星の降る夜よりも……、
「なあ燈莉。今度二人で星でも見に行かない?」
色付いた葉が芝に降る中央ローンで、彼は突然そう切り出してきた。
「星?」
「そう、星だよ。この前定山たちが支笏湖まで行ってきたらしくてさ。これでもかってくらいに絶賛してたんだ」
なかなか感化されやすい性格で、すぐにこういうことを言い出す。こうなると全然止まらなくなって、時間と費用が許せばどこへでも行ってしまうのだから厄介だ。
「……それで行ってみたくなった?」
「そうそう。星が降るってああいうことを言うんだーなんて言ってさ。それに、まだ支笏には行ってないじゃん?」
「『行ってないじゃん?』って……。星ってことは夜でしょ?誰が運転すると思ってんの?」
彼は運転免許を持っていない。おかげで彼が遠出する時は、ほとんど必ず免許持ちがついて行くことになる。もちろん高い事故のリスクを背負ってまで運転するのは遠慮したいもので……、去年の冬に知床に連れて行ってほしいと言われた時は、運転巧者として定評のある先輩方に頼んで全力で運転の回避に努めた。冬の山道なんて恐ろしくてしょうがない……。
「いつも感謝してます」
「感謝するのは当たり前でしょ」
「何か奢ります」
「すぐに物で釣ろうとしないで……」
「お願いします!この通りです!」
「そんな大声出さないで!まあ、こんな問答しなくたって運転はしてあげるけど。まだ雪も降ってないし、夜の支笏湖っていうのも良さげだし」
定番の『支笏湖デート』なるものは私もしてみたかった。理想は彼が運転してくれることだけど、免許がないのだから仕方がない。
「ありがとう燈莉!」
「はいはい。まあ、私からもありがとうね。悠成がこうやって誘ってくれるおかげで、私もあちこち行けて楽しいよ」
彼のようなアクティブさは私にはない。だから、こうして特別な思い出が増えていくのは本当にありがたいと思う。
車通りの少なくなった真駒内通りを、レンタカーで南に向かう。途中コンビニでお茶を買ってから少し会話が途切れて、横に住宅地が目立つようになった頃、彼が口を開いた。
「そういえば……、夜に二人で街の外に出るのって、多分初めてだよな?」
「確かに……。そもそも夜はあんまり遠くに行こうと思わないもんね」
「大体は薄野とか狸小路でどうにかなるからなぁ……」
「それにしても不思議かも。悠成は支笏湖くらいとっくに行ってそうなのに」
「うーん……。何て言うか、いつでも行けると思うとなかなか足が向かないというか……」
「あ~。確かに、地元の観光地とかって行こうと思わないよね」
小学校のときに行った記憶はあるけど、それから行った覚えはないしなぁ……。まあ、そんなものだよね。
あれこれ話している内に、車は山道に入っていった。
矢羽根が並ぶ暗い道を進む。
「対向車もいないし、この道結構走りやすいなぁ」
「飛ばす人は飛ばすらしいよ?こんな所じゃ警察もいないし」
「えぇ……。無理無理、事故る自信しかないって」
「そっか。……燈莉はいっつも安全運転だよな」
「そりゃそうでしょ。事故りたくないし、変な運転して違反とられたくないし」
「そんなもんかぁ」
「そんなもんだよ」
そもそも山道で飛ばせるほど運転が上手いとは思ってないし。
少しの間しーんとして、困った顔をしながら彼は呟く。
「うーん……。それにしたって本当に何にもないなー、この道」
「それはまあ山道だし……、しかも夜だしね。別に無理に喋ろうとしなくてもいいよ?眠くならないように仮眠はとってきてるから」
「いや、運転してもらってるんだから。退屈しすぎないようにはしないとって友達も言ってたし」
「何その気配り。そこまで考えられてるのも何かアレだな……」
「寮生の一般認識らしいよ?」
「ふーん、寮生の?一緒に暮らしてるとそういう所まで気にするようになるのかな?」
「そうかもな。不満が溜まらないようにって色々と考えられてるって言ってたよ?まともではないとも言ってたけど」
「そっか。まともではあってほしかったかな……」
なんだか寮っていい話を聞かないなぁ。話を聞けば聞くほど『魔窟』って感じがする……。なんて思いながら運転していると、カーブの先に何か大きな物が……!?
ブレーキペダルを強く踏み込み、ハンドルを右に切る。けたたましい音を立てるブレーキ。彼の驚く声。体が前に投げ出されそうになるのを、シートベルトが止めてくれた。
「あっぶな……」
どうにか衝突することなく停止した車の外では────
「鹿じゃん……。危うく轢くとこだったよ……」
「鹿だな……。この辺りにも出るのか……」
「はぁ~~~~……」
一頭の牡鹿が闊歩していた。運転席で突っ伏す。
鹿は、車が間近まで迫ったというのに、逃げる様子もなくゆったりと歩いて行った。……なんだお前、轢かれたいの?まぁ、絶対に轢きたくないけど。
「ぶつからなくて良かったな、燈莉」
「はぁ……、他人事みたいに言っちゃってさ~。洒落にならないんだからね?」
「そっか……、ごめん」
「普通に事故は事故だし、あれにぶつかったら廃車になりかねないからね?」
「流石は野生動物……」
「そのくせあいつら歩いて去ってくことも多いらしいよ?車より鹿の方が強いんだよ?」
「まじか……。流石は野生動物…………」
「いくつかカラクリはあるらしいけどね」
車線を戻して、気持ちを整えるため路肩に一時停車する。
「日本車は事故の衝撃を和らげるために車体が潰れやすく作ってあるとか、ブレーキがかかって多少減速してぶつかるとか……」
「へぇ~、なるほどな。燈莉、よく知ってるな」
「知床の帰りでも鹿が出たでしょ?そのときに中山先輩が言ってたんだよ」
「あー、マジかあのときか。結構寝ぼけてたからなぁ……」
「レンタカーを廃車になんて、絶対に嫌なんだけどー!」
「鹿には要注意だな」
「はぁ。ちょっと落ち着いた」
本当に心臓に悪い。そう心中で独り言ちながら車を発進させる。今度はより注意しつつ、先ほどより速度を落として走る。
「あ、また鹿じゃん…………。うわぁ、今度は子連れ……」
彼が助手席で呟いている通り、次々に鹿が現れる。ていうか、こんな道で飛ばすのは流石にないでしょ!どんな神経してたらそんなことができるんだろう……。
なんて思いながら慎重に運転して、無事支笏湖の手前に差し掛かる頃には……、
「あの道を帰りも通んなきゃいけないとか、普通に嫌なんだけど」
「まさかこんなに鹿が出るとは思ってなかった。ごめんな」
「いや、悠成は出ることも知らなかったみたいだし別にいいよ。ったくリア充のやつら、なんでこんな所に来たがるんだよ」
「燈莉……。俺らもリア充の括りだよ?」
「そうだけどさぁ!!」
「ちょっと燈莉!?安全運転でお願い!」
なんて具合に不機嫌な私が、少し荒っぽくカーブを曲がって彼に窘められていた。
ナビに従って湖畔の観光案内所に着く。夜中は営業時間外で、明かりは随分と限られている。
「お疲れ様」
「んー……」
鹿に奪われた元気と機嫌は帰ってきていない。……元気と機嫌ってアナグラムじゃん、どうでもいいけど。
「とりあえず車から出よう?ここにいるよりは気分転換にもなると思うし」
「……わかった」
ちょっぴり不貞腐れつつも外に出て、当てもなく湖岸を並んで歩く。秋の夜はもう多少着込んでいないと寒いくらいで、街灯はあるものの数は少なく、多少視界を助けてくれる程度だった。湖も真っ暗で、対岸にぽつぽつと光が見える以外にはめぼしいものがない。空には月と2、3の星。月は居待で綺麗なものだけれど、くすんだような黒い帳には肩透かしを食ったようだ。そうしてつい出てしまった言葉は、かなり刺々しいものだった。
「全然星見えないじゃん」
「あー……。まだ目が慣れてないからなぁ。今日は雲もないし、もうちょっとすれば綺麗に見えると思う」
運転中にそこそこ慣れたような気がしていたものの、ただの錯覚だったらしい。ハイビームのせいだと思う。
その後もしばらくご機嫌斜めな私と話し続けてくれた彼はやっぱり優しくて、そう感じるほどに私の心は自己嫌悪で沈んでいった。落ち込んでいくのは彼にもわかったのだろう、途中からはちょっと焦りながら心配してくれた。
「何で落ち込んでるの?大丈夫?体調が悪いなら車に戻った方が……」
そこまで行くとむしろ可笑しく思えてきて、笑いがこみ上げてきて、何だかどうでもよくなった。くすりと笑みがこぼれて、
「そんなに心配しなくてもいいよ。悠成、慰めてくれてありがとう」
と言うと、突然笑い出した私に彼はぽかんとして、
「……そう?ならよかった」
不思議そうな顔で呟いた。
そうしてふっと明るくなった心でふと目を上に向けると……
「わぁ~……!すごく綺麗…………!」
優しい光の散る空が、視界いっぱいに飛び込んできた。
夜空はこうも明るかったのかという驚きと、瞬く光への感動。辛うじて放たれた意味ある言葉は沙石ほどにありふれたもので、それこそ私には何の価値もないものだった。
「そうだね……」
数拍おいて届いた声も、彼の表情さえ伝わってくるほど情感にあふれていた。互いに絶句して見つめる空に、甲高く、鹿の声が響いた────。
「──で、オリオン座の上の方にある赤い星がアルデバラン。おうし座だよ」
「アルデバランかー。聞いたことはあるなー。あれのこと?」
「うーん……。多分合ってると思う」
悠成に星を教えている。オリオン座は自力でもわかるものの、それ以外はちょっと判断に困るらしい。でも私も悠成がどこを指しているかはわかりにくくて、さっきから『多分』とか『だと思う』が多い。
「もっと上には昴も見えるよ。青白くてぼやっとしてるやつなんだけど」
「どこかな……。あ、見つけた!」
本当によく星が見える。一角獣が見えるくらいに。そんな空を眺めていると……、
「何て言うか、『星が降る』っていうのは違うような気がしてきたなぁ……」
「そう?」
「『降る』っていうよりは『昇る』って感じがする。夜空がどんどん広がっていって、それと一緒にのびのびと昇っていってる感じ」
「…………あ~。確かにそうかも。向こうから近づいてくるってよりは、こっちが吸い込まれていくみたいだよな」
「ちょっと違うような気もするけど、大体そんな感じ」
眺めるほどに高く舞い上がるような光が、降ってくるようにはまるで思えなかった。
「『星が昇る』……。でも、そう言うと普通に昇るのと同じになっちゃうなー」
「確かに……。あ、でも夜って付けて言えば問題なさそうじゃない?『星が昇る夜』って」
曇天だと星は昇らない。だからといって別に何か案があるわけでもない。
「……まあ、いっか」
言葉に乗せた想いが伝わるのなら、別に何だっていい。どうせこの言葉を広めようというわけでもない。だから、少しだけ韻を合わせて……、
「星の降る夜よりも、星昇る夜がいいな」
感謝を乗せた言葉が、彼に伝わりますように。