第八話 ネコと機関車
■1903年(明治三六年)4月
電信教導大隊
「いけん!ぜんぜんいけーん!このままじゃ届かん!」
研究所から電信教導大隊にやってくるなり二宮が叫んだ。ブンブンと振り回される彼の手には色々と計算したらしい紙束が握りしめられている。
「どうした朝から騒がしいな。機体には問題は無いと聞いていたが?確か滑空比からみて余裕だと」
ちょうど北川大佐に家具職人を活用した三六式飛行器の量産準備状況を報告していた河野大尉が不思議そうに尋ねる。彼らは既に問題はすべて解決済みだと思っていた。
「滑空比は問題ないけん!て言うか今はあれ以上良うしろって言われても無理無理。それにありゃ最適の滑空速度出せたらって条件じゃけんの」
「最適の滑空速度?それはなんだ?」
あまりの騒がしさに北川も会話に加わる。
「ただ適当に山の上から飛ばすだけじゃ速度も高さも全然足らんって事じゃよ!」
そう言って二宮は持ってきた紙を机に広げた。
そこには飛行器を模した絵と、その中心から三方に伸びる矢印が描かれている。
「上に向かう矢印が機体に働く揚力、浮かせる力じゃ。後ろに向かう力が抗力、空気抵抗じゃ。ほいて下に向かうのが重力じゃ。安定して飛行する飛行器ではこの3つの力が釣り合うとる」
「それと滑空速度がどう関係する?」
「このうち重力は常に一定じゃ。変わらん。しかし残りの二つの力は速度で変化すね。速度が低いと揚力、機体を浮かせる力は弱うなる」
二宮は図に短い矢印を書き足した。
「すると、こんなふうに揚力・抗力より重力がはるかに大きゅうなる。その結果……」
「飛行器は落ちる訳だな」
理屈の分かった河野の言葉に二宮が頷く。
「しかし実際はすぐに落ちる訳じゃなか。仮に十分な高さがあったら落下にあわして速度が増しよる、つまり揚力・抗力が増える訳じゃ。ほいて力が重力に釣り合うた速度で安定する事になる。これが最適の滑空速度じゃ」
つまり二宮は位置エネルギーを運動エネルギーに変換することで安定した滑空に繋げる事を説明していた。
「ならば練兵場でやってみせた様に兵に引っ張らせればよいだろう」
北川が何が問題なんだと答える。
「兵隊さんが引っ張っても、高さはせいぜい数十メートルじゃろうが。それじゃ全然たらん」
二宮はブンブンとかぶりを振る。
「では高い所から飛ばしてやれば済む訳だな。たしか旅順要塞のある遼東半島あたりの山なら高さは500メートル前後、小さな丘でも200メートルはあると聞いている。それでは足りんのか?」
日本軍は旅順要塞攻略の検討にあたり周辺の高地をまず確保する事を計画していた。元は観測拠点や砲陣地の確保が目的であったが、今では目的に飛行器の発射場確保も加えられている。
「断崖絶壁なら機体が急降下して速度稼げるけんど、なだらかな山や丘じゃと速度を稼ぐ前に先に機体が地面についてまう。じゃけん滑空できん」
現代、日本最大の湖で毎年行われている某人力飛行機大会を思い出せば分かりやすいだろう。滑空機の多くは離陸直後に急降下することで位置エネルギーを運動エネルギーに変換する作戦をとっている。
逆に言えばそのエネルギー変換が出来ない場合は飛行距離は伸ばせないのだ。つまり今回のようなケースでは最初に高い初速と高度を与える必要があった。
「では丘の様にある程度高い場所から前回みたいに人が機体を引っ張ってやればどうです?それなら速度も高度も両方得られるでしょう」
河野が提案する。
「その通りじゃ。基本はそれしか方法は無か。ほやけんど人では頑張っても時速20キロくらいが精々じゃけん。ほれじゃ到底足らん。何か機械でもっと早う引っ張っちゃる必要があるんじゃ」
現代の無動力グライダーの場合、離陸方法は大きく3通りある。一つは別の航空機に曳かれて一緒に離陸し上空で切り離される航空機曳航、もう一つは地上でウィンチに曳かれて離陸するウィンチ曳航、最後が自動車で曳く自動車曳航である。
「ロープを巻き取り機で曳くか?」
「巻き取り速度が相当速くないといけない訳ですが、そんな機械はウチには有りません。鉄道大隊でも見たこと無いですし、おそらく海軍も持ってないでしょう」
北川の提案に河野が首を振る。
海軍用を含め大きな力が求められる一般的なウィンチ(ウィンドラス・キャプスタン)は減速率が高く、その巻き取り速度は極めて遅い。今回のように数十キロもの速度で曳く事は想定されていない。
「ならば馬か自動車で曳くか」
「競走馬ならともかく、輜重の馬匹じゃ脚は遅いですよ。自動車なんかこの日本じゃ誰も持ってませんし」
北川の案に河野がまたダメ出しする。ガソリン自動車は海外では既に一部で使用され始めていたが、当時の日本にはまだ存在していない。
「それなら機関車しかないが……仕方ない。鉄道大隊に協力してもらえんか相談してみよう」
続けて案を否定され少々むっとした北川だったが残された方法はもう機関車しかない。仕方なく彼は参謀本部に赴いて計画の問題点を説明した。
するとちょうど京義線建設のため朝鮮に鉄道大隊が展開しており、そこから小さいものながら機関車2両を敷設1個中隊とともに回してもらえる事となった。
使用するのはA/B形蒸気機関車である。3年前にドイツから10両輸入された野戦軽便鉄道用の機関車で、本来はA型B型2両の機関車を背中合わせに連結して運様する。今回は牽引する荷(飛行器)が極めて軽量であるため独立して運用することとなった。
軽便鉄道用のため線路は600ミリの狭軌で平地でも時速20キロほどしか出せないが、丘を駆け下れば50キロ以上は出せる。カーブがあれば脱線大事故間違いなしの速度だが下り直線路で十分な減速区間を用意すれば安全は確保できる考えられた。
小型ながら意外と急勾配も登坂可能なため、普通の丘程度ならばスイッチバックや重連をせずとも何とか登れる見込みである。
こうしてネコをロシア軍の陣地に送り込むためのハードウェアについては準備が整いつつあった。
だが作戦を実現する上で肝心要の課題が残されていることに誰も気づいていなかった
これでようやくハードウェアは整いました。だがそれだけではネコ投入作戦はできません。
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