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最終話 終戦 ~ エピローグ

■日露戦争 その後


 水師営の会見からしばらく後、日露の間で大規模な戦いが行われた。遼陽会戦である。


 この戦いには乃木の第三軍も第一、第二、第四軍とともに参加した。旅順から連戦となるが、ほとんど消耗していないため問題は無いはずだった。対するロシア軍は司令官アレクセイ・クロパトキンが遼陽を中心に強固な要塞線を築き日本軍を迎え撃った。


 この戦いにネコは投入されなかった。弾薬に相当するネコが尽きていたからである。


 第三軍は手持ちのネコを全て旅順の捕虜に渡してしまっていた。今さら取り上げる事も出来ない(何が起こるか分からない)ため日本にネコの追加を催促したが、既に日本国内でもネコの徴発は限界に達していた。


 このため日本軍はクロパトキンの敷いた堅陣に通常の攻撃を行う他なかった。ネコが居ないため日本側は苦戦したものの、結果的にはクロパトキンの撤退によりなんとか勝利をおさめる。


 日本側の勝因は大きく二つあった。


 一つは戦費(戦時国債)的にも負ける事が許されない日本側が損害を度外視して強攻を行ったこと。もう一つはロシア側に既に大量のネコが居たことだった。




旅順要塞(ポルト・アルトゥル)の連中だけネコを手に入れてずるい。うらやましい。うちにもネコをくれ!」


 旅順にいた部隊が降服したにも関わらずネコを手に入れキャッキャウフフしている事を知った兵士らが口々に不満を訴えたのだ。


 このままでは士気に関わると考えたクロパトキンは本国にネコの支給を求め、ニコライ二世は仕方なく多数のネコをクロパトキンの元に送り届けた。つまり日本側がネコを投入しなかったにも関わらずロシア側は自らの手で戦闘力を削いでしまった事になる。


 ただし全てのロシア軍部隊がネコを得た訳ではない。実際にネコを手に出来たのは遼陽市内に陣取る司令部とその直衛の部隊だけだった。


 このため前線では激しい攻防が行われ日露両軍ともに夥しい損害を出した。例えば乃木は首山堡の戦いで次男保典が負傷している。




 戦況は全般的に防衛側で兵力も多いロシア軍が優勢であったが、日本軍の猛攻で戦火が遼陽市内に及ぶと状況が一変する。


 クロパトキンをはじめネコを手に入れていたロシア兵らは旅順と同じようにネコを優先してしまったのである。このため優勢であったにも関わらずクロパトキンは「戦略的撤退」を行い遼陽会戦は日本側の勝利となった。




 しかもこのロシア側のネコ投入はもう一つ大きな問題も生んでいた。ネコを強制的に徴用したことによる国民の不満の高まりである。政府内には国内情勢を鑑みてネコ徴用は非常に危険だと諫める声もあったがニコライ二世はきかなかった。


 そしてやはり危惧された通りネコを奪われた国民の不満は大きく高まり、血の日曜日事件をはじめ急速に政情が不安定化していく。それは後のロシア革命へと繋がることとなる。


 その後行われた黒溝台、奉天の会戦の頃には日本から多少のネコも補給されたが、ネコが寒さに弱いためネコ投入作戦は実施されなかった。このため再び日露両軍ともに夥しい損害を積み重ねることとなる。


 結局クロパトキンが撤退し日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅したことからロシアは渋々ながら米国の講和勧告を受け入れた。そしてポーツマスで行われた講和会議で正式に日露戦争は終結した。




■ポーツマス条約


 薄氷を踏む思いで勝利をつかんだ日本であったが、その講和内容は不本意なものだった。


 日本は賠償金と遼東半島や樺太の領土割譲、鉄道利権、そしてネコの返還を望んでいた。だが大きな犠牲を払って得られたものはわずかな賠償金と樺太の北半分だけであった。


 そしてネコは還ってこなかった。


 ロシア側はネコの返還だけは強硬に拒んだ。また日本側で交渉にあたった人間がすべてイヌ派であったことも問題であった。彼らはネコの事なぞ大した事ではないと考えてしまったのである。


 このため日本側はわずかな賠償金と引き換えにネコの返還を安易に妥協してしまった。


 これが大きな失策であったことを彼らはすぐに思い知る事になる。彼らはネコ派のネコスキー度を甘くみていた。彼らの真の恐ろしさを理解していなかったのだ。


 ポーツマス条約の内容とロシア人捕虜の厚遇(ネコとカリカリ支給)が国民に知れ渡ると日本各地でネコ派が抗議行動を起こした。


「ネコ心あるもの、血あるもの、涙あるもの、骨あるもの、鉄心あるもの、義を知るもの、恥を知るもの、来たれ!来たれ!集まりて一斉に卑屈醜辱なる講和条約に対する不満の声を九重の天に上げよ!聖明かならずネコ派の至情を諒としたまふであらう」


 日本全国から東京に集結したネコ派による抗議活動は拡大の一途を辿った。それに賠償金や領土割譲に不満をもつ者まで大量に加わった事で、ついに日比谷で大規模な暴動が発生する。


 いわゆる日比谷焼打事件である。


 暴動は拡大し首都東京は完全に無政府状態となった。政府は戒厳令を布き軍を出動させたが鎮圧に至らず、最終的に国家事業としてネコの保護繁殖に務めよとの勅令が下ることでようやく暴動は沈静化した。


 この事件の影響から少なくとも日本においてはネコの軍事利用は禁忌案件となり、その後二度と検討される事はなかった。




■第一次世界大戦


 第一次世界大戦では、飛行機・戦車・毒ガス・潜水艦といった新兵器に加えてネコも再び兵器として使用された。


 東部戦線でロシアと対峙したドイツは、タンネンベルクの戦いにおいて包囲したロシア軍に飛行船からネコを大量投下し、戦意を失ったロシア軍を包囲殲滅することに成功している。


 この戦いで大敗を喫したロシア軍であったが、自軍の弱点を知る南西方面軍司令官アレクセイ・ブルシーロフ大将には秘策があった。


 彼は中央アジア、シベリア、極東方面から抽出したコサックを中心とする非ネコ派兵士のみで編成した部隊を用いて攻勢に打って出たのである。


 これによりネコ兵器を封じられた中央同盟のオーストリア軍、ハンガリー軍はガリツィアにおいてロシア軍に敗北した。それも史上稀に見るほどの大敗であった(ブルシーロフ攻勢)。


 この戦いでロシアは大勝利を得たものの、一向に改善しない国内の物資・ネコ不足により国民の不満は高まり政情は悪化の一途を辿った。そしてついに革命によりロマノフ王朝は最後を迎える事となる。


 戦争終盤、ドイツはA7V戦車の外部四方にネコを固定するネコ戦車(A7V Katze)を開発した。だが東部戦線に戦車が送られる事は無く実戦では幸か不幸か使用されなかった。


 戦後に本車を入手したポーランドが対ソ戦で使用したという証言があるが、その真偽は定かではない。ネコの扱いに怒りMAXとなったロシア兵に担がれて川に投げ捨てられたとの証言もある。2013年にポーランド東部の川底で発見されたA7Vがこのネコ戦車ではないかとの説もあり早急な調査が望まれている。




■ジュネーブ条約とその後


 第一次世界大戦において、ネコが戦争に与える影響が非常に大きい事実が改めて各国に認識された。


 このためジュネーブ条約では毒ガス・細菌とともにネコの軍事利用も禁止されることとなる。またネコ自体を保護するため戦争犠牲猫保護条約もあわせて追加されている。


 このネコ関連条約には当初は反対する国も多かった。当時世界ではソ連の共産主義の膨張が危機感をもって見られていたため、ロシア人に特効をもつネコの兵器利用を禁止するのは得策ではないという理由からである。


 だが各国のネコ派は少数ではあるが故に日露戦争・第一次世界大戦を経てネコ不足により先鋭化、活発化しており、彼らは国家間で横の連携をとることでこれらの条約を通すことに成功した。




■第二次世界大戦とその後


 ジュネーブ条約によりネコの軍事利用は禁止されたはずだった。しかし第二次世界大戦においてもネコの軍事利用は止まなかった。


 中でも最も積極的にネコの活用を検討したのはソ連を敵としたドイツであった。しかしそれはドイツ人の思うようには行かなかった。


 開戦時のバルバロッサ作戦は電撃戦であったためネコは戦闘に用いられなかった。せっかく集めたネコは主に占領地の慰撫に転用されている。その後の戦いでもネコの収集が進まず大規模には用いられていない。


 膠着したスターリングラードの戦いで再び大規模なネコ投入作戦が計画されたが、当時は既にネコより人に必要なものすら補給できていない状況であったため結局実施される事はなかった。


 東部戦線では一部の兵士が個人的にネコを利用した例が報告されている。


 古代ペルシアの様なネコ盾を用いたり、戦車の前面装甲にネコを固定したり、フリッツヘルメットにネコミ耳をつけた事例もあったらしい。だがいずれも却ってロシア兵が激高してしまい逆効果となっている。


 一説によればドイツ戦車がネコ科の名前だったりパンターF型のステレオ式測距儀がネコ耳だったりするのは、ロシア人の戦意を挫く事を意図していたと言われている。


 こういった所を見るとドイツ人はロシア人のネコスキーを根本の所で理解していなかったのかもしれない。




 ドイツ以外でもネコの兵器利用は検討されている。


 例えば米国では、戦略情報局(OSS)がネコを誘導装置として利用するネコ爆弾を研究していた。結果はまともに制御する事ができず失敗に終わっている。


 そして近年でもドローンを用いてピンポイントでロシア兵の頭上にネコを投下する作戦が実際に研究されているという。


 このように誠に悲しい事であるが、ネコの軍事利用は未だに世界から根絶されていない。




■ 二宮忠八 その後


 日露戦争後、通信・気球・飛行機・鉄道を統括する交通兵旅団が新設された。


 二宮が所長を務めていたの陸軍飛行器研究所も気球・飛行船開発も統合した陸軍軍用航空研究所となる(のちに陸軍航空本部へ発展)。


 その初代所長には、かつて二宮の提案を蹴ったことを深く反省した長岡外史中将が就任している。


 一方、二宮はこれを機に研究所を離れ自由に飛行機を開発するため、以前にガソリンエンジンを強引に買い上げた吉田信太郎と共に『マルニ飛行機株式会社』を設立した。


挿絵(By みてみん)


 マルニ飛行機と陸軍の関係は常に良好であった。後年には中島知久平も経営陣に加わり、主に陸軍向けの航空機やエンジンを開発生産する一大軍事企業へと成長していくこととなる。


 このマルニ飛行機が開発する航空機には常に鳥の名が冠される事が伝統であった。


 有名な機体としては太平洋戦争で活躍した一式戦『ハヤブサ』、二式単戦『オオタカ』、四式戦『イヌワシ』などがある。




 晩年に経営から身を退いた後も二宮は初級滑空機の開発を行うなど常に航空関係に関わり続け、自ら操縦桿を握ることも多かった。


 そして1936年(昭和十一年)、自ら設計した滑空機に乗り込み飛行試験を行っている時に墜落事故を起こし、二宮はその生涯を終えることとなる。享年69歳であった。


 墜落直後、まだ息のあった二宮は拳を天に突き上げると『わしの生涯にちいとも悔いなんぞ無いけん!』と笑顔で語り、そのまま息を引き取ったという。




■ 二宮忠八の評価


 二宮忠八が世界初の有人動力飛行を成功させた事実は世界中に認められていた。だが唯一米国スミソニアン協会だけは永らく認めようとしなかった。


 二宮や日本政府、更には大英博物館までもが度重なる抗議を行ったにも関わらず、スミソニアン協会は世界初の有人動力飛行を成し遂げたのはサミュエル・ラングレーであるとし、博物館にエアロドローム号を展示し続けたのである。


 抗議が認められないまま二宮忠八は世を去り、ついには太平洋戦争の戦災で本物のハト型飛行機も焼失してしまった。さらに終戦後にはマルニ飛行機自体もGHQの命令で解体されてしまう。


 だがマルニ飛行機の血を受けついだ富〇重工業は粘り強く抗議活動を続けた。そしてついにスミソニアン協会に間違いを認めさせる事に成功する。それは二宮忠八の死から30年も経った1966年のことだった。


 富〇重工業は悲願の達成と二宮忠八生誕100周年を記念してハト型飛行機を復元しスミソニアン協会に寄贈した。


 現在エアロドローム号に変わってスミソニアン博物館に展示されているのはこの機体である。


 その隣には小さなコウノトリ型飛行器と一緒に愛らしいネコの像も展示されている。

以上で本編は終了となります。史実では二宮忠八の次男がマルニ食品という会社を設立しました。現代も食塩関係で有名な企業です。


次回、おまけで恒例のWiki風解説をお送りします。


作者のモチベーションアップになりますので、よろしければ感想や評価をお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
[一言] 猫耳戦車……ガルパンで映えそうぢゃないか。 でもロシア兵からは、ついでにネコ派ドイツ兵からも『コレジャナイ』的な怒りを買いそうですな。
[一言] 原子力(Atomic)開発以前に動物(Animal)の含まれたABC兵器が禁止されてるわけか…
[一言] ロシア革命も日比谷焼き討ちも猫が原因になっている。 猫は歴史を作るようですね。
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