6-4 恐怖の置き場
医務室の中は静かだった。日によっては俺みたいに体調やメンタルに問題ある奴が寝ているのだが、今日はカーテンが閉まっているベッドがない。誰もいないとわかって俺は安心した。
「ホットミルクでも飲むか」
そういいながら四谷は給湯室へと姿を消す。スタッフルームといい、ここは設備が充実している。少なくとも俺の通っていた学校の保健室には、給湯室なんてなかった。
部屋の隅においてあった丸椅子を出して適当に座る。デスクの上には開きっぱなしのノートパソコンがあって、画面にはアルファベットが並んでいた。たぶん英語だけど、勉強が苦手な俺にはよくわからない。見ただけで拒絶反応がでて身を引く。
ノートパソコンの横に置かれたノートには、俺には意味のわからない単語が走り書きされている。こういうのを見ると四谷のはれっきとした医者で、大人なのだと実感する。
四谷と同じ年になった時、俺は何をしているんだろう。そもそも虫籠から出ているんだろうか。新田は? 天野は? 小口さんは……?
未来のことを思うと不安になって頭がグラグラしてくる。
「大丈夫か?」
いつの間にか四谷が戻ってきていて、マグカップを両手で持ちながら心配そうな顔をしている。自分の分をデスクに置いて、俺にマグカップを差し出す。
両手で受け取って、手のひらから伝わる温かさにホッとする。ぼんやりしている間に額に手を当てられた。医者らしく慣れている。ひんやりした体温が気持ちいい。振り払う気になれなくて、抵抗も忘れてじっとマグカップの中の白い液体を見つめる。
そこに映った自分は、自分でも笑っちゃうくらい調子が悪そうな顔をしていた。これでは心配するなというのが無理な話だ。新田や天野がこんな顔をしていたら、俺だって何があったんだと問いただしに行く。それなのに自分がされたら怒るなんて、なんて勝手だろうと落ち込んできた。
「熱はなさそうだな。眠れない以外に問題は?」
四谷が俺の顔をのぞき込みながら問いかけてくる。
問題と言われればいくつか浮かぶ。ばあちゃんが入院しているのは気になるし、眠るたびに見る悪夢は日に日に気持ちを重くする。せっかく小口さんの連絡先を聞けたのに全く連絡してない。酷い奴だと嫌われたかもしれない。体が重くて上手く飛べない。
でも、いま一番気になるのは……。
「あんなに怒った新田、初めて見た」
マグカップを握りしめる。牛乳が揺れて、映り込んだ俺の顔も歪む。
頭に浮かぶのはさっきの新田の顔。重苦しく、張り詰めた空気。去って行く後ろ姿には確かな拒絶を感じた。
「俺は廊下で立ち尽くしている大空さんしか見てないが、新田さんはそんなに怒っていたのか?」
四谷も意外だという顔をする。医者と患者という立場とはいえ、俺よりも付き合いの長い四谷も意外に思うのであれば、新田が怒るなんて本当に珍しいことなのだ。俺は今まで、新田が怒るなんて想像もしていなかった。怒らない奴なんていないはずがないのに、新田なら何を言っても怒らずに笑ってくれるだろうとどこかで思っていた。
「謝りたいけど、なんて謝ればいいのか分からない。そもそも何で怒ったのかもよくわかんないし」
マグカップを握りしめる手に、さらに力が入る。あの時の事を思い出してみるが、感情的になっていたせいで、自分でも何をいったのかハッキリ思い出せない。ただ、新田の冷たい声は覚えている。
「俺が死んだって、お前らにはどうでもいいだろって言ったのが、たぶん、新田を怒らせた」
「それは……」
四谷が言いよどむ。マグカップから顔を上げてみれば、苦い顔をしていた。言っていいものか迷うような姿を見るに、四谷は新田が怒った理由を知っている。教えて欲しいという気持ちを込めてじっと見つめると、四谷は困ったように眉を下げた。
やがて俺の視線に観念したようにため息をつくと話だす。
「患者のプライベードに関わることだから、詳しくは話せないが、新田さんは死というものに敏感なんだ。大空さんの様子を毎日見ていたのも、落下死というものに対する危機感が強かったためだろうと、今園さんは言っていた」
「俺よりも?」
実際に飛んでいる俺よりも、新田の方が俺の落下死を恐れていた。そう受け取れる言葉に俺は固まった。
そんな俺の様子を見て四谷は苦笑いを浮かべる。
「大空さんは逆に、落下するかもという危機感は薄いだろう? じゃなきゃあんなに毎日、長時間。夜までこっそり飛ぶなんて危険行為はしない」
「バレてたのか……」
俺の呟きに「当たり前だろ」と四谷は鼻を鳴らした。分かったうえで、たまに釘をさす程度で済ませてくれていたらしい。
「俺よりも新田さんの方が君の体調やメンタルに敏感だったからな。俺が口を出すよりも新田さんに任せた方がいいだろうと思ってな。厳しくしすぎて、本気で隠された方が困る。虫籠の中はどうしたって娯楽が少ないから、締め付けすぎても君たちにストレスが溜まるだろうし」
四谷は悩ましげにため息をつくと眼鏡をクイッと押し上げた。伊達眼鏡でレンズは入っていないと聞いたことがあるが、やけに様になる。
知ったうえで見逃されてるとも知らず、大人の裏をかいているつもりになっていた自分が恥ずかしくなった。俺はそわそわと体を身じろぎさせる。
「俺は、大空さんのことは心配していなかったよ。君がクピドの翅で飛ぶことを知っている。本当に危ないと分かったら、自分の判断でやめられる。夜の飛行だって、今まで怪我一つせずに行っていた。下手に止めた方が負けず嫌いを発揮して止まらなくなるタイプだろ」
四谷はそういいながらマグカップを口に運ぶ。かすかにコーヒーの香りが漂ってきて、自分が持っているホットミルクとの差が、そのまま経験の差だと見せつけられているように感じた。
四谷が思ったよりも自分の事を見ていたことに驚いたし、ちゃんと評価されていたことも嬉しかった。同時に子供なのだと突きつけられた気もして、複雑な心境だ。
「新田さんは俺よりも大空さんを理解していると思う。毎日、ずっと君が飛ぶのを見ていた。楽しそうでありながら、いつも不安そうだった」
四谷の話を聞いて、俺を見上げる新田の姿を俺はほとんど見たことがないことに気づいた。飛んでいる時、俺はいつも飛ぶことに夢中で下なんか見向きもしない。どういう気持ちで、どんな顔で新田が俺を見上げているのかなんて、想像もしたことがなかった。
「なんで、新田はそんなに不安だったんだ?」
虫籠が出来る前、落下死した患者は少なからずいた。今もゼロではないが年に一件、二件、あるかないかというところだ。虫籠内での落下であれば、翅を直すのに特化したスタッフがいるからなんとかなる。
少なくとも俺はそういう気持ちで飛んでいた。落下死するかもしれないという考えはあっても、死の恐怖は薄かったのは事実だ。たぶん、飛ぶことが楽しすぎて、恐怖とか危機感は地上に置いてけぼりになっていた。そんな俺の危機感を代わりに新田が持っていたのだろうか。
俺の問いに四谷は眉間に皺を寄せ、話すかどうかしばらく迷った様子を見せてから、重い口を開いた。
「新田さんのお兄さんは事故で亡くなっている」




