1-6 禁止区間の蝶
立ち入り禁止区域は僕らが過ごす区域に比べて、ずいぶんと暗かった。
クピド症候群の患者は日差しを好む。そのため僕らがいる区間は日差しが至る所から入るように設計されている。風の通りも考えられているし、窓が多くかなり明るい。
それに慣れてしまった僕からすると、ここはずいぶんと暗い。
といっても灯りが全くないわけではない。上には蛍光灯がついている。目の前の天野君の姿もハッキリと見える。それなのに暗く、圧迫感を感じるのは両側の壁が迫ってくるように感じるからだ。
左右にドア。奥にも通路が続いている。観葉植物やベンチはなく、かなり殺風景だ。
だからこそ分かる。ここは僕らみたいな患者が来ることを想定して作られていない。その事実に僕は気圧されたけれど、天野君は慣れた様子で先へと進んでいく。何度か忍び込んでいるようだし、気にすることではないのだろう。
「静かだね……」
歩くたびにスリッパのすれる音がする。静かなせいでやけに響いて聞こえて、それだけで僕は身がすくむ。しかし天野君は全く気にした様子がない。大胆すぎる姿に、少々呆れてきた。
「もうちょっと隠れたりしなくていいの?」
「隠れようにも隠れる場所ねえだろ」
天野君は僕を振り返ることもなくいう。たしかにその通りではある。
「安心しろ。ここら辺はあんまり人こねえよ。研究施設はさらに奥らしい。ここら辺は物置。だからあんまり人が来ることもねえし、出入りも簡単。奥に行けば行くほど、厳重だし、一番重要なとこはカードキーがねえと入れねえらしい」
天野君の説明にどうりであっさり入れたはずだと納得する。同じ立ち入り禁止区間といっても重要度に差があるのだろう。もしかしたら、天野君のような行動派のためにわざと警備を緩くしているのかもしれない。
「先輩はカードキーまでは手に入れられなかったっていってたから、入れる範囲で翅の保管部屋があるはずなんだよ」
天野君はそういいながらドンドン奥へと進んでいく。入口付近の部屋はすでに調べた後らしく、全く興味を示さない。僕は落ち着かずに視線をさまよわせながら後に続く。
視界に入った自分の翅が心なしかしぼんでいるようにみえる。太陽の光がないからか、僕の気持ちが現れているのかは分からない。
それに比べて前の天野君の翅はしっかりしていた。日差しがなくても凛として上を向いている。こういうところにも性格は出るのかと、何だか悲しくなってきた。
「今日調べるのはこっから向こう」
奥へ奥へと周り角を何度か曲がって、やっと天野君が始めてくる場所にたどり着いたらしい。立ち入り禁止区間は思ったよりも広い空間らしく、白い壁にドアと代り映えしない景色が続くこともあって自力で帰れる気がしない。
天野君が向こう側と示した場所も、僕は先ほどまで通った道との違いが分からない。地図を作っているわけでもないということは、天野君は完璧に道を覚えているようだ。何て記憶力だと僕が感心していると、背後から人の足音が聞こえてきた。
カツカツと響く足音は僕ら患者のものとは明らかに違う。患者は皆スリッパを履いている。中には裸足で歩く子もいるようだが、なおさらあんな無機質な音は出ないだろう。だからこんな音を立てて歩くのは患者ではなく、スタッフだ。
天野君が慌てた様子で僕の腕を引っ張る。僕は緊張のあまり強張った体が上手く動かず、足がもつれた。転びそうになる僕を見て天野君は舌打ちすると、強引に僕を引っ張って一番近くのドアへと押し込める。そのまま自分も隠れよう。そう思ったのだろうが、その前に知らない大人の声が響いた。
「君! ここは立ち入り禁止だぞ!」
「やっば」
その声を最後に、走り出す音が聞こえた。スリッパのパタパタという音がしないから、裸足になったのかもしれない。続いて「待て!」と追いかけていく靴の音。
放り込また体勢のままドアを振り返った僕は、遠ざかる足音に冷や汗を流す。僕のせいで天野君がとか、これからどうしようとか、見つかったら僕はどうなってしまうんだろうとか、いろいろな感情が頭の中でグルグルした。
とにかく天野君を助けないとと、フラフラと立ち上がり外に出ようとした。
「やめといた方がいいよ。四谷さん煩いから」
誰もいないと思っていた部屋の中から声がして、僕は心臓が飛び出るかと思った。ドッドッと心臓が鳴る音が耳に響く。安全だと思った場所が肉食獣の檻の中だった。そんな気分だ。
神経を研ぎ澄ませると確かに人の気配がする。窓が開いているのか風の流れと、かすかに揺れるカーテンの音がした。左右を見渡すと書庫なのか本棚が目に入る。パラパラとページをめくる、紙のこすれる音がして本を読んでいるのだと分かった。
僕が周囲の気配を必死に探っている間、声の主は全く動かなかった。最初の一言以外、僕に対して何かをいう気もないらしい。
何者なんだろう。そう思ったら恐怖よりも興味がわいてくる。僕はゆっくりと体を声の主の方へと向け……心臓が音を立てて止まった。
開け放たれた大きな窓。その窓枠に腰かけて、本を読む青年がいた。揺れるカーテン、差し込む日差しが影を落として幻想的だ。青年の整った容姿が現実離れてしているせいか、僕はここが現実ではなく夢なのでは。そう真剣に考えた。
そう思うほどに青年は、青年の持つ翅は美しかった。
大きな窓枠をキャンバスのようにして広がる翅は、日差しを浴びてキラキラと輝いている。窓から差し込む光の加減で色が変わり、一度として同じ色に落ち着くことがない。変わり続ける色の美しさに魅了されて、呼吸も忘れて見つめ続ける。
「ここまで来る子は久しぶりだな。よく来たね」
区切りのいい所まで読み終えたのか、本にしおりを挟んだ青年は僕を見て笑った。透き通るような笑みだ。綺麗といえば聞こえがいいが、温度がないともいえる。だからこそ隙がなくゾッとするほど美しい。
ドッドッと心臓が音を立てる。あまりにも大きな音なので、血管がちぎれるんじゃ。もしかしたらこのまま死ぬのでは。そんなことをバカみたいに考えた。同時に、それもいいかもしれない。こんな美しいものを見て死ねるなら。そんなことを考えてしまって、自分の思考に驚いた。
「そ、その……落ちた翅の保管場所があるから、探しに……」
「清水がいってた、後輩?」
知らない名前が出てきて僕は固まる。その後、慌てて首を左右に振る。必死な僕の様子をみて青年は不思議そうな顔をした。
「あれ? 天野じゃないの?」
「えっと、天野君は僕をここまで連れてきてくれて……」
「あーさっき君をかばって逃げた子ね。なるほど、なるほど。あの一瞬見えた子が天野か」
青年は謎がとけて嬉しいのかニコニコと笑う。何だか大人なのか子供なのか分からない言動をする人だ。
すらりと長い手足や整った顔立ちは、どう見ても僕より年上。おそらくは成人している。そう思いながら青年を凝視して、僕は不思議なことに気づく。
顔合わせの時、この青年と会った覚えがない。こんな強い印象を持つ人を忘れるはずがないというのに。
「保管庫の場所は教えてあげてもいいけど、それだとつまらないよね」
「えっ……えぇ……」
ニコニコと笑顔を浮かべる青年を見て、僕はぼんやりしながら頷いた。
僕はもはや翅の保管庫のことなんて、どうでもよくなっていた。もっとすごい、美しい存在が目の前にいる。落ちていない瑞々しい翅が目の前にある。この翅よりも美しい翅が他にあるとは思えなかった。
「今度また探しに来なよ。どうしても見つからなかったら、その時はヒントをあげよう。だから、とりあえず今日は帰った方がいいよ。四谷はうるさいから」
そういいながら青年は顔をしかめた。四谷というのは天野君を追いかけていった人でいいのだろうか。口ぶりからいって、この青年は四谷という人を良く知っているらしい。
「帰り道わかる? 分からないなら送ってあげるよ」
そういうと青年はふわりと窓枠から降りた。翅がはためく。体重を感じさせない動きを見て、この人は綺麗に飛ぶのだろう。そう思った。
落下するんじゃと怖くて見れない飛行。それを初めて見たいと思った。太陽の下、空を飛ぶこの人は美しいに違いない。
「あ、あの……」
自然と隣を通り過ぎて、ドアノブに手をかける青年。とっさに声をかけると小首を傾げられた。小さな動作だというのに、言動の一つ一つから目が離せないのは何故だろう。じっと見つめられるだけで、何かが胸の奥から沸き上がってくる。
そして、背中の翅がブルリと震えた気がした。何か大事なものが抜け落ちる。そんな感覚がして、思わず僕はそれを抑え込む。ダメだと思った。今ここでそれを表に出してしまうのは。
「名前、聞いてもいいですか?」
自分も驚くほど緊張した声が出た。一世一代の告白をしたみたいな声。僕は焦ったが青年は気にした様子はなく笑う。やはり透明な、色味のない笑顔だ。
「翡翠。どうぞよろしく」
そういって差し出された手に僕は戸惑いながら、おずおずと手を差し出した。翡翠さんの手はひんやりしていた。温度のない笑顔と同じ。
その後、僕は入口まで翡翠さんに送ってもらったのだが、道すがら何を話したのか全く覚えていない。何かと声をかけられた気がするのだが、いっぱいいっぱい過ぎて始終しどろもどろだった。
手を振る翡翠さんに頭を下げて夢心地で立ち入り禁止区間を出て、そのままフラフラと自室に帰りベッドに突っ伏する。
もっと翡翠さんとの会話を覚えておけばよかった。そう後悔したのは、夜も遅くになってからだった。