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フランス国歌 ラマルセイエーズ成立に関する覚書。

作者: catwark

ベルサイユのばらの時代。

劇場アニメ『ベルサイユのばら』2025年新春公開と聞く。

モーツァルトはピアノ協奏曲第25番 ハ長調 K. 503でラマルセイエーズを引用したのか?

リリークラウス盤をBGMにどうぞ(14分、カデンツァ)。

www.youtube.com/watch?v=I3L2w30fgj8

 ラ・マルセイエーズとして有名なフランス国歌は、

ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティが 1781年3月2日に作曲した、

「ヴァイオリンとオーケストラのための主題と変奏曲」の主題を使って作られた。


「自筆譜には特徴的なヴィオッティのサインの下に1781年3月2日の日付けが

あり、この曲がラ・マルセイエーズよりも11年も前に作曲されたことを示す。」

(菊池修 著、ヴィオッティー近代ヴァイオリン奏法の父 より)


 ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ

サルデーニャ王国、フォンタネット・ポーで1755年5月22日生を受ける。

トリノの宮廷に仕え、師ガエターノ・プニャーニのもとヴァイオリン奏者として名を成す。

1780年にはプニャーニとともにドイツ、ポーランド、ロシア、パリ、ロンドンへ演奏旅行。

1782~83年、パリのコンセール・スピリテュエルで演奏し、その後パリにとどまる。

パリ、ヴェルサイユでマリーアントワネット(同い年)に仕える。

フランス革命(1789年7月)後、ロンドンに渡りハイドン(ドイツ国歌の作曲家)と親交。

1819-1821年、パリ・オペラ座の音楽監督。

1824年3月9日ロンドンにて死去。


 マリーアントワネット(マリア・アントーニア)

1755年11月2日生 - 1793年10月16日没

マリア・テレジア、オーストリア女大公の15子(11女)。

(マリア・テレジア、多産である。16番目の子は後のケルン大司教。)

1770年5月16日(14歳)、フランス王太子(後のルイ16世、1774年即位)と結婚。

1793年10月16日(37歳)の12時15分、ギロチン刑により没す。


王侯貴族に仕える音楽家の仕事は、園遊会や晩餐会などでの演奏であり、やはり自作の曲が奏されたであろう。

また貴族子女にとっては、チェンバロやピアノの演奏は嗜みの一つであり雇われ音楽家が教師も務めたであろう。

ヴァイオリンとオーケストラの曲は、ヴァイオリン練習用にオーケストラ譜をピアノ用に編曲して使う。

ヴィオッティとマリーアントワネットは同い年であり、宮廷内でアンサンブルを楽しんだのではないか。

自作のヴァイオリンとオーケストラのための主題と変奏曲も演奏されていたか、ヴァイオリンとピアノで二人で合奏していたかもしれない。

その為フランス国内にこのメロディーが広まったのではないか。

パリとウィーンはマリーアントワネットを通じて交流が深かったであろう。

その頃のモーツァルトは、ウィーンで貴族令嬢にヴァイオリンを伴奏として弾きながらピアノのレッスンを行い生計をたてていた。モーツァルトのヴァイオリンソナタはレッスンの為に作られたものでもある。

ヴィオッティのヴァイオリンとオーケストラのための主題と変奏曲も貴族令嬢等からか、あるいはレッスンのための曲としてか情報を得ていたのかもしれない。


 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

1756年1月27日生 - 1791年12月5日没

1781年にはザルツブルグからウィーンに移り、

フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、

楽譜の出版などで生計を立て、1782年コンスタンツェと結婚。

ピアノ協奏曲第25番 ハ長調 K. 503が作られたのは1786年12月4日。

第1楽章の第2主題に5年前に作曲されたヴィオッティのヴァイオリンとオーケストラのための主題と変奏曲の旋律が使用されている。

2日後、交響曲第38番 ニ長調 K. 504 プラハが完成。

モーツァルトは1791年12月に亡くなっている。

ラ・マルセイエーズは1792年成立とされる。

当然、モーツァルトがラ・マルセイエーズを参考にすることは出来ない。


 マリーアントワネットに仕えるヴィオッティが作曲した曲をモーツァルトが耳にし、そのメロディーをもとに作られたラ・マルセイエーズ。

マリーアントワネットを断頭台(1793年10月)へ送った革命の歌として成立し、フランス国歌(1795年)になった。

マリーアントワネット自身も曲を聴いたり演奏に加わったりした可能性もあり、そうであるなら実に数奇な運命というべきか。


 ナポレオン・ボナパルト

1769年8月15日生-1821年5月5日没

1785年砲兵士官,1789年革命時20歳。

フランス革命へのオーストリア帝国の干渉により、ナポレオン軍は1797年4月、オーストリアの帝都ウィーンへと迫った。

1804年5月、国会の議決と国民投票により皇帝に、12月2日 戴冠式が行われた。

1809年5月 ウィーン進攻(ハイドン没)。

1814年失脚。

以後、ウィーンでは会議は踊る、されど進まず。

1815年復位も百日天下。セントヘレナ幽閉。


 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

1770年12月16日頃 - 1827年3月26日没

ベートーヴェンは生れた日が不明であり1770年12月17日に洗礼を受けた記録があるのみ。

1792年ウィーン。モーツァルト没後である。

1804年、交響曲第3番 変ホ長調 作品55『英雄』作曲。

当初、ナポレオンへ献呈しようとしていたが5月、ナポレオンが皇帝に即位と聞き、ボナパルトの献呈文字を削る。


1871年、ドイツ帝国成立。

ハイドンの曲が国歌となるのは1922年の事。


フランス国歌の基メロの作曲者がドイツ国歌の作曲者とロンドンで親交があったとか。

もちろん、二人とも自らの曲がともに国歌になるなど知らなかっただろう。

その、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン (1732年3月31日 - 1809年5月31日)はナポレオン占領下のウィーンで没している。

ほとんどがWikipedia情報である。

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