第三楽章『小さな魔法使いたち』
このコンクールは一風変わっている。授賞式の後、優勝・準優勝・3位になった演奏者が、エキシビジョンとして一曲披露するのである。
光太郎は、なんと見事に、3位に輝いた。それを観客席で見ていた母親やおばちゃん先生が、授賞式後、廊下にいた彼に駆け寄る。
「すごい、すごいわ、光太郎!」
「やったわね、光太郎君!あなたの努力の賜物よ」
「ありがとうございます……」
ところが、光太郎は素直に喜べなかった。1位に名を刻まれるはずだった神崎が、あのようなことになってしまったから、光太郎の順位が繰り上がっただけなのだ。たぶん、目の前の2人もそれに気づいているだろうと思う。
光太郎はスポーツ刈りの頭をかきながら、複雑な笑みで、感謝を言うしかなかった。
おばちゃん先生はそれでも、目に涙を浮かべながら褒める。
「こんなに頑張っている子を教えたのは、私の誇りよ。さあ、胸を張って、もう一曲弾いてきなさい」
「分かりました!」
母親と先生は手を振って、その場を後にした。光太郎は控室へと戻っていく。
その控室の手前に来た時だった。中から、怒鳴り声が聞こえてきた。
バンッと、ドアを勢いよく開けて出てきたのは、智也の外人講師だ。いら立つ足取りで、出口へと去っていく。
開け放たれた扉の向こうを覗くと、部屋の片隅で、椅子に座る智也の姿があった。うなだれて、長い茶髪が顔を隠している。微動だにしない。前に組んだ手は、石のように固く見えた。
光太郎はもやもやとしたものが、心にわいてきた。怒りに近いものだろうか。
(なんだろう、この気持ち?)
彼はその正体を確かめるべく、智也に近づく。そして彼の前に立つと、話しかけた。
「神崎」
智也の身体がピクリと動く。
「野村、光太郎……」
「そうだ」
声だけで判別してくれたことに、光太郎は若干の驚きを感じる。
しかし、次に智也の口から出てきたのは、冷たい言葉だった。
「なにしに、来たんだ」
「なにって……」
「僕を笑いに来たんだろう」
冷徹な口調の中に、段々と赤い感情が含まれ始める。
智也は急に、声を荒げた。
「笑いたきゃ笑えよ!僕の気持ちも知らないで。勝つことを絶対に求められるなんて、お前は味わったことがないだろ!?」
「神崎……」
「僕に期待するな!お前らの妄想に、僕を巻き込むなよ!」
智也の顔が上がる。泣きはらした赤い目が、光太郎の顔を捉える。彼の肌は、やはり、異常なほど青白かった。
再び、神崎は呼吸が荒いまま、顔を下に向ける。組んだ両手が震えている。
それを見て、光太郎の思い描く神崎像が、ガラガラと崩れていく。
こんなの、神崎じゃない。神崎はもっと冷静で、天才で……
(……そういうことか)
光太郎はやっと分かった。自分が抱いていた感情の正体が。
彼は智也の顔を覗き込むように、しゃがんだ。
「なあ、トモ」
昔の呼び方を思い出した。そして彼が臆病で、いつも自分の背にくっついていたことも。
彼は幼なじみに告白する。
「俺さ、お前に怒っていたんだよ。繰り上がって受賞したことも情けなかったし、お前が俺の演奏を聴いていなかったことも腹が立った」
「…………」
「でも、そうじゃなかったんだ。俺が一番怒っていたのは『お前の演奏が聴けなかった』からなんだよ。もう一度、お前の魔法にかかりたかったのさ」
彼は気が付いたのだ。自分が一番最初に、彼の魔法をかけられた虜であったことに。自分が彼のファン第一号であったことに。
そして、自分が抱いていた『天才・神崎』という幻想が崩れたことに、勝手に怒っていたのだ。
「……こうちゃん」
智也も昔の呼び方に戻る。顔を少し上げて、久しぶりに、間近で彼の顔を見る。
光太郎はそんな彼の手を、両手で握ってやった。
(昔も、人前で演奏する時は、握ってやったっけ。こいつ、緊張しがちだったもんな)
光太郎は優しい表情を浮かべながら、智也にお願いする。
「トモ、お前の演奏を聴かせてくれないか」
「え……」
「やっぱり、お前のピアノが聞きたい。じゃないと、このコンクールが終わった気がしないんだ」
光太郎の真剣なまなざしに、智也は心が射抜かれる。でもすぐに、首を振った。
「ダメだよ、こうちゃん。僕はもう……」
智也の眉尻を下げた表情に、光太郎は笑いかけた。
「じゃあ、俺が魔法をかけてやる」
「魔法?」
「ああ、お前がピアノを弾けるようになる、とびっきりの魔法さ」
――*――
3位のエキシビジョンは、なかなか始まらなかった。
観客たちは少しいら立ち始める。
「どうしたんだ?」
「もしかして神崎君みたいに倒れちゃったんじゃない?」
心配というよりも、揶揄する声が聞こえる。彼らは神崎智也の演奏が聴けなかったことに、かなりの不満を抱いているのだ。何人かは席を立って、帰ろうとしていた。
ようやくスタッフが照明を絞り、スポットライトがピアノに集中される。観客たちはバラバラと気のない拍手を送った。
ところが、現れた演奏者を見て、彼らは度肝を抜かされる。
「えっ、2人?」
「3位って1人だけだったよね。それに同時に出てきたっていうことは、連弾?」
「それっていいの?」
そんな彼らをさらに驚愕させたのは、その2人のうちの1人の、顔を確認した時だった。
「お、おい、神崎智也だ!」
ドヨドヨと会場がざわつく。「なんで?」とか「どうして?」と疑問がわき上がる。
観客たちの動揺が収まらない中、光太郎と智也は舞台の真ん中に立った。
「大丈夫かな」
と智也がぼそりと心配する。光太郎が心配するなと笑いかける。
「俺たちの演奏で納得させてやればいいのさ」
2人の中学生はお辞儀をして、智也が左に、光太郎が右に、並んでピアノの前に座る。
観客席からまだ驚きの声がもれている。彼らはお構いなしに、優しく、最初の一音を鳴らした。
P.デュカス 交響詩「魔法使いの弟子」
ゲーテの詩が基となった作品で、老いた魔法使いが若い見習いに雑用を指示して、自分の工房を旅立つところから物語が始まる。
見習いは命じられた水汲みの仕事に飽き飽きして、箒に魔法をかけて、自分の仕事の身代わりをさせる。ところが、やがて床一面は水浸しとなってしまうが、見習いは魔法を止める呪文が分からない。もはや洪水のような勢いに、手のつけようが無くなったかに見えた瞬間、師匠の魔法使いが戻ってきて、たちまち魔法をかけて急場を救い、弟子を叱り付ける。そういうストーリーである。
幼い頃の彼らの先生がこの曲が好きで、2人に連弾をよくさせた。彼らにとっても、お気に入りの曲だった。
この連弾では、智也が低いパートを担当している。いいのかよ、と光太郎が聞くと、智也は笑った。
『忘れたの?僕は目立つことが嫌いなんだよ。こうちゃんがやってよ』
弟子の魔法が徐々に暴走していく。それを表すピアノの演奏も、激しさを増していく。2人の指のスピードは徐々に上がり、観客たちから声が消えた。
会場中が固唾を飲んで、彼らの演奏に耳を傾ける。
その途中、光太郎が一音、指が届かなかった。
(あっ)
すると、智也が代わりにその音を鳴らしてあげる。
(昔から、この音を弾くのが苦手だったよね)
(このヤロウ)
魔法が暴走を続ける。すると、珍しく、智也がミスをした。
今度は光太郎が一音鳴らし、それをカバーする。
(おかえしだ)
(この)
楽譜の中では、とうとう弟子は水に飲まれ、助けを求めていた。
しかし、ここには老魔法使いはいない。2人でこの魔法を鎮めるしかない。
2人は自分が使える魔法をありったけ出して、競い合うように弾き続けていく。自分を鼓舞し、未完成な身体全体を震えさせて、ピアノの恐怖に立ち向かっていく。
「はあ……」
誰かの声がもれる。その迫力は、観客の心を飲み込んだ。
激しい演奏が、急に止まった。ついに魔法が効いて、弟子は助かったのだ。観客たちは立ち上がりそうになった腰を抑える。
そしていよいよ、最後のパートが始まった。智也の指が鍵盤に触れる。ゆっくりとした不穏な曲調の中に、弟子が感じている、助かった安心と、怒られる心配を表す。
そんな複雑な感情を抱いているのは、光太郎と智也も同じだ。この曲を弾ききる安心と、終わってしまう悲しさ、そしてこの先の未来への不安を心に抱く。
2人は鍵盤の中で会話する。
(もう終わってしまうな)
(終わっちゃうね)
(俺たちの将来、どうなるのかな。トモと一緒に弾くことは、もう出来ないのかな)
(できるさ)
(なぜ?)
(だって)
智也は微笑んだ。
(僕たちは同じ道を進む、ピアニストだから)
クライマックス。最後の叱りつける大きな音を弾き鳴らし、2人は鍵盤から手を離した。
一瞬の静寂。
しかし次の瞬間、会場中に割れんばかりの拍手が轟いた。中には立ち上がって、指で口笛を鳴らす人もいる。
「やった」
魔法をかけた。光太郎は感動に、心が震える。
2人はボロボロの身体を持ち上げて、観客の前に立った。拍手は一向に鳴りやまない。
この光景を見たかったのだ。光太郎は智也に感謝する。
「ありがとう、トモ。お前の魔法のおかげだよ。さすがだな」
「ちがうよ」
智也は子供のころと同じ、満面の笑みを見せる。彼もまた、こんな光景を見るのは初めてだった。満足げに、光太郎に語る。
「これは2人でかけた魔法さ」
満場の拍手喝采を浴びている。
そんな小さな魔法使いたちは、幸せそうに、笑い合うのだった。