お嬢さま、決意する
床一面に敷かれているローズ色の絨毯を、柔らかな日差しが照らしていた。中央には、一枚板で作られたテーブルを囲むようにこげ茶色の本革ソファーが置かれている。梅宮みのりは見るからに立ち上がることが困難なソファーに、浅く腰をかけていた。目の前に座る両親からの無言の圧力に、指先が冷え切りは手が微かに震え出す。みのりは気づかれないようそっと手を重ね、父母を覗き見た。
淡い藤色の着物を着崩すことなくソファーに腰かけている壮年の女性が母、梅宮美都子である。白髪混じりの短い髪が彼女のシャープな顔つきをさらに尖らせていた。その隣には父である梅宮忠臣が、深く腰を降ろしている。美都子よりもいくつか年上のはずなのだが、童顔なせいか母よりも年下に見えた。着物の色に合わせているのだろう。ねずみ色のスーツの中に、薄紫のシャツを着ている。
(今日は一体何を言われるの? 早く部屋へ戻りたい……)
両親の視線が、外のうららかな陽気が嘘のように室内の空気を寒々しくさせていた。家族団らんという言葉がこれほど不釣合いな家族はいないだろう。幼い頃から変わらない娘であるはずの自分をどこか蔑むように見つめる母の冷たい眼差し。母親さえいれば他は何もいらないと言わんばかりに、いつも笑顔で母だけを見ている父。彼らの目線を感じるだけで、身体が蛇に睨まれた蛙のように固まるようになってしまった。
(帰宅早々なんなの? もう焦らさないでひとおもいに終わらせてほしい)
学校から帰ると同時に制服のまま呼び出され、すでにどのくらい経っただろうか。みのりはこげ茶色のスカートの上に置いていた手を握り両親からの言葉を待った。
「みのりさん」
永遠にも似た沈黙の中、やっと美都子が口を開く。その声にみのりは無作法にならない程度に下げていた視線を上げた。
「あなたには、来週の日曜日にお見合いをしていただきます」
「えっ? 待ってください、お母様」
みのりは美都子の唐突な言葉に慌てる。だが、最後まで発することはできなかった。忠臣が諭すように言葉を遮ったのである。
「お見合いと言っても、すぐに結婚するわけじゃないんだ。ただの顔見せ合いだ。顔見せ合い」
先ほどよりもさらに増した笑顔で言う忠臣の言葉に、みのりの思考は停止しそうになる。黙ったままでいると了承したとみなされてしまう。何が悲しくて高校生の自分がお見合いなんてしなくてはならないのか。みのりは、なんとか阻止しようと口を開いた。
「で、でも、私はまだ学生の身ですし」
しかし、みのりの反論はあっさりと却下される。
「なーに、心配いらないよ。相手の梅畑家の三男もまだ学生の身だからね、大丈夫だ」
「あなたに拒否権はありません。これは次代当主としての義務です。わかりますね、みのりさん」
口答えは許さないと言わんばかりに美都子から決まり文句が放たれる。鋭利な刃物のような声音で紡がれた言葉は、みのりの気力を削ぐには充分なものだった。
「……はい」
みのりは美都子の視線から逃れるように俯き、小さく了承の意を呟いた。
※ ※ ※ ※ ※
両親から脱兎のごとく逃げ出したみのりは、勢いに任せて自室の扉を開ける。中で待機していた側近である梅田兄妹たちが驚いたようにこちらを見た。だが、みのりはそんな二人に構うことなくクローゼットへと向かう。
「お嬢様、どうされたのですか?」
背後から、低くそれでいて丸みのある男性の声が聞こえてきた。ちらりと視線を向けると、梅田碧が黒いスーツを着崩すことなく近づいてくるのがわかる。古臭い黒縁眼鏡をかけているのにも関わらず、夜の仕事をしていそうに見える男だ。たぶんそれは、アシンメトリーにしている茶色の髪形と眼鏡だけでは隠しきれない碧自身の端正な顔つきのせいだろう。みのりは彼の声を無視して、黙々と奥から取り出したバッグに手当たり次第洋服を詰め始めた。
「お嬢さま、旅行?」
バックに入らなかった洋服を、みのりの隣で片づけ始めた碧の義妹である梅田紅が、小首をかしげながら尋ねてくる。紅も私立黄梅学園高等部の制服を着たままだった。ただみのりとは違い、既に桜色のブレザーを脱いでいる。白いシャツに紅の薄茶色のおかっぱ頭がよく映えていた。彼女の髪色は、グラデーションのように毛先に行けば行くほど濃いこげ茶色になっていてとてもおしゃれだ。しかし、これは染めているわけではない。紅がイノシシの獣人であるという証の一つだった。
みのりは紅の声に手を休め、訝しげな顔をして立っている碧ときょとんとした紅の顔を順番に見る。そして大きく息を吐き出した後、淡々と応えた。
「家出よ。家出」
「はぁ?」
碧が呆れた声を出す。側近らしからぬ彼の態度にみのりは眉をひそめた。だが、碧を気にするふうでもなく言葉を続ける。
「お嬢様、寝言は寝てから言ってください」
「寝言じゃないわよ。本気よ、本気。今度こそ本当に本気なの」
肩を竦めて見てくる碧に、みのりは声を荒げて応戦した。しかし碧は、本気にしていないみたいだ。それどころか、その言葉で何かを悟ったようだ。わざとらしくにやつかせた顔を見せつけてくる。
「また、お母上に嫌味でも言われましたか? それともお父上が話を聞いてくれなかったとか?」
「お見合い」
本気にしない碧を腹立たしく思いながらも、みのりは口に出したくもない言葉を憮然と吐き出した。
「え?」
聞き取れなかったのか、碧がもう一度訊いてくる。それが、開き直るきっかけとなった。みのりは碧の顔を正面から見つめ、大きな声を出す。
「来週の日曜日! お見合いをさせられるの! まだ運命の人と出会ってもいないのにお見合いだなんて許せると思う?」
握りこぶしをつくり訴えるみのりの手に、小さな温もりがかぶさった。
「お嬢さま、ついてく。どこまでも。絶対」
「ありがとう、紅。あなたならそう言ってくれると思っていたわ」
微かに涙目になっている紅を抱きしめようとする前に、二人を引き剥がす手が入る。
「紅、お嬢様を煽らない」
「何よ、文句でもあるっていうの?」
自分の意見に反対する碧を睨みつけると、彼はおでこに手を当ててうなだれるように溜息をついた。
「まったく、だいたいお嬢様お一人に何ができるというのですか?」
諭すように話す碧の言葉をこれ以上聞きたくなかった。このまま彼の声を最後まで聞いてしまえば、せっかく決意した気持ちが消えてなくなりそうで怖かったのだ。
「もう、こんな家、嫌なのよ」
碧の話を遮るために出てきた言葉は、言うはずのなかった本音だった。碧と紅の目が大きく見開いている。沈黙する空気に居たたまれなくなったみのりは、慌ててまくし立てた。
「こ、こんな家があるからいけないんだわ。黄金梅だか何だか知らないけど、それさえなければこんな家なくなるのよ! そうよ! つまり私の未来のためには黄金梅をなくせばいいってことなのよ」
取り繕うために出した言葉だったが、話している内にそれが妙案に思えてくる。ただ家出したところで何の解決にもならない。根本的な解決をするためには、やはり梅宮家が代々御守りしている黄金梅をなくすほかないだろう。
「お嬢様」
「な、何よ。碧に反対されたって私の意志は変わらないわ」
真剣な瞳でこちらを見据えてくる碧の様子にみのりはたじろぐ。
「別に反対などしませんよ」
「へ?」
「いいですか、お嬢様? 黄金梅をなくすのなら、それはそれで結構です。ですが、思いつきで行動したところでお父上やお母上にすぐに見つかって連れ戻されてしまいますよ」
みのりは予想もしていなかった碧の言葉に、まばたきを繰り返した。
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