森の娘と蓮の花
毎日のように隠れ森に遊びにきていた、近くの街の男の子は、ある冬の終わりを境に来なくなった。
ごめんね、ぼくは大人になるから、もう来られないんだ、と言って。
男の子が、最後に森の娘に渡したものは、水鉢に植えた蓮だった。
「それで、蓮の花を咲かせたい、ってわけか」
森も人の街も知っている、賢いカラスが樹上から言う。森の娘はうなずいた。
「うん。でも、どうすれば花を咲かせられるのか、わからないの。この森に蓮なんて、なかったでしょう。森で咲く花なんて、誰かが咲かせるものではなかったでしょう」
「そうだね。おれも蓮の咲かせ方なんてよくは知らないが、ひとつだけ言えることがあるよ。こんな鬱蒼とした場所じゃ、蓮の花ってやつは咲かないよ。日の当たる場所を探すんだね」
「明るい場所に行かなくてはいけないの」
おびえた様子で、森の娘が言う。この娘は森の一族の中でも臆病なたちで、とにかく日陰にいたがった。生まれてこのかた、父親にあたる大樹の陰から出てこなかったのを、かけっこや球遊びができる広い場所にまで連れ出したのは、あの男の子だった。
森の娘の世界を少しばかり広げて、男の子はいなくなってしまった。
カラスはため息をついた。
「いくら世話したって、日の光がたっぷり浴びられる場所じゃなきゃ、意味がないよ」
「そんな」
「あきらめるかい?」
聞かれて、森の娘は首を横に振った。その選択肢はなかった。
「いいえ。あきらめない。でも、日の当たる場所を知らないの。日陰の場所しか知らないで生きてきたもの」
「しょうがないな。それじゃ、おせっかいの鹿のおっかさんを紹介してやるよ。森の中で、日が当たって草のよく育つ場所は、彼女たちが一番よく知ってる」
そうして、森の娘は、おせっかいの牝鹿とひき会わされた。
「おや、あなたが日の当たる場所へ? 珍しいこともあるものね」
「蓮の花を咲かせたいの」
「朝昼のうち、半分くらいの時間は日の光を当ててやらないと開花しないと聞くよ。大丈夫かい?」
森の娘が少し青ざめると、牝鹿は心配そうにこう言った。
「やっぱり、難しいんじゃないの。花はあきらめて、とにかく枯らさないように世話してみるのだって」
意外なことに、思いやる調子でそう言われると、かえってがんばってみたい思いがわいてきた。
「いいえ。なんとかして花を咲かせたい。あの男の子の思い出は、これしかないから」
「そう。じゃあ、いい場所を教えてあげるね。ついておいで」
そうして、森の娘は、生い茂る樹木の少しまばらな場所へ案内された。樹木が密生している場所でずっと暮らしてきたから、風がすかすかと通り過ぎ、木漏れ日が顔に当たると、ひどく落ち着かない気持ちになった。
森の娘はあたりを気にしながらも、一番日の光がよく当たる場所に鉢を置いた。
「あらあら珍しいお方。こんなところでどうしたの?」
突然背後から声をかけられて、森の娘は飛びあがった。すぐ後ろにいたのは小さなウサギで、森の娘の様子にくすくす笑っていた。
「なんて怖がりさん。こんな小さなわたしがそんなに怖い?」
森の娘は首を横に振った。
「違うの。こんなに開けた場所に来たことがないから、驚いただけ」
「驚くことはないでしょう。ところで、その蓮はあなたが育てるの?」
「そう。街の男の子と遊んだ思い出の、たったひとつの証なの」
「ここは日がよく当たるけれど、こういった場所に置いとくと、その水がどんどん減ってゆくよ。毎朝水を足してあげなきゃね。川までは一人で行ける?」
「自信がないわ」
「では、慣れるまでついていってあげましょう」
そうして、毎朝、森の娘はウサギと水くみに出かけるのが日課になった。
蓮の様子は、カラスも、牝鹿も、ときおり様子を見に来てくれた。
毎日森を歩くたび、怖いものがなくなっていく。森の娘は、だんだん、ひとりであちこち出歩くことが増えた。
どうしてこんなにおびえていたのだろう。森の娘が思いきって新しい場所へ足を踏み出してみるたびに、誰もかれも手を貸してくれた。
いつしか森の娘は、森の隅から隅まで知りつくしていた。怖い場所なんか、もうどこにもなかった。
(いつか、森を出て、あの男の子に会いに行けるだろうか……)
そんな思いすら、胸をよぎるのだった。
夏を迎えて、蓮はあでやかな花を咲かせた。