第3話 旅のきっかけは胡散臭い神様でした
カウンター横の階段を上がって二階へ。アル少年の後について廊下を歩く隆司に、アル少年はニコニコとした和やかな表情で話しかけていた。
「それでですね。お母さんと姉さんの加勢もあって、ようやく僕はカウンターにつかせてもらえるようになったんですよ。それが今日のお昼休みの話です」
「っはー、そりゃ、大変だなぁ。親父さんも内心ハラハラだったろうな」
「あはは……、でも、僕は頑張りますよ~」
「おう、俺も応援してるよ」
隆司の言葉にアル少年が「ありがとうございますっ」とキラキラした笑顔でお礼を言う。そんなアル少年の笑顔を、眩しいなぁとか考えながら眺める隆司であった。
アル少年の話によれば、この『月風亭』という宿は料理を担当する父親のガーランド、女将である母親、看板娘の長女と客引きや掃除を主な役目としている長男・アルフレッド(アル)の四人で切り盛りしているらしい。
しかし、アル少年は十五という背伸びをしたい年の頃のせいもあってか、カウンターの仕事をしてみたいと考え、家族に提案したのだという。どちらかと言えばドジなアル少年に務まるのか心配した父親は反対したが、母親と姉が味方してくれたおかげで今日の午後からようやくカウンターの仕事を任されたらしい。
そして、その初めての客となったのが何を隠そう隆司だったのだ。
アル少年は、初めての客というのが相当嬉しかったらしく、先ほどから自分がどれほど嬉しいのかということを何度も何度も早口でまくし立てていた。その度に隆司は微笑ましい気持ちで応援の言葉を口にし、その言葉を受けてアル少年がお礼を述べるという流れを、今ので四度ほど繰り返している。
「あ、ここがリュウジさんのお部屋です。鍵をどうぞ」
そう言ってアル少年が差し出した鍵を受け取った隆司は、早々にカウンターへと戻るべくそわそわしているアル少年に「ありがとう、戻っていいよ」と声を掛けた。
「はいっ、それではごゆっくり!」
ものすごい勢いで一礼すると、アル少年は主人に呼ばれた小動物のように小走りで自分の持ち場に帰っていく。それを「そんなに急がなくても」と苦笑混じりに見送った隆司は自分に割り当てられた部屋のドアを開けた。
部屋の中に入って扉を閉めた後、ゆっくりと深呼吸をする。木の香りと天日に干されたベッドシーツの清潔な匂い。床や壁には一切の汚れがない。これはアル少年の仕事が行き届いているということだろう。
「ふぅ……」
と一息ついてベッドに腰を掛ける。ふわりと柔らかいベッドが、隆司の体をその疲れごと受け止めてくれているかのようだ。
「ようやくひとごこちだ」
昼過ぎから数時間を歩き続けた隆司の体は思った以上に疲労していたらしい。上半身を投げ出すようにベッドに体を預けると、まだ夕方だというのに急激に睡魔が襲ってきた。
「ふぁ――ぁあ……。寝よう」
おもむろに靴を脱ぎ、もぞもぞとベッドの中に潜り込んだ隆司。
この状況について考えるのは目が覚めてからにしようと頭の隅で考えつつ、夢の世界から迎えに来た睡魔の誘いに乗って、どんどんと深くなる微睡の沼に意識を沈めていった。
* * *
いつの間にか、隆司はそこにいた。
「ん……、ここは?」
月風亭の一室、自分に割り当てられた部屋のベッドで眠りについたはずの自分がなぜこんな何もないところにいるのか、理解できなかった。
まどろみの中から這い出てきた意識の焦点が合うにつれ、隆司はその場所の異様さに気付く。
そこには本当に何もなかった。部屋もベッドも、壁も天井も床も、風景もなければ地面も空もなかった。一面は全て白く塗りつぶされ、それが『白』という色であるということさえ、意識せずには理解できなかった。
「夢……?」
唐突な閃き。奇しくもそれは正答であった。
宙に浮いているかのような浮遊感の中にありながら、地面に足を付けて立っているという確かな安定感。そんな不思議な感覚に隆司が戸惑っていると、
「君はどこに行こうとしてるんだい?」
突如として聞こえたのは奇妙な声だった。その声は厳格な男のようであり、妖艶な女のようでもあり、老獪な老人のようでもあるが無邪気な子供のようでもあった。遠くの方から語りかけるような口調のその声は不思議なくらい隆司の耳によく響いた。
「誰だ……?」
「そうだな。その問いに答えるとするなら、『神様』さ。君たち人間の言う所のね」
「胡散臭い、却下」
「……ぷっ。アハハハハハッ。おも、くふ……っ、面白いね、君。却下って……アハハハハッ!」
「……で、その神様ってのが何の用なんだ?」
「アハハハハハッ。……却下、……、ア――ハハハハハハハハッ。も、ダメだ、あんまり笑わせちゃ、ダメだよっ、くくっ」
「……」
――……。
――――……。
――――――……。
やがて、一通り笑い転げて満足したらしい声だけの存在は、ひどく真剣な声音でこう言った。
「今後笑わせるときには一言断ってからお願いしたい」
「知るかっ! ツボが分からんわ!」
「くっくくっ、そりゃ失礼」
「で、何の用だよ」
放っておくとまた笑い転げかねない不穏な雰囲気を感じた隆司は無理矢理にでも話を本筋に戻そうと声を発した。
「あぁ、そうだったね。ちょっと待ってて、すぐにそっちへ行くから」
そう言い置いて、声だけの存在は「よっ」と軽い掛け声のあと何の前触れもなく隆司の目の前に現れた。
「なっ……!」
「お、いいねぇ。その驚いた顔、最高だ」
さっきまで聞いていた奇妙な声が、目の前の男の口の動きに合わせて聞こえる。それはひどく呑気なセリフだったが、今の隆司にとってそんなことは重要ではなかった。
確かに隆司は驚いた。それはもうハトが豆鉄砲くらった時よりも驚いている自信があった。隆司の目の前にいるこの男は何の前触れもなく隆司の前に現れたが、そんなことはどうでもよかった。夢の中だ、どうとでもなる。
しかし、そんなことがどうとでもなるはずの夢の中にあるにもかかわらず、この男は『半裸』だった。見紛うことなく『半裸』だったのだ。
上半身にはなにも纏わず、腰から下にトーガのような布を纏っただけの、ただの変質者だった。
「あ、変質者は酷いんじゃない?」
「な、なぜわかった」
「ここは夢の世界だよ? それくらいどうってことないよ」
「ならなんでアンタは半裸なんだ。心を読むのがどうってことないなら服なんて物の数でもないだろうに、なんでアンタは腰布一枚で堂々とストリップに興じてるんだよ」
「だって、この方が神様っぽくない?」
「……」
隆司はもはや黙ることしかできなかった。そして同時に隆司の目の前にいるこの男は頭のねじが何千本か溶解して頭の外に流出してしまっているのだと諦めるしかないと悟る。
「で、その神様が俺に何の用です?」
「あ、今僕への暴言を無かったことにしようとしたね? まったく……まぁいいや」
「寛大な心に感謝しまーす」
「ハイハイ。そういう言葉は欠片ほどでも信仰心を持ってから言おうね」
他愛もない話を延々と続ける気はないのか、ふざけた雰囲気の男にしてはあっさりと話を打ち切った。そして、今までのとぼけたような顔から一転、真剣そのものと言った顔で口を開く。
「最初の質問に答えてよ。君はどこに行こうとしてるんだい?」
その問いは妙に隆司の心に響いた。自称神様は言葉を続ける。
「この世界は楽しいよ? それはもう、君がいた世界よりも」
自称神様は隆司がここではない別の世界からやってきたことを知っていた。隆司はそれに驚いたが、言葉をさしはさむ余地もなく、隆司の目の前の男は語り続ける。
「この世界では君が今まで見られなかったものを見られる。生き物、物質、現象、その全てが君の今まで見聞きしてきたものを全て凌駕していると断言できる」
その言葉に今日の出来事が頭をよぎる。街までの道中で出会ったスライム、美味しかったが今までに見たこともなかった未知の料理、そして、隆司自身が異世界に迷い込んだという現象。どれも初めての体験だ。自称神様の言葉は否定できないし、否定する理由もない。
「だが、まだまだだ。君はまだほんの一部しか見ていない、聞いていない、体験していない。無数の岩石が浮遊する危険地帯、危険な洞窟を踏破した先にあるこの世のものとは思えない幻想的な湖、風と花の妖精が舞い踊る神秘の森、神の炎が息づく活火山、龍と稲妻が疾駆する大空原、人魚たちの淡く切ない調べの響く大海、暗澹と眠り続ける魔の虚城、燦然と輝く太陽の草原――君は、どこに行きたい?」
ドクン、と隆司の心臓が一際強く鼓動した。神様を自称する目の前の男が言葉を発する度に眼前に数々の光景が広がっては消えていく。幻では有り得ないリアリティを持ったそれらは、時に風が隆司の頬を撫で、時に小さな火の粉が隆司の肌を熱く焦がし、時に打ち寄せる波が隆司の足をくすぐった。
「さぁ、選ぶといい。……君の道は開けている。どこに行こうとも誰も止められはしない。どこへだって続いているよ。君が望みさえすれば、君はこの世界の全てを見に行ける」
心臓の鼓動が体中に伝わっているのを隆司は鮮明に感じていた。まるで耳元で聞こえているような感覚さえしている。体中の血が熱を持ち、今すぐにでもさっき見た光景のもとへ駆けていきたい衝動に駆られる。
「百地隆司くん」
いきなり名前を呼ばれて、我に返る。神様を自称する男に視線を向けてみれば、まるで隆司の答えは全てわかっているのだというような笑顔だ。だが、男はあえて今一度問いかけた。
「――君はどこへ行きたい?」
と。
その問いに、隆司は口元がにやけていくのを止められなかった。
「全部だ。全部見たい、全ての場所に行きたい!」
「素晴らしい。……ならどこへだって行くといい。君はどこへだって行けるのだから」
満足げな表情で頷いた男は、まるで息子の決意を見守る父親のような厳格な優しさに満ちていた。そして、次の瞬間にはそんな雰囲気はなりを潜め、さっきまでのとぼけたような顔に戻る。
「ふふ、それじゃあ、旅立ちを決意した君に僕から旅の餞別をあげよう」
「……餞別?」
男の言葉に首をかしげた隆司は、だが何も思い当たらぬことであった為に男の次の言葉を待った。
「うん。君が旅を続けやすいように、僕から君に贈り物をあげようと思ってね」
「何をくれるんだ? この世界の知識とかならいらないぞ? そういうのは自分で身に付ける」
「そうだね。君にはそーゆーものはいらないだろうね」
そう言った自称神様は腕を組み、顎に手を当て、目を細めながら隆司を上から下から隅々まで穴が開くほど見定める。
やがて納得いくまで隆司を品定めした自称神様は、とてもさわやかな笑顔+サムズアップのコンビネーションを披露しながらこう言った。
「よし、すこぶる物覚えの悪い、頭がパーな君にはこれをプレゼントしよう!」
「神様って、殴られた程度じゃ文句は言わないよな……?」
「君は僕のこと殴れる立場の品性じゃないよね……?」
ほんの一瞬だけ硬直した空気は、二人がお互いをけん制し合うことでゆっくりと緩んでいく。
神様ってやつは意外と根に持つんだなと頭の隅で考えつつ、隆司は話を本題へと進める。
「……、で、何くれるって?」
「うん、これだよ。『適応学習』。スキル……というより異能力の部類かな?
僕はこれでも旅と才能を司る神様だからね。君の才能を開花させてあげるのさ」
「……やっぱりなんか胡散臭い、きゃ――」
「却下はナシで。っていうかもう開花させちゃったもん。もう取り消しは利きまっせーん、残念でしたーっ」
思った以上に強引かつ理不尽な贈り物に辟易しそうになった隆司だが、ただでさえ見も知らぬ異世界にやってきて心細いので、貰えるものはありがたく貰っておくことにする。
ただ、才能の開花などという形のないものを貰っても、本当にそんなものが開花されているのかどうかという不安は残ったが。
「ふぅ、久しぶりにはしゃいだなぁ。こんなに楽しかったのはエルティアと思いっきりケンカした時以来かな」
自称神様はそう呟いてから隆司の目を見据えると、「うん」と何事か一人で納得して、こう言った。
「百地隆司くん。――よい旅を」
瞬間、隆司の意識があっという間に暗転する。
そして、次に隆司が目を開けた時、そこは月風亭の一室、隆司が借りた部屋のベッドの上だった。