第2話 ニルドネの街と月風亭
「ふぅ……なんとか到着だな」
ため息混じりに呟いた隆司はようやくと言っていいほどの時間をかけて目的地に辿り着いていた。隆司の目の前にそびえるのは隆司の身長の三倍はある壁。そしてその壁に対して垂直にまっすぐ伸びているのが、隆司が今まで進んできた道だ。その道の先には街に入るための門があり、その両脇には軽装備の衛兵二人が立っていた。
「すみません。街に入りたいんですけど」
軽装備とは言え鎧を着た人間に臆することなく、どころか全く気にした風もなく声を掛ける隆司。そして二人の衛兵はと言えば、そんな隆司を訝しむでもなく笑顔で応えるのだった。
「お、アンタこの街に来るのは初めてかい? それじゃあ、ようこそニルドネの街へってとこだな!」
「ニルドネ……この街の名前ですか?」
「あぁ、そうだよ。ここに来るのが初めてなら一度はここの菓子を食っていくといい。特にパイなんかは東の森から採れる果物がたくさん入っててうめえんだこれが」
「へぇ、それはちょっと興味があるな。……ありがとうございます。ぜひ食べてみることにします」
「おう、食べてみてくれ。あぁ、ララベルの店のが絶品だからな」
「ララベル……ですか。分かりました、行ってみます。それじゃ、ありがとうございました」
衛兵の一人とそんな会話を交わして、隆司は無事にニルドネの街へと入ったのだった。
入った瞬間に果物と砂糖の甘い香りが隆司の鼻孔をくすぐる。鼻にしつこくない匂いだ。こういうのを上品と表現するんだろうなと考えながら、隆司は目下の目標である宿屋を探していた。
「どこかに手頃な宿はないかなぁ。この銅貨が使えたとしても、どう考えたって物足りないことは明らかだし……とりあえず雨風が凌げれば……」
ふらふらと当てもなくさまよい歩いていた隆司は、ふと細い路地の向こうから食欲をそそるいい匂いが漂ってきているのに気付く。考えてみれば何時間も飲まず食わずで街を目指していた隆司のお腹はすでに空っぽの状態で、今すぐにでも何か食べたいところであった。
匂いに釣られて細い路地を抜け、そのまま歩くこと数十歩。
「ここは……」
食欲に背を押され、匂いの源泉まで一直線にやってきた隆司の前に現れたのは、『月風亭』と書かれた看板をぶら下げた一軒の宿だった。大きな通りから離れ、狭い路地を潜り抜けた先に建てられたその宿屋はお世辞にも繁盛しているとは言えないだろう。どちらかというと閑古鳥が鳴いていそうなイメージがある。しかし、ことこの『月風亭』という宿屋に至っては、どことなく隠れた名店のような雰囲気がにじみ出ていた。
とは言え、隆司にしてみれば『月風亭』が隠れた名店であろうとなかろうと実はどうでもいい。なぜなら現在腹ペコ状態である隆司は今も自分の鼻孔をくすぐり続けている美味しそうな匂いの発生源をつきとめ、あわよくばそれをお腹いっぱい食べ尽くしたいというその欲望のみで頭が埋め尽くされていたのだから。
そして、欲望のままドアに手をかけ、空腹で満足に力も入らない腕で弱々しくドアを開いた。
「ようこそ、月風亭へ」
ドアに備え付けられたベルがチリンチリンと音を立て、それとほぼ同時に人の声。ふんわりと包み込むような優しげな声音は宿屋の玄関から少し歩を進めた先のカウンターから聞こえてきた。
そこにいたのは少年だった。十代半ばごろのまだ幼さの残る顔立ちに、小動物を思わせる雰囲気の少年。鮮やかな金髪にエメラルドの如く輝く碧眼の少年は、隆司を見てにこやかに微笑んでみせる。
「あ、ども……」
日本人離れした容姿の人間を目の前にして、隆司は間の抜けた返事を返す事しかできなかった。しかし、少年はと言えば、ぽかんと口を開けて呆気にとられている隆司を見ても全く動じず、極めて落ち着いた様子で接客を続けた。
「ご宿泊ですか? お食事ですか?」
小動物のような少年が可愛く小首など傾げながら隆司に問いかける。隆司が美少年好きのマダムなら一発でK・Oされていただろう。
「えっと、できれば泊まりたいんだけど」
空腹に弱りきっていた隆司は、少年の容姿に放心しつつもなんとかその言葉を口にする。すると、少年は控えめに咲く花のような微笑みを輝かんばかりの笑顔に変えた。
「あ……はいっ。ご宿泊ですねっ。こ、こちらにお名前のご記入お願いしますっ」
その場で飛び上がりそうなほど大げさに喜んだ少年は、その喜びを隠そうともしないで隆司に宿帳を渡す。
少年の喜びように気圧されつつ宿帳を受け取った隆司は、少年の歓喜の視線を浴びながらなんとか名前を書いた。
「リュウジさんですね。一泊なら銅貨3枚、朝食付きなら銅貨5枚、朝晩の食事つきなら銅貨6枚です」
「え……」
「はい?」
値段を聞いた瞬間、隆司の背中に嫌な汗が流れた。
泊まれる。泊まれることは泊まれる。しかし――、
「えっと、できれば晩飯を食べたいんだけど、今持ち合わせがこれだけしか無くて……」
そう言いつつ隆司がポケットから出した銅貨は四枚。カウンターに置かれた四枚の銅貨を見た少年は、その笑顔を少しずつ曇らせていったかと思うと、次の瞬間には泣きそうな顔を隆司に向けていた。
「うっ……うぅ。僕の初めてのお客さんなのに……っ」
「や、ちょっと待ってくれっ。泊まれることは泊まれるだろっ? 俺が晩飯を我慢すればいいんだからさっ。泣くなよっ、なっ?」
「で、でも、お客さんに満足してもらわないとこの仕事はおしまいなんです……っ。なのに……っっ!」
「だ、大丈夫だよっ。よく考えたら腹減ってないしさっ。ほら、これで後は泊めてくれれば俺は大満足だ、うん」
隆司はまるで自分が少年を泣かせたような罪悪感に駆られながら、なんとかなだめようと必死に言葉をかける。しかし、それでも少年の苦悩を晴らすことはできないようで、とうとう少年の碧眼から大粒の涙がこぼれ落ちてきた。
「ちょっ……」
隆司は慌てていた。スライムに腕を溶かされかけていた時より慌てていた。それはもうその慌てようと言ったらなかったのである。今までに小動物系の少年を泣かせたことも、そんな少年が泣いているような場面に出くわしたこともない隆司にとって、今のこの状況は絶体絶命と言ってもよかった。
「アル、なぁに客を困らせてんだ」
野太い声。天からの助けかと隆司が声の方に視線を向ける。一番に目に入ったのはその長身と褐色の肌、次いで禿頭、そして最後に男の左目を塞ぐ傷だった。
「お、おぉぅ」
思わず身構えそうになった隆司は、しかし先ほどまで泣いていた少年がその大男に駆け寄っていったことで身構えるのを思いとどまった。
「ご、ごめんなさいお父さん……あの」
「お父さん……?!」
あまりの衝撃に隆司は思わず大声を上げる。目を大きく見開いて目の前の褐色肌の禿頭大男と金髪碧眼の小動物系美少年を見比べる。
間違えても親子には見えないだろうと思われるその二人だったが、事情を説明する少年――アル、と呼ばれていたか――に「そうかそうか、そりゃ大変だったな」と声をかけて優しく頭を撫でてやっている様子は誰が何と言おうと本物の親子のようであった。
「遺伝子はとうとう神の定めしルールに背を向けたのか……」
などと意味の解らないことを呟く隆司。
「おーい、お客人」
この宿に入ってから二度目の放心をしていた隆司に褐色の巨人が声を掛ける。
「あ、はい」
放心していた隆司は頭二、三個分高い大男を見上げながら返事をした。
「お前さん、食事はしたいが金はないんだって?」
「あー……、はい、すみません」
「腹が減ってんのか?」
「え、えぇ、まぁ」
「なら、しょうがないな」
「え、あ、そうですよね。お金もないのに食事なんて……あ、でも泊まるだけのお金はあるんで宿泊はします」
「こっち来い」
「は? うぇっ?」
言うやいなや首根っこをむんずと掴まれ、強制連行される隆司。どこに連れて行かれるのかという恐怖と絶妙な力加減で掴まれた自分の首がいつ握りつぶされるのかとひやひやしながら、隆司は解放されるその時を待った。
「ここで待ってろ」
連れて来られたのはどこなのだろうと辺りを見回した隆司は、その全貌を見終わる前にここがどこであるかを理解した。隆司をこの宿に導いた美味しそうなにおいが充満するここは――。
「食堂?」
「はい、ここが月風亭自慢の食堂です」
隆司の疑問に肯定したのは先ほどアルと呼ばれた小動物系の少年。アル少年は、机を挟んで隆司の正面に座ると何がそんなに嬉しいのか、ニコニコと笑顔を作った。
「なんで俺はここに連れて来られたんだ?」
「あ、それは――」
アル少年が言い切る前に、どんっと隆司の目の前に置かれたのは皿だった。それも美味しそうな肉料理の盛り付けられたものだ。
「え……?」
「食え」
突然出てきた料理を不思議がっていた隆司に有無を言わせない口調でそう言ったのは何を隠そう褐色で禿頭で左目に傷のあるあのコワモテの大男だった。
「でも、お金……」
「腹減ってんだろ?」
「そりゃ、そうですけど」
「なら、食え」
褐色肌の大男はもう一度、有無を言わせぬ口調でそう言った。目の前に美味しそうな料理、食べてもいいと言われれば是が否でも食べたい。まして今の隆司は何時間も飲まず食わずの空腹極限状態。こうなれば、答えは一つだった。
「いただきます!」
瞬間、隆司は皿に飛びつくようにして食事をむさぼった。礼儀作法も外聞もなく、ただただ腹を満たすために食事を口に運んだ。
「はは、いい食いっぷりだ」
隆司の気持ちのいい食べっぷりに、褐色肌の大男はにこやかに笑う。その時見えた真っ白な歯が隆司には印象的だった。そして、その爽やかな笑顔に、この褐色肌の巨人は見た目と違ってかなりとっつきやすい気さくな人物なのだと隆司は先ほどまでのイメージをがらりと改めていた。
「俺はガーランドだ。お前は?」
褐色肌の大男――ガーランドは、そう言ってアル少年の隣に座る。ガーランドの言葉を自己紹介だと理解した隆司は口の中いっぱいに頬張っていた料理を必死に噛み砕いて飲み込むと、水で一気に胃袋へと流し込んだ。
「ふぅ。……俺は百地隆司と言います。あ、隆司が名前で、百地は苗字です」
名乗った後に一応説明をしておくのは忘れなかった。
「そうか、ならリュウジでいいな。旅人か?」
「あー、一応そうなるんですかね」
「なんだそりゃ。……しかし、旅の途中で路銀が尽きるとは運がなかったな」
「えぇ、ここに来る道中でスライムに出くわさなかったら宿にも泊まれませんでしたからね。あの一匹のスライムには感謝しなきゃいけませんよ」
ははは……と力なく笑う隆司の言葉にガーランドは「ほぉ」と感嘆の声を上げた。
「意外だな。ひょろっちい兄ちゃんかと思ったらそれなりの実力はあるときた。……それに運もいい」
「へ? いや、実力も運もないですよ。アレはたまたまですからね」
「おいおい、スライムを倒したのが本当にたまたまなら、それは運がいいってことだろ。武器も持たない普通の人間に倒せるほどアレは弱くはないはずだぞ? それにな」
ガーランドはそこで一拍置いて、言葉を続けた。
「スライムってのは生き物でも硬貨でもなんでも溶かして食うんだがな、それがどういう理屈かしらねぇが、死んだ時ほんとに稀に食ったことのある硬貨を復元して落っことすことがあるって話だ。それを一匹倒しただけで、四枚も硬貨を落とすたぁ、なかなか運がいいってもんだ」
「へー、そういう理屈だったんだ……ってことはモンスターを倒したからと言ってお金が手に入るってわけじゃないんですねぇ」
「そりゃそうだ。亜人種のモンスターならともかく、街の外にいる動物みてぇなモンスターが金を持ってるわけはねぇだろう。持ってたとして一体何に使うってんだ」
「あ、それもそうか」
ガーランドの言葉に納得した隆司は、皿に残った付け合せのサラダを口に運ぶ。新鮮な野菜で作られたサラダをシャキシャキと咀嚼する隆司に、今まで黙って様子を見ていたアル少年が口を開いた。
「リュウジさんって冒険者じゃないんですか?」
「冒険者?」
アル少年の言葉に首を傾げた隆司は、その答えを知るためにガーランドに視線を向ける。
「まぁ、冒険者ってのは世界中を旅してまわってる連中のことだな」
「それってただの旅人ですよね?」
「ん、あぁ、それだけならな。冒険者ってのは各地にある冒険者ギルドってとこでクエストって呼ばれる仕事を斡旋してもらってそれをこなすことで生計を立ててる」
「ギルド、クエスト……」
「あぁ、ペット探しや遺跡の調査、モンスター退治に運び屋みたいなことまで……まぁ、言ってみりゃ冒険者ってのは何でも屋だな。興味が有るならこの街にもギルドがあるから見てみるといい」
「なるほど……」
快く答えてくれたガーランドの説明を聞いた隆司は、短い呟きの後コップに残った水を一気に飲み干す。
「もういいか? まだ腹が減ってるなら出すぞ?」
「いえ、大丈夫です。……それより、あんなに食べさせてもらっても代金が……」
「そうさなぁ、なら、出世払いでどうだ。いつか払ってくれりゃいい」
「え、そんな、いいんですか?」
「いいってことよ。……アル、お客様を部屋に案内してやれ」
「はいっ、お父さんっ」
ガーランドにそう言われたアル少年は先ほども見せた輝く笑顔でうなずいた。