一.種子と甘い水
「お……い……お〜い! 大丈夫か? しっかりしろ!」
―――息がものすごく苦しい……! 呼び声に応じて意識を取り戻した瞬間、何よりも真っ先に身体は酸素を求めていた。目を開けることよりも優先的に、まず新鮮な酸素を体内に取り込まなければ。一生懸命に呼吸をしようと口を開けると喉の奥から大量の水が溢れてきた。……それは喉を焼き尽くすような、そんな水だった。
ようやく重たい瞼を開くと声の主は黒くて丸い瞳を見開きながらこちらの顔を覗き込んでいた。大きな声とは裏腹にその身体はとても小さく、例えるなら人間の赤ん坊のように見える。そして全身を観察するとさらに異質な存在であることが分かる。
―――背中にある青空を切り取ったかのような空色の翼は、羽ばたきもせず時折風に揺られているような素振りでほとんど静止しているにも関わらず、彼女は宙に浮かんでいた。
「ゴホッ、ゴホ! ……君は……妖精? ……それとも……天使?」
「妖精でも天使でもないぞ! ボクはヴィヴィアだ!」
「……ヴィヴィアって君の種族の名前?」
「種族じゃなくてボク自身の名前だ! ……ボクはヴィヴィア。それ以上でもそれ以下でもないんだぞ!」
ヴィヴィアはふっくらとした小さな可愛らしい両手を振り上げながら空中で地団駄を踏んで怒りをあらわにした。どうやら感情の起伏が激しい性格のようだ。
「ゲホッ! ……とりあえず……助けてくれてありがとう、ヴィヴィア」
息を吹き返したのと同時に吐き出した水のほとんどがつい先程まで横たわっていた地面に零れ落ち、ほんの一部分の砂浜の色を濃くした。……刹那、体外に排出された水とともに何か一等大切なものを失ってしまったような、そんな感覚に陥ったが、瞬きの合間に彼はそのことさえも忘れてしまう―――。
ここは見渡す限りどこかの海岸のようだ。状況から察するに海で溺れたようだが不思議なことに舌の上はほんのりと甘く、海水による塩辛さは全く感じなかった。
「当たり前だぞ! お前はオッチョコチョイだからな。今までだって何度も救けてやったんだぞ!」
プンプン! と擬音がついても違和感がないほど彼女は怒っているようだ。短い両腕を胸の前で組み、口の中に餌を含むハムスターのように頬を膨らませながら、宙に浮かんでいる。感情が分かりやすいタイプは個人的には好ましいが……。
「今まで……? 俺たちって元々知り合いだったのか?」
「……寝ぼけてるのか? ボクたちはそれぞれの故郷に帰るために一緒に旅をする仲間だろ!」
「故郷に……ごめん、本当によく覚えてないんだ。君に会うのも今が初めてのような気がするし、ここがどこなのかも分からない。正直に言うと、俺自身のことも……」
「……記憶が混濁してるみたいだな。いいぞ! ボクのこともお前のことも知ってることは全部教えてやる。でも拠点に戻ってからだ。ここで話してたらあっという間に日が暮れて、魔物が出てくるかもしれないからな!」
そういうと彼女は俺に背を向けて歩き出した……正確には俺と同じ目線の高さに飛んでいるのでこの表現は間違っているかもしれない。倒れていた海岸から歩いて30分ほどが経ち、俺とヴィヴィアは鬱蒼とした森の中にいた。木々が日差しを遮り涼しい風が吹くと、ヴィヴィアの淡い薄水色の髪と大空色の翼がふわりと揺れた。
「着いたぞ! ここがボクたちの拠点だ!」
てっきり海岸から遠く離れた位置に見えていた白い壁と青い屋根のコントラストが美しい城下町に向かっているのかと思いきや、ヴィヴィアの言う拠点はその手前の森の中であった。
「俺たち……ここで野宿してたの?」
焚き火をした跡が残るそこは雨風を凌ぐ屋根もなく、清潔な布団の代わりと言わんばかりに青々とした落ち葉が集められていた。横たわってもかろうじて身体は痛くならないかもしれない。側にある木の根が立ち上がって狭い空間が出来ておりヴィヴィア一人だったらここで寝起き出来そう……というか実際にそうしていたらしい。
「そうだぞ! ……事情があってボクたちは城下町には入れなかったんだ。その、城門で騎士団と揉め事があって……ボクがお前にあげた『星の稲妻』もあのいけ好かない騎士団野郎に取り上げられちゃって……」
ヴィヴィアはそこまで話すと悲しさからか悔しさからか、小刻みにプルプルと震えだした。よく見ると今にも涙が零れ落ちそうなくらいに黒真珠に似た瞳が潤んでいる。ほとんど無意識に彼女の目元を右手の人差し指で撫でると案の定、涙が目の縁から溢れ出し……頬を伝ったそれは葉の絨毯を敷き詰めた地面に落ちる前に、白い真珠へと変わった―――。
「ヴィヴィア、君は一体……ってあれ? もしかして寝てる?」
真珠に気を取られていた瞬間にカクン、と首を傾げて両目を瞑った彼女はまだ飛んではいるものの段々と高度を下げている。このままでは墜落待ったなしだと両腕を広げると、胸の中にヴィヴィアの身体はすっぽりと収まった。身体の大きさもそうだがスイッチが切れたように眠りにつく感じが本当に人間の赤ちゃんみたいだ、ともしも目を覚ました彼女に告げたらまたプンプンと怒り出しそうなので止めておく。
「(ヴィヴィアのこと……故郷のこと……城下町と騎士団……聞き覚えがあるような名前の『星の稲妻』……そして俺自身のこと。思い出さないといけないことが沢山ある……)」
だが今は胸の中にある暖かさを頼りにほんの少しだけ眠りにつこうと、彼も葉で出来た布団の上に仰向けに寝転んでから、そっと瞳を閉じた。