣れな私ではあったが……その言葉は聞き違えようがない。

 今、あの老人は間違いなく、"ジンニク"――「人間の肉」を入れるかどうかと、客に問うた!

 老人の言葉を聞いているのかいないのか、客はぼそぼそと何かを呟き返した。

 

「…ジンニク……………シ、……サイ…………カラ……」

 

 それは呪文のように早口で、理解ができない言葉だった。私もこの国の言語はそれなりに習得したつもりだったが、このような言葉は聞いた事が無い。……だが、その中に「ジンニク」という言葉が混じっているのは私でも聞き取れる。

 老人は客の言葉を聞き終えると、すぐさま隣の客に向かって「人肉ジンニク、入れますか?」と質問を投げた。その客も、同じように何やら呪文を唱える。

 一体これはどういう事だ――いや、簡単な話だ。この料理店ではおそらく、注文の"おぞましい"内容が外部に露見しないように暗号が使われているのだ。そうに違いない――。

 私は震えながら、厨房のコンロの上で煮立つ大鍋を見た。あの中で野菜や調味料と一緒に、鍋を上へ下へと掻き回され、どす黒くどろどろした液体の中に溶けてゆく脂ぎった肉――――その正体を想像し、私は猛烈な吐き気に襲われた。店内に満ちる臭気に、私は倒れそうになる。

 

「人肉、入れますか?」

 

 老人は既に私の隣の上司のところまで来ていた。私は上司の方をちらりと見る。彼は、こんな事をする人間ではない筈だ。彼だけは……。

 だが、先程私を笑顔で気遣った上司は無表情で、

 

「人肉マシマシヤサイマシアブラカラメ」


 そう口早に呪文を答えた。……それは最早私の知っている上司と同じ人間とは思えなかった。

 私の額には滝のように脂汗が噴き出し、心臓は張り裂けるばかりに脈打っている。嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ――。

 そして老人はついに私の方を向くと、何の感情も込められていない目でこちらを見据え、喋り出した。

 

 「ジンニク、イレマスカ?」

 

 

 

 

 私は急ぎ鞄を掴み取ると、料理屋を飛び出した。後ろから上司が何かを喚いていたが、もはや私の耳には届いていなかった。

 それから私はしばらく職場を休み、その後本社に無理を言って配置換えをしてもらった。……あの上司と、再び顔を合わせる勇気が無かったのだ。

 あの日から、私は肉を食べる気が起きない。

 

 

 

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