あおい森の中へ
仕事に疲れた若い男の人が、ふと、非日常を感じるレトロな喫茶店へ入って、コーヒーを飲む。
たったそれだけのことで、時空が動き出します。
小さな町の商店街のはずれに、古ぼけたコーヒー店が、ありました。
店の名まえは『野バラ』です。
ある日コーヒー店に、若い男の人がはいってきました。少しつかれているみたいです。はいってくるなり、戸口で立ちどまってしまいました。
「あれ今日は、マスターいないの?」
「ええ」
女の人は、お皿をふきながらこたえました。
「田舎に、急に用事ができてしまってね」
「そう・・・」
若い男の人は、がっかりして、でもせっかく来たのだからと、カウンターのはしっこの席にすわりました。
「サトウはなしで、ミルクを少しね、コーヒー豆は『マンデリン』ね」
男の人はびっくりしていいました。
「よく知っているね、なぜ?」
でも、それにはこたえず女の人はひとりごとです。
「あら、いけない豆が少ないわ。ちょっと待ってね・・・」
と、のれんの奥へひっこんでいきました。
しばらくすると、二階の階段を重そうに上がる音がきこえてきました。
男の人はクスリと笑うと、白いシックイのかべにかけてある、何枚かの絵をながめていました。
『あおい森の中へ』というタイトルがつけてあります。
「マスターの田舎の、風景なのかなぁ?」
若葉の木のトンネルになっていて、その奥に木もれ日のさしこむ、明るい広場が見えます。絵の中にしては明るすぎる光がにじんだようになってゆらめきました。すると、絵がまんげきょうのように動き出し、風にゆれたのでした。
「あれ、疲れているのかな・・・」
目をこすりましたが、絵はだんだんぼやけて、とうとう目をあけていられなくなり、男の人は、カウンターにつっぷして深くねむってしまいました。
そのとたん、男の人は絵の中に、いました。男の人は都会で生まれ、都会で育ちましたが、みょうにそこがなつかしいと思われました。
五月の風がほほをやさしくなでていきます。
男の人がおさないとき、家の近所の空き地で、紙ヒコーキを飛ばして遊んでいたころのことです。
そばに、小さい女の子がちょこんとすわって、紙ヒコーキの順番をずっと待っていました。
男の子は、わざと意地悪をして、なかなかゆずってあげなかったことを思い出したのです。
女の子は、とうとう泣き出して家に帰ってしまいました。
次の日、悪かったなと思い、紙ヒコーキをかしてあげようと広場で待っていたのですが、女の子は来ません。男の子は、女の子とは、それっきり会えませんでした。
ずいぶんあとになって、女の子は両親が離婚して、遠い町へ引っ越して行ったことを、知りました。「ごめんね」って言えないままでした。
「あのときは、ごめんね」
とやっと今、いえました。
風があのころのあの子にぶじ、とどけてくれたような気がしました。
二十年ぶりに気がはれました。
ボ~ン ボ~ン ボ~ン ボ~ン
お店の柱時計の音で、男の人はびっくりして目がさめました。
お店の女の人が、ごていねいにも、目がさめるのをじ~っと待っていたようです。
「ああ、目がさめた? じゃあ、今からコーヒー入れるわね」
男の人は、うで時計を見ると、びっくりしました。
「い、いやっ、大へんだ~。会社にもどらないと~」
男の人は、大あわてで、お金をおいてコーヒー店を飛び出しました。
「あの、おつり~」
「取っといて、ごちそうさん!」
コーヒー店のドアを開けたとたん、お母さんと女の子の二人づれにぶつかりそうになりました。
「すいませ~ん」
とっとっと、よけそこなって、若い男の人は、思いっきりしりもちをつきました。
お母さんはあきれ顔です。女の子と目が合いました。そのとき女の子はニッコリと笑って手をさしだしました。
男の人は飛び上がらんばかりに喜びました。(ゆるしてもらえたしるしだ!)そんな気がしました。
「ありがとう!」
お礼をいいました。
女の子はきょとんとして、お母さんを見上げました。
そのころ会社ではみんなが心配していました。いつもまじめで、コツコツと働いている、まじめな若い男の人が、飛び出したまま3時間も、帰って来ないのです。
朝から社長が、みんなの前で、彼をきつくしかりつけました。彼は彼なりにいっしょうけんめい努力はしていたのですが、お客さんから、クレームがきたのです。
それに、悩んでいるみたいで、このごろ元気がありませんでした。
社長にとっては、そのクヨクヨしているのが、がまんできなかったのです。
「もっと、しっかりしろ!」
とどなりました。
「あなたったら、大人げないんだから! 今の若い人は、叱られるのなれてないのよ。そんなこといったら、いっぺんに会社に来なくなるんだから、時代おくれよ!」
奥さんが、反対に社長をさとします。
社長も、反省して、しょんぼりして窓辺に立って外をながめていました。
すると、彼が元気に飛びはねるように帰って来るではありませんか。
思わず社長も笑ってしまいました。
階段をかけあがり、会社の入り口のドアをいきおいよくあけるころには、みんなが入り口に立って、並んでいました。
「すいませ~ん。休けい時間をだいぶんオーバーしてしまいました。今後、気をつけます!」
若い男の人が、元気になって、いきおいよく頭を下げると、みんながはくしゅをしました。彼はかべをこえたみたいです。
「いや~。会社をやめるんじゃないかと、心配してたよ~。良かった!良かった!」
みんなの笑顔に向かえられて、頭や、背中をバシバシたたかれました。みんなのあったかさがよくわかったのです。
「いや~。すまん、すまん。朝は悪かったね。ワシも大人げなかった。この年になっても、人間ってなかなか磨かれないものだね」
奥さんににらまれて、社長が先にあやまりました。
奥さんもニコニコと笑いました。
みんなも、社長を見て、『この会社で働いていて良かった』と思いました。
若い男の人は、この会社で、またいっしょうけんめい働こうと思いました。
そんなわけで、若い男の人は仕事もふえて忙しくなって、またあのコーヒー店『野バラ』に行けたのは、三ヵ月もたってのことでした。
ドアをあけると、いつものマスターでした。
「ああ・・・」
あの女の人は、いませんでした。
コーヒー店を見まわすと、あの四枚の絵も、もう飾られていませんでした。
店の奥の、のれんはあのままです。
「マンデリン・・・」
マスターは黙って、コーヒーを入れてくれます。
いい香りが広がって、そっと出された、コーヒーを一口飲んだところで、マスターが、平べったい箱を、渡しながらいいました。
「ぼくの留守中に来た、若い男の人にわたしてって、これ・・・」
まさか、と思いながらあけてみると、あの『あおい森の中へ』というタイトルの、ふしぎな絵でした。
「どうして、ぼくだと・・・?」
「この店も、あんまりお客さんが来なくてね。姉の話だと、思い当たる人があなたしかいなくてね。疲れて眠りこけていて、起きたらコーヒーお出ししようと思っていたら、あわてて、出て行かれたって。お金はもらっとくけど、それじゃぁ~悪いから、絵をあげてくれってさ」
「え、いいのこんなに大きな絵」
マスターはうなずきました。
「あなたのお姉さん?」
マスターは、もう一回うなずきました。
「にてないでしょ」
「絵描きさんなの?」
「まあ、売れなかったけどね。めいわくなら、お金のほうを返しましょうか?」
若い男の人は、首をはげしくふった。
「とんでもない!この絵にすごくいやされたんです。絵の中で、光がゆれて、小鳥のさえずりも聞こえたし、子供のころに返った気がして、すごく元気になれたんです。あの人は、きっといい絵描きさんにちがいないですよ!」
マスターは、うんうんとうなずくと、目になみだがもり上がっていました。天井の方を眺めながらいいました。
「姉も、それを聞いて喜んでいると思いますよ。姉は絵描きになりたかったんです。そして、コーヒー店もやりたがっていた。でも、家のじじょうで、あきらめました。自分をぎせいにして、ぼくを学校に出してくれました。いそがしく働いていたんで、絵も数点しか描けなかった。でも、いい絵です。いわば、あの日は姉の、はじめての個展でした。それに最期の・・・」
「彼女の絵は本物ですよ。見ていると、心をふわっ~と、深い森の中に持っていかれる・・・」
それ以上マスターからは、話がきけませんでした。若い男の人は、ありがたくこの『森の中へ』の絵をいただいて帰りました。
ひとり暮らしのアパートにかざられたその絵『あおい森の中へ』は、まるで森への入り口だったのです。
男の人は、あきずに何時間でもながめていられて、「はっ」と気がつくと、もう夕方だったり、悩みが雲のようになくなっていったりしました。それに体は、軽くなって毎日疲れを知らずに働けるようになりました
でも、いつかは都会をはなれて、自然の中で、つつましく暮したいと思うようになりました。
そうだ、こんど住所をきいて、コーヒー店のマスターのお姉さんに、大きなバラの花束でも、送ってあげよう。そうすれば喜んでくれるかもしれないと。
また男の人は、あのコーヒー店『野バラ』をおとずれました。
でも、お店のドアにはり紙がありました。
男の人は、
「やっぱりな」
とつぶやいてなにやら、メモをして、立ち去ったのでした。
長い間、お世話になりました。
いつか、田舎に遊びに来てください。
店主
電話番号 0X0XX00X00
実は、わたくしめも、絵描きを志し、頓挫したものです。
わたしの部屋の中には、私の描いた絵も飾ってあります。
でも、絵のおかげで、確かに青春を突っ走って生きた実感があります。
そんなことを思い出しながら、書きました。