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第三話 ネコと大砲

■1902年(明治三六年)12月

 大阪砲兵工廠


 かつて日本の中心であった大坂城は幕末の動乱で焼失し、現在では巨大な石垣と濠だけが当時の威容を今に伝えている。


 その城跡の東側、かつての三の丸を中心に広がるのが、陸軍の大口径火砲の開発生産を一手に引き受ける大阪砲兵工廠である。ちなみに東京小石川にも砲兵工廠があり、そちらは小銃を主に生産している。


 気球の代わり河野大尉が思いついた案、それは彼がドイツ留学中に見たサーカスの出し物『人間大砲』から着想したものだった。


挿絵(By みてみん)


 つまり単純にネコを大砲で敵陣に向けて放つのである。ネコは敵陣上空で砲弾から分離させ、気球の脱出手段として用いられている落下傘で降下させるつもりだった(どうやって分離させるかまではノープラン)。


 大砲ならば大阪砲兵工廠が管轄である。たまたまそこの工廠長である川合致秀砲兵大佐は北川の知己でもあったので、彼はまず川合を訪ねてみる事にしたのであった。


 だが現実は厳しかった。




「無理、だな」


 北川の話を聞いた川合は河野の案を言下に否定した。そして「なにを馬鹿な事を言ってるんだ」という冷たい目を二人に向ける。


「お、おい川合、いきなり否定する事はないだろう。ちゃんと理由を説明しろ」


「そりゃあ単純だ。ネコが死ぬからだ」


 川合は理由を簡潔に答える。


「それじゃ分からん。もう少し素人にも分かる様に説明してくれんか」


 北川が食い下がると、川合ため息をついた。


「ネコを撃ち出すのだから、それなりの大きさの砲、おそらく二十八糎砲あたりを想定してるんだろう?」


 川合の問いに北川と河野は肯首する。


 二十八糎砲は陸軍が各地の沿岸砲台に配備している大型砲である。やや旧式で砲身も短いが当時日本陸軍が持つ砲の中では最大の口径(280ミリ)を持つ大砲であった。200キロを超える砲弾を7800メートルも先に送り込む性能をもつ。


 川合は再びため息をつく。


「あのなあ……発射時に砲弾に加わる加速度ってのは、とんでもなく大きいんだぞ。初速の遅い二十八糎砲でも相当なものだ。だから発砲と同時に中のネコには凄い力がかかることになる。間違いなく中で潰れるな」


 そう言って川合は立ち上がると背後にあった黒板に簡単な式を書いた。


 F = ma


 基本的なニュートンの運動方程式である。力は質量と加速度の積で求められる。この真理は誰も否定できない。


「そ、それなら装薬を調整してネコが潰れないくらいの弱い力で撃ち出せばよいだろう。ネコは砲弾に比べて遥かに軽いのだぞ」


 諦めきれない北川は更に食い下がった。川合は呆れ顔で三度目のため息をついた。


「おいおい高等中学で教わった事を忘れたのか?どんなにネコが軽くても重さは関係ない。射距離は砲口初速のみで決まるんだ。だから加速度も変わらん。つまりネコに加わる力も変わらん事になる。潰れるな」


 今一つ理解していない北川の様子に、川合は仕方ないなという顔で再び黒板に向かいチョークを手に取った。そして黒板に放物線を描く。


「砲から発射された砲弾は、このような放物線を描く。実際は空気抵抗があって少し違うが今は話を簡単にするため割愛するぞ」


 続けて川合は砲の所に放物線に沿った矢印を書き、その根元に水平と垂直の矢印を書き足した。


「砲の仰角をθとすると、砲弾の速度はこのように垂直の成分と水平の成分に分解される」


 そう言って川合はサラサラと下に式を書き加えた。


「このように射距離Lは空気抵抗を無視すれば初速vで決定される。ここまではいいな?」


挿絵(By みてみん)


 北川と河野が頷いたのを確認して、川合は今度は先ほど書いたニュートンの運動方程式の下に式を書き加えた。


 v=aΔt


「初速vは加速度aによって与えられる。砲弾……あーここではネコか。ネコが発射時に極めて短い時間Δtの間に火薬の力で押される事で速度はゼロから初速に達する」


 手に付いたチョークの粉を払いながら川合は二人に向き直った。


「初速は加速度によって決まる。貴様の言う通りネコの質量は小さいから確かに装薬は少なくて済むだろう。だが射程に応じた初速を生む加速度にネコの質量は関係ない。どうだ理解したか」




「むう……」


 数式で説明されれば納得するしかない。北川は腕を組んで黙り込んだ。そこで河野が発言を求めた。


「大佐殿、そのままでは無理な事は理解しました。ならば砲弾に細工して衝撃を吸収してやれば良いのではないでしょうか?」


 例えば砲弾を二重構造にして、ネコを入れた容器が発射と同時にゆっくり後退するとか、そう言って河野は黒板に簡単な絵を描いた。


挿絵(By みてみん)


「おそらく速射砲の駐退機のような、粘性の高い液体を満たした筒にネコの入った容器を入れる案だと思うが……」


 その絵を一瞥した川合が彼なりの理解を口にする。それに河野は我が意を得たりと大きく頷いた。


「まったく話にならんな」


 だが川合は彼の案を一刀両断に否定した。


「なぜだ!これなら発射の衝撃を抑えられるだろう!」


 部下の案を良い案だと思っていた北川は、それを否定されて叫んだ。


 川合は四度目の大きなため息をつくと再び黒板に向かった。


「いいか、筒状の弾殻内でネコ容器が後退するという事は、弾殻に力が加わっている状態という事だ」


 川合は河野の描いた絵に砲身を書き加える。


「砲弾に加わる力は装薬の燃焼ガスによって与えられる。つまり力は砲身内でしか発生しない。分かるな?」


 川合の言葉に北川と河野が頷く。


「つまり、大尉の案の砲弾の減衰機構が最大限に作動した場合、砲身内で外筒の長さいっぱいまでネコ容器が後退する事になる。これは相対的に砲身長が外筒の長さ分だけ延びる事に相当する」


「その分だけ加速度が減る事になるだろう。ならば効果はあるはずだ」


 北川がその通りだと口を挟む。




「確かに効果はあるだろうな。では少し計算してみようか。仮に射程を4000メートル……空気抵抗による減衰を考慮して4500メートルくらいと見ればよいだろう。おい、仰角45度として4500メートルの射程で初速はどのくらいになる?」


 川合が脇に控えていた工廠の部下に計算を指示した。


「あー、およそ秒速210メートルです。大佐殿」


 命じられた部下は計算尺を駆使してさっと答えた。北川の横に居る河野も自ら計算して頷く。川合はその数字を黒板に書き留めた。そして更に下に数式を書き加えていく。


「二十八糎砲の砲身長は2.86メートルだから、砲身内での平均加速度は……おい、いくつだ?うん、787Gか。さて、仮に先ほどの減衰機構を持った砲弾の長さを仮に1メートルとすると……」


 川合はは砲身長を2.86メートルから3.86メートルに変えた場合の計算を部下にさせた。


「砲身を1メートル延長すると、平均加速度は583Gになる。まあ4分の3くらいには減衰できる理屈だな」


 そら見ろとばかりに北川が胸を張った。


「おいおい、貴様はこの数字の意味を分かってるのか?583Gという事はネコに自分の体重の583倍の力が加わるという事だぞ。仮にネコの体重を4キロとすると、そのネコには2.3トンほどの力が加わる事になるな」


 後年、宇宙開発に絡んで動物の耐G実験が各国で行われた結果、犬や猫のような小動物の耐えられる加速度は10Gから20G程度ということが判明している。つまり500Gを超える加速度になどネコは耐えられるはずもなかった。


 具体的な数字を告げられ、北川は唖然とした。だが川合は更に追い打ちをかける。


「さらに言っておくが、この数値はあくまで平均加速度だ。実際の砲撃ではこの数倍の加速度がが瞬間的に発生する。おそらくネコには10トンを超える力が加わるはずだ。俺は寡聞にして、そんな力に耐えられる様なネコなぞ知らんな。そのネコは間違いなく一瞬で磨り潰されるだろうよ」


 砲弾内でネコが潰れてジュースになるさまを想像してしまい、思わず北川と河野は口元を押さえた。

高校物理。


ちなみにサーカスの人間大砲は19世紀末頃からある演目で、火薬でなくスプリングや圧縮空気の力で打ち出しているそうです。


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― 新着の感想 ―
[一言] お猫様を崇めよ(更新お疲れ様ですの意) 後世のフリー百科事典で緑茶キメ過ぎたんだな……って書かれるに違いない。
[一言] やはりネコ様に南斗聖拳を修めてもらうしか
[良い点] ネコ大砲の相談を真顔でする川合大佐と河野大尉w 何かシュールw [気になる点] 犬と違って条件反射(これもまだ発見されてない)は使えんと思いますし…… ……まさか、二十八糎砲に煮干しやかつ…
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