サボりにいこう
笑うのが苦手だ。
小さいときには当たり前のように出来ていた事が、最近できない。
原因は分かっている。
高校に入学して、誰も知らないクラスにまるで馴染めないからだ。
中学を不登校していた僕が行けた高校は電車通学で1時間はかかるところだった。
クラスメート達にはもうグループができあがっている。
4月に感じていた焦りは、5月には諦めに変わっていた。
僕が出来ることは誰にも話しかけられないように、休み時間は机に突っ伏して寝たふりをすることだけだ。
薄目を開けて、クラスを見回すと、いつも同じ所で視線が止まる。
窓際の一番後ろの席、真木香織さん。
真木さんの周りはいつもクラスメートが集まって賑やかだ。
真木さんは肩まである髪を揺らしながら楽しそうに笑っている。
……いいなぁ。
自分にはないものを妬み、憧れた。
そして、始業のベルがなり、僕は気だるく目覚めるフリをする。
授業中は、一人でいる恥ずかしさを忘れさせてくれる貴重な時間だ。
僕、佐伯誠は、ノートを取りだし、授業に集中した。
* * *
キンコーンカンコーン。
本日、最後の授業が終わり、クラスメートは浮き足立つ。
僕はこの空気が苦手だ。
一刻も早く教室を出ようと帰り支度をしていると、前の席の鈴木君が話しかけてきた。
「なぁ、佐伯。お前、バレーボールに興味ない?」
「えっと……」
急な問いに答えられずにいると。
「鈴木、佐伯が困ってるだろう」
同じクラスメートの田辺君がやってくる。
「だってよ、バレー部、今、全然部員がいなくてピンチなんだぜ。佐伯、バレーに興味ない?」
「……え、えーと」
僕の心は焦りまくっていた。
バレーは興味ない。
でも、せっかく誘ってくれたし。
う~ん。
「ほら、困ってんだろ」
(困っているけど、言わなきゃ!)
「そっかぁ、悪かったな。佐伯」
(言わなきゃ!)
口はパクパクと動いたが、言葉が出なかった。
鈴木君と田辺君は部活に向かうために教室を出て行く。
僕は全く動かない脚を無理矢理引きずって、後を追いかけて廊下に出た。
「ぁ……の」
小さな声は聞こえない。それよりも田辺君のささやくような声が耳に届いた。
「……だから、アイツ運動音痴っぽいっだろ。バレー部が弱くなるだけだからやめとけよ」
「確かに!!」
快活に笑う鈴木君とおかしそうに笑う田辺君の姿が角を曲がって見えなくなった。
「あの……僕で、よかったら……」
やっと出た声は、誰にも届かなかった。
* * *
翌朝、いつもの時間に電車に揺られる。
あと一駅で降りる駅だ。
ふと、窓から覗く景色が目に飛び込む。
五月晴れの青空が広がるいい天気。
「……遠くへ行きたいな」
僕は何も考えずにポツリと呟いた。
「次は○○駅」
アナウンスが流れて、僕は立ち上がる。
いつものように僕はドアへと向かった。
ドアが開く。
でも、僕は動けないでいた。
僕を避けて迷惑そうに乗車客が降りていく。
……何しているんだろう?
遅刻してしまう。
でも、僕の足は全く動かない。
程なくしてドアが閉まる。
……何しているんだ?
学校へ行かなきゃ。
でも、どこかで安心している自分がいることに気づく。
ああ、僕、学校へ行きたくなかったのか……。
そう思うと、力が抜けていくのを感じた。
「……驚いた」
振り返ると、よく見知った顔が立っていた。
「佐伯君が学校サボるなんて」
真木さんが大きな瞳でこちらを見つめていた。
「えっ……」
「あっ、ごめん。ずっと見てたんだ」
彼女がちょっぴり居心地悪そうに目を伏せた。
「佐伯君、ドアの前で全然降りる気配がないから、気になっちゃって。私も乗り過ごしちゃった」
あはは、と笑う彼女に僕は言葉をなくしていた。
「あっ、私、話したことなかったよね。同じクラスの真木だよ」
知っています。
よく、知っています。
「これから、どうするの? 次の駅で降りるの?」
「……」
どうしよう、サボるところを真木さんに見られた。
顔が一気に熱くなるのを感じる。
「佐伯君、大丈夫? 顔、真っ赤だよ」
だ、大丈夫じゃないです。
「とりあえず座ろうか」
先ほどの駅で乗客は半分くらいになり、スカスカになった席に座る真木さん。
「座らないの?」
彼女がポンポンと左手の席を叩いている。
僕はとりあえず一つ分席を空けて座る。
「そんなに距離取らなくてもいいのに」
席を詰められる。
真横に座る、真木さん。
色々と情報量が多くて、しばらく真木さんの言葉が耳に入ってこない。
時間が過ぎ去り、やっと聞こえたのは車内のアナウンスだった。
「次は終点△△駅です」
* * *
僕らは終点の駅で降りて、ホームのベンチに座り込む。
もう学校はとっくに始まっている。
「佐伯君はこれから学校に行くの?」
その問いには答えずに僕は、空を見上げた。
のんびりと飛行機雲が青空に白い線を引いていく。
ホームはラッシュも過ぎて、喧噪もなく穏やかな日差しが辺りを包んでいる。
僕は、首を振った。
「行きません」
真木さんは驚いたように目を丸くした。
「サボるの?」
僕は迷いながら頷いた。
「ふ~ん、佐伯君はサボるのか……。じゃあ、私もさっぼろー、と」
「えっ」
冗談で言っていると思ったら、真木さんは携帯をポケットから取り出して電話を掛ける。
「もしもし□□高校ですか? 1年C組の真木香織ですが、今日体調不良で休みます。……はい、お願いします」
携帯を切ると、彼女はニッと笑った。
「ちょっとドキドキしたー」
えへへ、と笑う真木さん。
「じゃあ、お次は佐伯君、どうぞ」
右手を突き出す真木さんに促されるままに、僕も携帯を取り出す。
ドモリながら学校に電話する僕を真木さんはおかしそうに笑みを堪えていた。
* * *
学校への連絡が無事終わると、僕らは時間を持て余してしまった。
「佐伯君はこれからどうするの? 遊びに行くの?」
「……」
何も思いつかない。
必死で考えて言葉にする。
「う、海に行きます」
「なんだか、青春だね」
真木さんがおかしそうに微笑み、立ち上がった。
「よし、じゃあ海に向けてしゅっぱーつ! だね」
「えっ? 真木さんも?」
「当たり前でしょう。サボり仲間なんだから」
そんな冗談が僕は嬉しかった。
冗談でも『仲間』って言ってくれて。
「あっ、佐伯君。やっと笑ったね」
自分でも気が付かないうちに微笑んでいたようだ。
真木さんも嬉しそうに微笑み、歩き出す。
僕と真木さんの奇妙なサボり旅行はこうして幕を開けた。
* * *
海といっても、最寄りの海岸までは電車を乗り継いで行くと二時間ぐらいかかる場所だ。
誰もいない鈍行電車に乗ると、見知らぬ風景が広がる。
僕と真木さんはボックス席に対面で向かい合い列車に揺られていく。
「そういえば佐伯君はお休みはどうしているの?」
「……飼い犬と遊んでます」
「犬を飼っているんだ?」
「はい……」
僕が遠慮がちに頷くと、写真ある? と真木さんが聞いてくるので携帯の写真を表示する。
「へぇ、柴犬なんだ。可愛いね」
「はい、名前はトメといいます」
「変わった名前だね」
「死んだおばあちゃんの名前です。僕おばあちゃん子だったので」
「でも、それおばあちゃん的には複雑だね」
「どうしてですか?」
「慕ってくれていた孫から、呼び捨てで呼ばれるし、ペットだからね」
僕は首をひねった。
「トメは、ペットじゃないですよ。家族です」
真木さんは今までにない怒ったような拗ねたような顔で僕を見つめて、沈黙し、すぐさまいつものように優しく微笑んだ。
「……そっか。そうだね」
その後も僕は携帯にあるトメや家族の写真をたくさん見せた。
彼女は少しうつろな表情で携帯の画面を見ていた。
* * *
無人駅に降り立つと、潮の匂いが胸いっぱいに広がった。
海だ、という気持ちが沸き上がる。
真木さんの足取りも軽い。
駅から歩く度に潮の匂いが強くなる。
防波堤の階段を登り切ると、声が漏れた。
「あっ――」
眼下には水平線が広がり、大小の船が浮かんでいた。
白い砂浜の向こうにはザブーン、ザブーンと穏やかな波の音が耳に届く。
僕はしばらくその景色を眺めていた。
なんだか随分と遠くに来たような感覚だった。
いつもの平日、授業を受けている時間。
それが今、海に来ている。
しかも、隣に真木さんを連れて。
真木さんは革靴と靴下を力強く脱いで、駆け出す。
砂浜に足を取られながら海に向かって一直線に走り、右足を水面に突っ込む。途端に顔をしかめて。
「つっめたーい!」
そう言って彼女は笑った。
僕も革靴と靴下を脱いで駆け出すと、砂浜に大きく足を取られて転んでしまった。
砂だらけになった僕を見て、真木さんが近づいてくる。
「大丈夫?」
「……はい」
格好悪かった。
* * *
その後、僕らは砂浜で貝殻や丸くなった瓶の欠片を探したりして、砂浜を探検した。
昼には海岸近くのコンビニで買ったカップラーメンを二人で食べた。
味気なかったいつもの昼ご飯が嘘のようだった。
気が付くと、太陽は沈み始め夕焼けが広がっていた。
「もう、日が沈みますね……」
真木さんも水辺線に沈んでいく夕日を見つめていた。
その横顔はなんだか少し悲しそうだった。
「帰りましょうか」
僕の呟いた言葉に真木さんは反応しなかった。
「真木さん?」
「……帰らないとダメかな?」
ポツリと呟くと、彼女はこちらを真剣な表情で見ていた。
「私さ、本当は学校へ行くの嫌なんだ……」
僕の目を見て、彼女は言葉を続けた。
「中学校に入ってから、すごく気持ち悪かった。グループにランクをつけて、グループに入れない人は人生不適応者みたいにレッテルを貼って、いじめて、不安を誤魔化す」
彼女は不安そうに自分の腕を抱いた。
「どうしてもそれが馴染めなくて、中学校では同じクラスの女子たちから無視されて、学校に行けなかった」
「……」
同じだ。僕と同じだ。
「でも、両親が高校は行って欲しいって、環境が変われば行けるって、無責任に言ってくる。本当は嫌なんだけど、でも親の期待には応えないといけないかなと思って、頑張って笑って、明るくして、馴染もうとしているんだけど……」
彼女は悲しそうに笑った。
「……笑うのって、いつからこんなに難しくなっちゃったんだろうね」
その乾いた笑いは悲鳴のようだった。
「佐伯君のこと、実はずっと気になってたんだ……。佐伯君は自分を偽らずにいたから」
それは違う。
僕も真木さんみたいになりたかった。
でもそれはお互いに隣の芝生が青く見えていただけだったみたいだ。
「だから、今朝佐伯君が言った言葉が離れなくて」
「遠くへ行きたい……」
彼女が頷いた。
「私も同じこと考えていた」
彼女は僕のシャツの袖を掴んだ。
「……どっか二人で遠くに行こうよ」
彼女のシャツを掴む手が震えていた。
僕は精一杯の勇気を振り絞る。
「……ぼ、僕も一緒です。中学校は行ってません」
真木さんは驚いたような顔をする。
「……真木さんと同じように中学校のクラスに馴染めずにいて、いじめられて学校へは行けませんでした」
「じゃあどっかへ逃げ――」
「でも……! 学校へ行けずにいた時も両親は行かなくてもいいと言ってくれました。無理して行く必要はないって言ってくれました。それが嬉しくて、いじめられたことが悔しくて、だから……高校には頑張って行こうと思いました」
真木さんの瞳に失望の色が見えた。
「佐伯君は、自分から戻ってきたんだね」
「はい、だから一緒に逃げることはできません」
「……そっか。残念」
彼女は僕のシャツから手を離した。
彼女はこちらに背を向けて歩き出す。
「帰ろっか」
彼女との距離がだんだん離れていく。
その姿があまりにもか弱くて、今にも倒れそうだった。
僕は息を吸い込み、叫んだ。
「学校のバカヤロー!」
「えっ?」
予想外に大きな声が出て僕自身も驚いたが、真木さんは驚いて振り向く。
僕は構わず海に向かって大声を上げた。
「クラスメートのバカヤロー!」
「ちょ、ちょっと佐伯君、急に何言っているの? 恥ずかしいからやめなよ」
「真木さんもやりなよ、恥ずかしいのは最初だけだよ。スッとするよ」
「私は、いいよ……」
そう言って歩き出す真木さん。
僕は思わず叫んだ。
「真木さんのバカヤロー!」
「なっ、ちょっ」
焦る真木さんに僕は続ける。
「意地っ張り! 見栄っ張り!!」
真木さんの顔が今までにないぐらい赤く染まっていく。
彼女は大きく息を吸い込み声を張り上げた。
「佐伯君なんか大嫌いっ!」
うっ、ちょっと傷ついた。
真木さんは更に大声を張り上げた。
「大嫌いっ!」
真木さんは今までにない真剣な顔で海を睨み、言葉を続けた。
「学校なんか大嫌いっ! クラスメートなんか大嫌いっ! お父さんも、お母さんも大嫌いっ!!」
一度、吐き出した言葉は止まらない。
「あああああーーーーーっ! 大嫌い! 大嫌いっ! みんな! みんな! 大嫌いっっ!!」
真木さんは同じ言葉を連呼する。
声の限り、顔を紅潮させて叫ぶ顔ははじめて見る真木さんの顔だった。
「はぁ、はぁ………本当、大嫌い……」
息を絶え絶えにしている彼女に近づいて尋ねた。
「スッキリしました?」
「……佐伯君なんて、大嫌い」
彼女は最後にポツリと呟いた。
* * *
帰りの鈍行電車に揺られながらすっかり暗くなった風景を見つめていた。
真木さんも隣でぼんやりと窓の風景を見ている。
二人の日帰り旅行は終わっていく。
でも、どうしても真木さんに言わなくてはいけないことがあった。
僕はなけなしの勇気を握りしめて真木さんに話しかけた。
「真木さん、あの……」
「ん?」
彼女は不機嫌そうにこちらを見た。
「えっと、その、……お、お、お友達になってください!」
上擦りながら言った言葉は誰もいない車両に滑稽に響いた。
「……」
真木さんは無言で僕を見つめて、呆れたように笑った。
「本当、佐伯君って不器用だね」
「うっ……」
僕が言葉に窮すると、真木さんは優しく微笑んだ。
「また、海に付き合ってよね」
その優しい笑顔に僕も自然に微笑むことができた。
「はい!」
――それが彼女と僕の恋のはじまりだった。