第二話 ネコと気球
■1902年(明治三五年)12月
東京 中野 電信教導大隊
「また訳の分からん事を……」
今月より電信教導大隊を預かることになった北川武工兵大佐は頭を抱えていた。実際、本当に頭痛を感じている。
彼の目の前の机には本日届けられた参謀本部からの一通の命令書が置かれていた。それが彼の頭痛のタネだった。
『ネコをロシア軍陣地に安全確実に送り込む手段を可及的速やかに研究、用意すべし』
そこには簡潔な命令が書かれていた。『ネコ』とはなんだ?何かの符丁か?そう思い北川は慌てて参謀本部に問い合わせた。だが答えは素っ気ないものだった。文字通りの内容で間違いないと言う。
つまり『ネコ』とは四つ足で毛むくじゃらの、にゃーにゃーと鳴くあの動物のことらしい。
北川が隊長を務める電信教導大隊は、その名のとおり本来は通信技術の研究・教育を行う部隊のはずだった。それは陸軍軍制要領にもしっかりと記載されている。
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◆陸軍軍制要領 第十一章
陸軍電信教導大隊
陸軍電信教導大隊は学生の電信通信術の教育訓練をなし、且つ軍事通信に関し必要なる事項を調査研究する所にして大隊長は工兵監に隷す。
学生は騎兵要塞砲兵及び工兵士官に、要塞砲兵及び工兵下士卒を以て之に充て其修学期の士官は一ヵ年下士兵卒は一年半とす。但し、場合に依り之を伸縮すること得。
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だが実態は全く違っていた。今この部隊が取り組んでいるのは通信技術にほど遠い『気球部隊』の設立であった。
陸軍は来るロシアとの戦いで情報収集・弾着観測に気球を活用しようとしていた。その部隊の設立をなぜか電信教導大隊が命じられていたのである。
気球で得られた情報を伝えるのに有線電話を利用する、などと百歩譲れば無理やり理由付けできるかもしれない。
しかしその気球部隊の設立までどうして自分の部隊がやらねばならないのか、その理由を北川は未だに内心では納得できていない。
そこに来てこの命令である。北川が頭を抱えるのも無理はなかった。
「そもそも敵の陣地にネコを送るという発想そのものが理解できん。参謀本部の連中は頭が沸いてるんじゃないのか?」
だが兎にも角にも命令は絶対である。北川がどうしようかと悩んでいると、ちょうど河野長敏大尉が報告に帰ってきた。彼は気球の製造と部隊設立に向けて走り回っている最中であった。
「……という次第でなんとか山田式気球を生産する目途はつきました。芝浦の方で来月から試作を……あの、大佐殿?大丈夫ですか?どうかなされましたか?お身体の具合でも……」
上の空で報告を聞く北川の様子がおかしい事にようやく気づいた河野が心配そうに尋ねる。
「あぁ、すまない大尉、ご苦労だった。体調の方は問題ない……全く問題ない。問題なのはコレの方だ」
そう言って北川は河野に命令書を放り投げた。慌てて受け取った河野はそれを一読して絶句する。
「……あー大佐殿、念のため確認しますが、このネコというのは、あのネコのことでしょうか?」
「その通りだ。大尉の思っているネコで間違いない。四つ足で毛むくじゃらの、にゃあにゃあ鳴くあのネコだ」
北川は投げやり気味に答えると大きなため息をつく。
「……となると、もうどこから突っ込んでいいか分からない命令ですが……とにかくウチがまた厄介事を押し付けられた事だけは理解しました。参謀本部はウチを万屋か何かと勘違いしてるんじゃないでしょうかね」
命令書を二度読み返して、更にひっくり返して間違いない事を確認した河野は、呆れ顔でそれを北川に返した。
「大尉、ものは相談だが、ウチの新設する気球部隊でなんとかネコをロシア軍の陣地に届けられんかね?」
北川は与えられた命令をまずは自分の部隊で出来ないか検討することにした。
「まー無理ですね。大佐殿」
河野はにべも無く否定した。
「そんな門前払いみたいに否定する事もないだろう?理由を教えてくれ」
「そりゃ簡単です。気球は自由に動けないからですよ。大佐殿もお分かりと思いますが……」
そう言って河野は気球の限界を改めて説明した。
当時の気球は、水素気球か熱気球である。黎明期ではあるが、その技術は今と大して変わらない。バラストを捨てて上昇し移動は風任せ。ペイロードも小さい。
とてもでないが大砲の射程外、数キロは離れているであろう敵陣上空まで自由に進出して、多数のネコを届ける事など出来るはずもなかった。
「あーそうか。そりゃそうだな。風任せの気球じゃ無理か……ならば海外の空中船みたいに発動機をつけて動したらどうだ?」
北川は現代で言うところの飛行船でネコを運べないかと考えた。
海外では既に1852年にフランスで動力飛行可能な飛行船が発明され、1900年にはドイツでツェッペリン伯が初の硬式飛行船を完成させている。
そう言った情報は科学雑誌等で日本にも紹介されており、気球の配備を進める北川にも多少の知識はあった。
「いや、そっちも無理ですね。我が国はやっと気球を手にしたばかりなんです。山田氏が我が国で活動していた事すら奇跡的な事なんですから。空中船を研究している人間なんて我が国には誰も居ませんよ」
河野が気球の開発を依頼している山田猪三郎は、元はゴムの救命具の開発生産していた。その過程で気球に興味を持ち今も独自に気球の研究を行っている。
現在河野は山田の開発した円筒形の係留気球を敵情偵察に使うべく、気球の生産と部隊編成に奔走している最中であった。
あわよくば今の部隊と装備で何とかしようと考えていた北川の目論見は儚く消えてしまった。
「気球が駄目なら仕方ない。他の手を考えねばならんな。大尉、何かよい考えはないか?」
目論見は消えても命令書は一緒に消えてはくれない。
「少々馬鹿らしいかもしれませんが……一つ私案はあります……」
北側に問われた河野は、うーんと少し悩むと躊躇いがちに口を開いた。
「ほうほう!今はどんな案でも助かる!」
藁にも縋る思いの北川は身を乗り出すようにして河野にたずねた。
「実はドイツへ留学していた時に街で見かけたサーカスで……」
北川の勢いに少々引きつつ、河野は自分でも馬鹿馬鹿しいと思う案を北川に伝えた。
「なるほど!それなら俺に伝手がある。案を出した責任だ。大尉も一緒に大阪へ行くぞ!」
「えー本当にやるんですかぁ?」
河野の出した案に一縷の望みをかけて、北川らは大阪に向かう汽車に飛び乗った。
あと数年遅ければ飛行船が使えるのですが、この時点の日本はようやく気球を手にしたところです。おかげでネコ投入作戦はおかしい事になっていきます。
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