お嬢さま、思い出す
朝の肌寒さが昇ってきた太陽で少し緩和された頃。1機のヘリコプターが私立黄梅学園高等部の屋上に降り立った。鯨のような形をしたダークグレイのヘリコプターが、バタバタという騒音を止め大人しくなる。操縦士の林健一がいつものようにみのりたちの方へ回り込み扉を開けた。それを合図にみのりはヘリコプターから降りる。
「ありがとう林さん。帰りは碧の車で帰るから迎えはいらないわ」
みのり、紅、碧の順番で降りている間ずっと礼をしたままでいる林に、みのりは声をかけた。碧と同じような黒いスーツを着ている林は、碧とは違い生真面目なサラリーマンにしか見えない。きっちり7:3で分けている髪型が、余計に彼をそう見せているのだろう。
「承りました、お嬢様。いってらっしゃいませ」
碧の運転で帰宅することは良くあることだった。だから、不自然に思われないはずだ。操縦士の普段通りの返事に内心で安堵しながら、みのりは労いの言葉をかける。
「ええ、いつもありがとう。林さんも帰りの操縦、気をつけてね」
林の礼を背に、みのりは歩き出した。あと少しで室内への扉を開くというところで、後ろを歩く碧が小声で話しかけてくる。
「お嬢様、では予定通りに」
「わかっているわ。それより碧はこのまま出て行くの?」
みのりは、昨晩遅くまで話し合ったことを脳裏に浮かべる。
『お嬢様この際ですから、黄金梅の実を実らせて、お嬢様の願いを叶えるというのはどうですか?』
碧からもたらされた提案は、黄梅に住んでいる人なら誰でも知っている伝承の1つだった。この土地を古くから治めている梅宮が先頭となり守り続けている黄金梅。その実を実らせた者にはどんな願いでも叶えられる。そんな言い伝えだ。多くの人はこの伝承を昔話程度にしか認識していない。だが、次期当主である自分はこの伝承が真実だと知っていた。だからみのりは家出とともに黄金梅の実を実らせることにした。黄金梅のせいで家に縛られ続ける自分を解放するために。そのためにはまず種を植え、鍵となる物を採取しなければならない。幸いにもみのりは当主の娘だ。第1の種を手に入れることは比較的簡単だった。あとはそれを植えるのみだ。この計画を遂行するためには、自分たちの家出が気づかれないほうがいいに決まっている。無計画のまま飛び出していたら、すぐに捕まっていただろう。そうすれば当分の間監視は強くなり、強制的にお見合い。もしくは結婚までさせられていたかもしれない。みのりは自分の考えの浅はかさに寒気を感じた。
(碧の言う通りね。私が学校へ行っている間に逃走準備を碧に確保してもらう方が、あの人たちを欺けるわね)
「ええ、昼間の内にできることをしておこうと思っています」
「そう。頼むわ」
緊張のせいか、声が普段よりも出しにくい。みのりは肩の力を抜くため深呼吸をした。そしておもむろにスカートを触れる。ポケットの中には、昨日宝物庫から盗み出した種がある。それを確かめながら、自分に言い聞かせた。
(大丈夫、きっとうまくいく)
そんな自分とは裏腹に、碧と紅はいつも通り噛み合っていない言葉を交わしていた。
「紅、寂しいだろうけど我慢するんだよ。僕はすぐに帰ってくるからね」
「兄さん、大丈夫。お嬢さま。守る。必ず」
碧のとろけんばかりに下がった目尻が、紅の一言で一気に涙目に変わる。
(もう、この二人は…)
自分一人が緊張していたことが、なんだか馬鹿らしくなりみのりは苦笑した。
「紅、僕はそういうことを聞きたいのではなくてね」
「大丈夫。頑張る」
「うん、だからね、紅…」
相変わらず、碧の気持ちが紅には伝わっていないようだ。自分に対してはいつも強気な碧を、こんなにも弱気にさせるなんて。案外紅がこの中で最強なのかもしれない。そう思うとなんだかおかしくなった。みのりは噴き出しそうになるのをこらえながら、二人の会話を聞いていた。
※ ※ ※ ※ ※
1時間目から現国だなんてついてない。睡眠不足の目を必死で開け、みのりは前方を見つめる。教壇の上には現国教師である小越麻里が立っていた。リクルートスーツのようなグレイのスーツを着ていると教育実習生と間違えてしまいそうだ。髪を染めたことがないだろうか。短めの黒髪が、余計に幼さを際立たせていた。しかし、授業を始める言葉は澱みないものだった。
「はい、ではこの間の続きを読んでもらいます。出席番号25番」
25番の生徒が立ち上がり教科書を読み始める。
(出席番号1番は当分当たらないわね)
みのりはそんな予想をしつつ、これからのことを考えた。いよいよ今日から家出生活が始まる。みのりは逸る気持ちを必死で抑えつけていた。
(今頃、碧が色々準備してくれているんだもの。大丈夫よ)
彼に任せておけば心配はない。すべて上手くいく。あの男はそういう男だ。
(私はお母様やお父様に気づかれない内に種を植えることだけを考えればいいのよ)
自身に言い聞かせながら、みのりは再びスカート越しに種の入っている箱を触った。
代々梅宮の家が守り続けてきた黄金梅。黄金色に輝くその実は、どんな願いでも叶えてくれる魔法の実だと言われている。幼い頃からこの実を守り続けることこそ自分が生まれてきた理由だと聞かされ続けてきた。そのことに誇りを持っていた時期もある。だが、嫌になったのだ。自分の存在意義はそれだけではない。梅宮みのりという個人を他者はもちろん両親に認めて欲しくなった。それなのに、その願いは未だ叶えられていない。むしろ悪くなるばかりである。それでも大学を卒業するまでは大丈夫だと思っていた。しかし自分の認識は甘かったようだ。まさか高校を卒業する前にお見合いをすることになるとは思ってもいなかった。
(だいたい、なんで私があんなやつとお見合いをしなくちゃいけないわけ?)
みのりは見合い相手と初めて会ったときのことを思い出そうと、眉間に皺を作る。
(あいつに会ったのは、お母様に認めてもらおうとしてた5歳くらいの頃? だったかしら?)
思い出した。親族の集まりがあると聞き、これ幸いと両親とともに向かった先で出合ったのが最初だ。何をやっても次期当主としての扱いしかして貰えず、その場にいることに嫌気がさし施設を飛び出したのだ。外へ出るとすぐ近くに川があり、近づいてみると青いTシャツに黒いズボン姿の少年が石を川に投げていた。その少年こそが見合い相手、梅畑涼介だった。
同年代の子供と触れ合った機会があまりなかったみのりは涼介の姿を目にしたとき、このまま進むべきか躊躇した。だが、踵を返すのも負けた気がして、みのりは涼介を背後から黙って見ていた。その間も、彼は飽きもせず、ずっと川へ向かって石を投げていた。何がそんなに楽しいのだろうか。幼心に不思議に思い、気づけば涼介に話しかけていた。
「さっきから何をしているのですか?」
涼介は視線だけ向けると、無愛想な口を開く。
「見てわかんない?」
かしずかれることに慣れていた自分にとって涼介の態度は戸惑いとともに、微かな苛立ちを感じさせた。だが、少年はすでにこちらの存在など忘れ、石を投げている。みのりは、涼介の注意を自分へ向かせるべく再度口を開いた。
「わからないから、聞いているのです」
涼介が溜息をつきながら投げようとしていた手を下ろす。そして、面倒くさそうにみのりの方を向いた。
「君、友達いないでしょう」
涼介の口から発せられた言葉は、当時切実な悩みの一つであったため今でもみのりの心に深く突き刺さっている。
(初対面の相手に言う言葉じゃないでしょう!)
みのりは脳裏に甦った、あざ笑うような涼介の顔を打ち消そうと、机を叩き立ち上がった。
「梅宮さん? 質問は手をあげてほしいかな」
目を見開いてこちらを見ている麻里の顔と声で、授業中だったことを思い出す。
「す、すみません。なんでもありません」
クラス中の視線を感じ、顔に熱が集まるのがわかった。しかしそれを周りに悟られないよう取り繕うような笑みを浮かべ、椅子に座る。隣の席にいる紅の心配そうな顔が目に入った。みのりは彼女を安心させるため、大丈夫だという意味を込め静かに首を横に振った。
(これもそれも、みんなあいつのせいよ。梅畑涼介覚えてらっしゃい!)
逆恨みとも言える決意を内心でしていると、授業終了を告げるチャイムが教室中に鳴り響いた。