第十話 世界初の有人動力飛行
今更ではあるが、二宮忠八の本当の夢は有人動力飛行である。断じてネコを飛ばす事などではない。
彼の基本構想は10年前のカラス型飛行器でほとんど完成している。そして海外情報と三六式飛行器の開発を経て知識、経験、データも取れている。もうあとは作って飛ばすだけだった。
そこで二宮は三六式飛行器の設計が一段落すると、すぐに軍の許可を取って動力飛行できる機体の設計と製作に取り掛かった。そして1903年(明治三六年)10月、ついにその機体が完成した。
当初、二宮は10年前に模型を作ったところで断念した『タマムシ型飛行器』をそのまま製作するつもりだった。
だが専門書の知識とこれまでの経験から抜本的に設計を見直すことを決断する。そして完成したのが『ハト型飛行機』であった。
その基本構造はタマムシ型飛行器と同じ推進式の複葉機である。主翼が2枚ありプロペラが後ろ向きについている。だが同じなのはそれだけだった。
まず主翼はコウノトリ型と同じく完全に鳥の形態模写から脱した矩形翼となった。尾翼も同様で機尾にまとめられている。
二宮は本当は主翼を一枚にしたかったが、残念ながらエンジンの出力から単葉では自力滑走による離陸が困難と見られたため仕方なく複葉としている。
主翼後部に大きなプロペラを持つため尾翼を支える胴体はプロペラを挟む様に二股となり後部へと伸びている。
機体全体は軽量化のため極力簡素化されており例えば車輪も2輪に減らされている。
それでも主翼の上にはタマムシ型と同じく誇らしげに翻る日の丸の旗が残されていた。
操縦系についてはエルロン舵面が下翼の操縦席脇に設けられている点が特徴的であった。これは足元のペダルで操作するようになっていた。この辺りはタマムシ型飛行器の名残りと思われる。
このように現代の航空機と多少異なる点はあるものの、海外の発明家の多くが鳥の形態から脱していなかったり翼を変形させる操縦系を用いている時期に、これほど現代に近い機体を作り上げた事は極めて画期的な事であった。
だがいくら機体の設計が優秀でもプロペラを回す小型のエンジンが無ければ絵に描いた餅である。本来その様なエンジンは当時の日本では入手困難なはずだった。
だがなんと幸運な事に、ちょうどその時期日本に偶々それが存在していた。オートモビル商会を設立した吉田信太郎が日本で最初のガソリン自動車を作ろうと2気筒12馬力のガソリンエンジンを輸入していたのである。
吉田は開発資金を得るため、まずは陸軍に自動車を売り込もうとした。軍関係から市場を開拓するという彼の戦略は時代を考えれば決して悪いものではない。だが売り込み先として電信教導大隊を指定されてしまった事が吉田にとっての不幸であった。
「そういう新しい案件は電信教導大隊が担当だろう」
陸軍の内部では、なぜかそれが既に共通認識となっていた。
「なんでまたウチが……」
また新しい事を押し付けられ再び頭を抱えた北川大佐だったが、その場に偶々居合わせた事が二宮にとっての幸運となる。
「それ!そのエンジン!うちにつかぁさい!」
「ええっ!!」
こうして吉田が自動車を作るために苦労して輸入したエンジンとその他諸々の部品は、まとめて電信教導大隊に買い上げられてしまった。
このエンジンは操縦席後部に設置されプロペラに直結された。燃料タンクは重心の移動を嫌って機体の重心位置、操縦席の下に置かれている。
ちなみに飛行機という言葉も二宮が考案している。彼は人が乗り操縦する大型機械であるから『器』より『機』が相応しいと考えたのだった。
そしてこの後も二宮が開発する機体は鳥の名を冠することが伝統となっていく。
■1903年(明治三六年)10月29日
青山練兵場
快晴に恵まれたこの日、ハト型飛行機の初飛行試験のため北川大佐や二宮をはじめ電信教導大隊の面々は再び青山練兵場に集まっていた。
もし成功すれば人類初の有人動力飛行となる。この偉業を記録するため河野大尉も撮影部隊を率いて待機している。
「本当に君が乗るのか?万が一の事があれば我が国の大きな損失となるのだが……」
操縦席に座る二宮に北川大佐が心配そうに言った。
二宮式飛行機は既に滑走試験や滑空試験は何度か済ませていたが、今日は初の有人動力飛行試験となる。その操縦者として電信教導大隊でも二宮自らが名乗り出ていたのだ。
電信教導大隊では日野熊蔵中尉や徳川好敏少尉らを操縦者として訓練しており北川は彼らを使うことを考えていたが、初飛行は自分が操縦することを二宮は頑なに譲らなかった。
「大丈夫じゃ。今日はまっすぐ飛び上がって降りるだけじゃけん、事故なんか起きんって。大船ならん大鷹に乗った気持ちでまっとってつかぁさい」
北川の心配を他所に二宮は気楽そうに大声で答えた。彼の背後ではすでにガソリンエンジンが轟音を立てプロペラを回している。
「風もええ加減なんで、そろそろ行くか!」
横の吹き流しを確認して二宮は大声で叫んだ。河野大尉ら撮影班に大きく手を回して合図する。河野も手を回して答える。
二宮はスロットルレバーを押し込み少しずつエンジンの回転を上げていく。風上に向けられた機体は輪止めのため機体はまだ動かない。
「輪止め除けてーー!」
轟々と響くエンジンとプロペラの音に負けじと二宮が大声で叫んだ。横で控えていた研究所員が紐を引いて車輪下の輪止めを外す。機体は短い下草をかき分けながら前に進み始めた。
皆が息を飲んで見守る中、機体の速度はグングン上がっていく。そして二宮が操縦桿を引くと機体はフワリと浮き上がった。
「「「やったーーー!!!」」」
周囲で歓声が上がる。世界で初めて有人動力飛行が成功した瞬間である。
隊内の試験であるため、ここの場所には電信教導大隊と飛行機器研究所の人間あわせて十数名しか居なかったが、彼らが世界初の快挙の目撃者となった。
初めての操縦のため加減が分からないのだろう。機体は上下にギクシャクとしながら高度10メートルほどを500メートルまっすぐ飛行し、ドスンと草原に着陸した。
エンジンを止めて機体を降りた二宮に皆が駆け寄る。
「だんだん(ありがとう)……ありがとうございます……皆さんのおかげで夢を叶えることが、飛ぶことが……出来ました……うっうっ」
皆に囲まれ口々に祝いを述べられる中で、二宮は男泣きしていた。
■1903年(明治三六年)12月14日
大安吉日 青山練兵場
そして1903年12月14日大安吉日、ハト型飛行機の公開飛行が国内外から多数の来賓、報道関係者も招き、陛下の御臨席まで仰いで盛大に行われた。
陛下の御前にも関わらず、二宮は落ち着いた様子で離陸し、練兵場をぐるりと2周して元の場所に着陸した。
初飛行後も何度も飛行試験を行い、操縦舵面や操縦系のゲイン調整、機体の安定性を増す等の細かな改良がなされている。
それ加え二宮も操縦経験を積んでいる。このため初飛行時にあったギクシャク感はすっかり消えていた。もう誰が見ても非常に安定した危なげの無い飛行だった。
練兵場は初めて空飛ぶ機械を見た感動で歓声に包まれた。飛行をご覧になられた陛下もいたく感激された事から、二宮には驚くことに勲一等旭日大綬章が授与される事となった。またこの偉業は日露戦争の戦費調達に悩む日本の戦時国債売却に少なからず良い影響を与えたとも言われている。
■海外の反応
外国の来賓と報道関係者には初飛行が10月29日に行われた事が伝えられ、その時の写真と資料が配られた。外電は東洋の新興国家が成し遂げた偉業を大きく報じた。
だが情報の伝達に時間がかかる時代であったため、このニュースが新聞となり市井に行き渡るまで、つまり知るべき人間に伝わるまでにしばらく時間を要すことになる。
この当時、世界中で多くの発明家や軍人が世界初の有人動力飛行を目指し競っていた。
例えば二宮の公式飛行より前の12月8日に米国ではサミュエル・ラングレーがバージニア州を流れるポトマック川で飛行実験を行い失敗している(ラングレー本人とスミソニアン協会は成功と主張)。
また3日後の12月17日にはライト兄弟がノースカロライナ州キティホークで30メートルあまりの飛行に成功している。
当初、この実験成功に大喜びしていたライト兄弟であったが、初飛行から1ヵ月後に配達された新聞で二宮のニュースを知り地獄に突き落とされた。飛行日時だけでなく機体の構造や飛行性能でも二宮に劣っている事を痛感したからである。
この件でライト兄弟は潔く飛行機研究から身を引くことを決断し、この後は航空機用エンジンの開発に専念していくこととなる。
残念ながらライト兄弟の興した会社はその後人手に渡ってしまったが、40年後の太平洋戦争ではその後継会社のエンジンを積んだ航空機が日本を追い詰める事になったのは歴史の皮肉と言えよう。
エアロドローム号とライトフライヤー号の件はスミソニアン博物館最大の汚点ですね。
次回、いよいよ旅順要塞攻略が始まります!
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