廃憶ミラージュ
僕は、養父の友人と、日本で有名な廃墟に船で向かっていた。
養父であるエイベルは、せっかくの夏のバカンスの日本旅行なのにホテルでゴロゴロしている。
その文句を養父の友人であるジロータに言ったら、「吸血鬼だし、仕方ないさ」と笑っていた。
なんでも、僕はいざとなれば狼男だから泳げるし、ジロータも猫又だけど泳げるらしい。つまり、泳げないのは吸血鬼であるエイベルだけということだった。帰ったら、エイベルは不貞腐れているかもしれない。
船のエンジン音と波しぶきが、白い線を引きながら端島へと向かっていく。大陸ではあまり海を見たことがなかったから、とても楽しい。「ルークは、フランスに行ったときにドーヴァー海峡をみたぐらいだもんな」ワクワクしっぱなしの僕を見て、ジロータは納得したように言った。
「今から行くところって有名なところなんだよね」
「ああ。通称「軍艦島」、廃墟マニアの中じゃ、廃墟の王様って呼ばれているところだ。俺の故郷でもある。って言っても、そこで生まれたわけじゃないんだけどな」
「どういうこと?」
ジロータは微笑んだ。「帰りたい、大切なものがあるってことさ」
僕にはわかるようで、わからないような曖昧な気持ちだった。想像はできなくもないが、境界線のあやふやなパズルのピースを拾ったような気分だった。そういうと、ジロータは「いずれ、わかるさ」とまた笑った。その笑いは、子どもだからわかるはずがないという見下しでもなく、大人だからわかるという傲慢さも感じさせない、本当にわかる日が来る、今は、わからないだけ。ただそれだけ伝わってくる。いやみもいやらしさも感じない。(大人がみんなこうだったらいいのに)
ジロータは養父のエイベルの友人だ。眼鏡をかけたちょっとウエーブのかかった黒い髪をしている。紹介されたときは僕にとって初めて見る東洋人だった。見た目の年齢は十代後半ほどなのに、吸血鬼のエイベルとは違う意味で、年齢不祥だった。200年生きた凄みが見え隠れするエイベルと違って、途方もなく広がる神秘的な雰囲気を纏っていた。しかし、いつも上下のジャージを着ていた。さすがに今日は廃墟を探索するので、上着だけ青のジャージで、下はジーンズを着ている。
「おい、あれが軍艦島だ。こっからだと船みたいだろ?」
ジロータが肩をたたいて、指で指した先には暗くただずんでいる大きな動かない船があった。
「本当に、日本の軍艦みたいだ…!」
近づいていくにつれ、軍艦島の全貌が見えてくる。高層のコンクリートの建物が隙間なく、立てられている。そして、これらは全て廃墟で誰も住んでいない。誰もいない。軍艦島は、1974年に閉山した。
漁船は着岸し、漁船は去って行った。
島を囲んでいるであろうコンクリートの壁にかかるはしごに手をかけて上っていく。ジロータが先に上って、僕は後ろからついていく。
「ねぇ、さっきなんて言ってたんだ?」
「五時半。迎えの時間だ」
「へぇ。この赤い字で看板に書いてあるのは、なんて意味?」
「立ち入り禁止」
はしごを上り降りると、大きな石がごろごろしている小さな広場みたいなところに出た。誰もいない建物が出迎える。窓ガラスは割れ、白い壁の塗装はところどころ剥がれている。七階建てみたいだ。
「ここは小学校のグラウンドで、目の前の建物が小中学校だ」
「え。ここが、学校!」
ここの島の中では一番新しい土地だそうだ。と言っても、30年以上も前の話か。ここで、僕と同じくらいの子どもたちが遊んでいたり学んでいたりしたかと思うと、ぞっとした。隣に大きな建物が立っていて、学校から二メートルほどぐらいしか離れていない。
「学校の隣にある、あの建物はアパートでな。この島で一番大きな建物だ」
六十五号棟とジロータが呼んだ大きな灰色のアパートは、ここからだと学校の校舎で全体の半分くらいしか見えていないらしい。どんだけ、でかいんだろう。立てる場所がないからこのアパートの上に幼稚園も建てていたらしい。ここに、人間がひしめくように住んでいたのか――。
「とりあえず、中に入ってみるか?」
異国の誰もいない退廃した建物――。僕は、頷いた。
中には大小色違いの理科の実験に使うフラン瓶が置いてある教室や教科書だった白い紙の束、まだ座れそうな木で作られた机と椅子。「懐かしいな…」ジロータが呟いたのが聞こえた。
「ジロータはこういう場所で勉強したのか?」教室には入らずに、屋上に向かって歩いていった。教室の中じゃなくても、ガラクタや木材が散乱している。気をつけないと躓いて転んでしまいそうだ。
「俺は人間じゃないから、学校で勉強はしたことない」ジロータの言葉にぎゅっと胸の奥が締まった。
「あ…」不用意な言葉だった。僕の普通は、恵まれている。ふとした言葉が誰かを惨めにしてしまう。
「そんなつもりじゃなかった。気に障ったら、…ごめん」
「はは。俺は気にしてない、気にすんなよ。勉強は別のところでしたし、ここではもっぱら、勉強している教室に侵入して邪魔したり、遊んでるのを眺めてたりしてたよ」立ち止まった僕の頭をぐしゅっと大きな手で包んで軽くなでてくれた。この手は、僕を殴らない。養父のエイベルの手もそうだ。
「さぁ、早くしないと日が沈んでしまうぞ」
それから、いろいろな思い出話をジロータはしてくれた。初めて学校に侵入して小学生に追い回され、給食の時間に救われた話とか、中学生がこっそり餌付けしてくれたけど、実は先生にバレていた話とか、いじめっこを懲らしめた話とか。六階の体育館に大きな絵がステージに置いてあるのが印象的だった。英語で「愛と平和」の文字が描いてあった。今や「愛と平和」は廃墟に置き去りか。廃材が散らばる廊下と階段を上りきると、屋上についた。
「あんまり、端っこに行くなよ。いつ、崩れるかわかったもんじゃない」
この島は、海に囲まれていた。これが水平線というものか。「…凄い。はじめてみた」
さっき島に下りたグラウンドの反対側にあるのがこの島の核心だった炭鉱施設だと、ジロータが教えてくれた。上から見た施設は、ほとんどボロボロになっていた。屋根のないレンガ造りの建物や天井に穴のあいた木造の建物がわずかに残っている。
ふと、隣のアパートに繋がる橋をみつけた。手すりもなく、赤錆が侵食している。目の端に白いものが見えた。
目の前に。目の前に女の子がいた。
「なぬっ!!」自分の声とは思いたくない奇怪な声を出し、尻餅をついた。ついでに、腰も抜けたかもしれない。「くすくす」
白い髪の女の子は僕を見て笑った。女の子の目の虹彩が黄色い、そして、縦に長い黒い瞳。よく見ると、肌は人間のものじゃない。光の反射の具合が、ヌルリとしている。僕はこういうヒトを見たことがあった。知っているヒトは緑色だったが。きっと彼女は、蛇人だ。腰まで伸ばした白い髪が、海風に揺れる。思わず、言葉を奪われる光景だった。
「笑うなよっ!びっくりしたじゃないか」強がっても意味ないのに。彼女の顔から笑みが消えた。思わず、血管が冷たくなった。笑ってないと、こんなにも冷たい顔があるのか。じっと彼女は僕を見つめると、錆びた橋を軽やかに駆けて行った。(綺麗だ。)
その後ろを僕は追いかけた。「…!」後ろで声がしたが僕は気づかない振りをしてしまった。
彼女は、灰色の建物の瓦礫の間をヒラヒラと進んでいく。灰色に退廃した廊下に白と赤のキモノがヒラヒラと舞っている。まるでそこに瓦礫なんてない様に進んでいく。付いていくだけで精一杯だ。建物同士が複雑につながっていて、どこのアパートの何階にいるのか、わからなくなってくる。とりあえず、建物を降りていっているみたいだった。
アパートの中は、扉なんてなく廊下は吹きさらしで、こんな密集して人が住んでいたと思うと、気持ち悪い。多いときには、5000人以上住んでいたという。軍艦島は当時、世界で一番の人口密度を誇っていた。彼女も、この濃密なコミュニティーの一人だったのだろうか。他にも、蛇人はいたのか。「ちょ、ちょっと待って!!」流石に、狼男になって体力は人並み以上になったが、意外な気温の高さと思わぬ彼女のスピードの速さに参った。汗で服がベトベトして、気持ち悪い。
彼女は止まって、振り向いてくれた。なびく髪は白くて儚い。僕との距離は、あと二メートルぐらい。何か僕に話しかけてくれた。でも、よくわからなかった。
彼女は僕の手を掴んだ。ふと、目の前が暗くなった。
明るくなったと思ったら、夕方になっていた。見渡すと、アパートの瓦礫がなくなっていた。そして、いないはずの住人たちがあふれている。そして、彼女は体温のない手で僕の手を握っていた。彼女は驚いた僕を確認すると、走り出す。
それからは、すべて夢のようだった。小さい子のあふれる賑やかな屋上の幼稚園、ワイワイと艶やかで鮮やかな娯楽施設、暗く重々しく息苦しい炭鉱施設。全部、夢のようだ。目をそらしたくなる悪夢も含めて。ヒトはたくさんいるのに、何故か話しかけられることやぶつかる事がなかった。まるで僕たちがここにいないみたいだ。「おい、ミヨ」下から声がした。黒い猫だった。その猫は尻尾が二股に分かれてる。その猫を、彼女は次郎太と呼んだ。(ジロータ!)
「俺は、もう行くことにした」たぶん、今の彼女が一番聞きたくなかった言葉。迷路みたいにつながっている建物を回っている様子は、何かに逃げているようだった。閉山が決まり、人間と一緒に次郎太は島を出ることを決めたときだったのだろう。当然だった。人間がいなくなると、この島には動物が生き残れるほどのものはもうなかった。人間の下敷きなってしまったのだから。黒猫の次郎太は去って行った。神社から次郎太が乗っている船を見送った。あんなにいた人間が去っていく。嵐がやってくるたびに急速に朽ちていく建物。拝殿はもうなくなっている。彼女に手を引かれ、白い長い髪が海風に踊っている。
「…まるで、蜃気楼のように現れて消えてしまうのね」僕の、そんなことない、という言葉は、いきなり風向きの変わった海風に攫われてしまった。代わりに、僕は彼女の手を強く握り返した。
いきなり、僕は何かに引き戻された。「ルーク!」ジロータの声。ジロータの隣には、知らない白髪の20代半ばぐらいの女性がいた。「えっと…ここは?」夢を見ていたみたいだ。
「端島神社だ。」
「え…女の子は?白い蛇人の女の子がいただろ?!」
いつの間にか、僕は端島神社という場所で倒れていた。ジロータはぼくをゆっくり起こすと、ペットボトルに入った水を寄越した。冷たくておいしい。もう、彼女の手の感触は残っていない。おぼろげに女の子の背中だけが記憶に残っていた。
「あー…」女の人が気まずそうに僕から目を背けるのをみた。
「あー…じゃねーよ!なんで、自分の記憶をほったらかしにしてるんだ」
ジロータが珍しく声を荒げている。なぜか女の人は日本語でしゃべっているはずなのに、言っていることがわかる。
「ジロータ。その人は誰?」
「紹介が遅れたな。こいつは、この神社の神使のミヨだ。神使ってのは、神様に仕えしている魂のことだ。西洋の感覚だと、天使に近いな」
「…だから、言葉がわかるのか」唇が言葉と合わないこともあるが、魂となら言語は違えど伝わる。それはこっちの世界ではごく自然なことだった。
ミヨは、女の子と同じ名前だ。同じなのは名前だけじゃなくて、長い白髪と瞳、キモノまで同じだった。違うのは、年齢だけだろう。僕の会ったミヨは蛇人じゃなく、蛇の神使だったのだ。
「気軽にミヨでいいわよ。ジロータのお友達なんでしょ?いやー、かわいいわね!これじゃあ、私が手を出すのも仕方ないわ!」
「仕方なくねーよ!」
天使に近いヒトが、とてもラフに喋っている。僕があったミヨとは違った。こんな明るい人柄にも、その裏には悲しみを湛えているのか――。あまりのコントラストに目眩がしそうだ。
「お前が会った女の子は、こいつの記憶だ。」
僕の会ったミヨのそのあとの出来事を教えてくれた。あのときのミヨにあったのは、役目を終えて消えるか、それとも、上のランクの神使を目指して学校に行くか。安易に学校を選ぶことはできなかった。学校に修行に行っても、修行の過程で消えてしまう可能性があったこと。もし、消えたとしても大丈夫なように一番大切な記憶を置いていったこと。今日は修行を終えて、もう端島に戻ることがなくなるので記憶を迎えに来たこと。その間のジロータは複雑な顔をしていた。嬉しいことと悲しいことが同時に起きたような。
「なんで、今日なんだ?」
「ジロータが来るってわかってたから。だから、記憶を迎えるついでに会いにきたの」
「…アレは、いちばん大切な記憶なのか」
大切な友達との別れの記憶。楽しい思い出が廃れていく記憶。なぜ、楽しい記憶じゃないのだろう。ただ、つらい記憶で捨てたんじゃないのか。僕の記憶に、寂しそうなミヨの顔が浮かんだ。
「もう二度と会えないかもしれない親友との記憶が大切じゃないわけないでしょう」
「ミヨはもう」
「私の中にいるわ」ミヨは笑った。
「そう」
本当に、そう、蜃気楼みたいだ。蜃気楼は大気の温度差の屈折で起こる。今のミヨと昔のミヨ。楽しい思い出と悲しい記憶の温度差。そこに、蜃気楼が起こった。そして、僕は儚い失恋をした。
お別れは、案外あっさりとしていた。今回は、ジロータが見送る側だった。鳥居がさる場所へ繋がっていた。ミヨはそこをくぐり、いなくなった。「お別れの言葉はいいのか?」「とっくに済ませてある」
帰りの漁船の中、海風に吹かれながらジロータは僕に「ミルクセーキおごるよ」と言った。一番切ないのは、ジロータだろうに。
「ただいまー」長崎のホテルに帰ってきた。案の定、ベットでエイベルは寝転がっている。
「おー、おかえり。どうだった?」
「まさに、廃墟の王様だったよ」ベットに目を向けると、布団に簀巻きになった吸血鬼がいた。暑くないのか。
「そうか。猫が住めないくらいの王宮にするのが、人間流だからな」
「素直に、行きたかったって言えばいいのに」
「だまれ」そう言って、うつ伏せになる。この吸血鬼は、本当に200年以上生きているのか。それとも、それ故に成せるワザさのか。
「ジロータ、ミルクセーキは?」いつ飲みに行くのだろう。
「おうおう。今度はちゃんと三人で行こうな!」
「失恋の味はミルクセーキか。ジロータは乙だな」何故エイベルは、それを知っているんだ。
とりあえず、ジロータのお勧めの喫茶店で詳しく話を聞くことになりそうだった。