第二楽章『天才の正体』
コンクール本選当日は、素晴らしい秋晴れに恵まれた。光太郎は着慣れないタキシードに身を包み、緊張した面持ちで控室に向かう。
顔をこわばらせていたのは彼だけではない。付き添いに来た母親も同じである。
「大丈夫?お腹、痛くなっていない?本番直前にはトイレに行くのよ」
「分かってるよ!」
もう中学生なのだ。母親に心配されることに恥ずかしさを覚える光太郎は、煩わしそうに会話を中断させた。それでも、母親は不安そうに言葉をかける。
「失敗しても落ち込まないようにって、先生は言ってたわ。変な気起こさずに、ちゃんと帰ってくるのよ」
「うるさい!」
せっかくワックスで整えた短髪を。ぐしゃりと乱れさせたくなる。これからコンクールに挑もうというのに、なんてことを言うんだ。光太郎はイライラとして、足音が荒くなる。
そんな彼を、もっといら立たせる存在が現れた。思わず名前を呼ぶ。
「神崎」
会場の玄関ホール。先生らしき背の高い外人から話しかけられている智也がいた。彼のつややかな茶色の髪や、白い顔や手が、黒いタキシードに良く似合っている。特に筋の通った高い鼻は、だんご鼻に悩む光太郎がうらやむぐらい、カッコいい。
智也はこちらを一瞥した。ぱっちりとした二重の目が、光太郎の顔を捉える。
「…………」
しかし彼は何も応じることなく、外人に一言話した後、控室へと入っていった。光太郎はムッとする。
(調子に乗りやがって)
「はあ、やっぱり素敵だわ、神崎君。王子様みたい」
隣の母親は顔に手を当てて、息子と同じ年の彼を見とれる。神崎智也はこの地域でも有名なのだ。この街の中学校で、保護者を含めて、彼を知らない人はいない。
「来年には海外に留学するって話も聞くし、きっと、もっと有名になるのでしょうね」
「……だろうな」
今年春の県の大会で、ダントツの成績で優勝したのだ。数か月後に開催される全国大会でも注目されている彼に、そういう道が用意されているのは、想像するに難くない。数年に一度開催される、全国でも有名なこのコンクールにも、彼を視察に来る人は大勢いることだろう。
このコンクールは、智也にとって、腕を見せつける場所の1つに過ぎない。でも、光太郎にとっては、やっと同じ舞台で戦うことが出来る機会なのだ。
(見ていろよ、神崎!お前に挨拶ぐらいはさせてやるからな)
光太郎は闘志を燃やし、母親にぞんざいな別れを告げて、控室へと入っていった。
――*――
光太郎の出番は、比較的早かった。智也よりも先に、舞台に上がる。
緊張で汗ばむ手のひらをズボンで拭き、彼はお辞儀をして、ピアノの前に座った。そして息をひとつ吸い、指を鍵盤にのせる。
ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第1番ヘ短調Op.2-1 第一楽章」
ベートヴェン独特の、何度も反復する提示部の音階が、彩を変えて重なり合う。そして表現豊かにと、作者が楽譜に記載した通り、音の強弱で曲に深みが増していく。演奏者の加減一つで、その腕前が明確に出てしまう、難しい曲である。
しつこいぐらいに繰り返される音階を、丁寧に紡いでいく。光太郎は体を軽く前後させながら、弾きこんだ音符を奏でていく。あの猛練習が、彼の自信になって、いつの間にか緊張が頭からすっぽりと抜けていた。
強い音、弱い音、そしてスキップするように跳ねる音から、流れるように聞こえる音まで、体にしみこませた通りに、光太郎は弾くことが出来た。
スポットライトは今、彼しか照らしていない。
(神崎!これが俺のピアノだ!)
そして最後の力強い音で締めくくられる。それと同時に、会場から拍手が上がった。光太郎は大きく息を吐き、立ち上がると、観客に一礼して挨拶する。
まだまだ、自分の演奏は魔法に至っていないだろう。しかし必死に練習した成果は、十分に出した。彼は小さくガッツポーズしながら、控室へと戻っていく。
その途中、トイレから出てくる智也を見つけた。その姿に、光太郎は怒りがぶり返した。
(なんだよ、こいつ。俺の演奏を聴いていなかったのかよ)
憤然として、彼のそばを早足で過ぎ去る。演奏の興奮冷めやらぬ肩を大きく動かし、光太郎は大股で歩く。
その時、その背中に声がかけられた。
「あ、あの……」
「うん?」
光太郎が振り返ると、智也が片手を伸ばして、彼の顔を見つめていた。智也は口を何度かパクパクと開いたが、やがて出てきた言葉はそっけないものだった。
「……いや、なんでもない」
智也は光太郎を追い抜き、うつむいたまま、控室へと入っていった。光太郎は眉間にしわを寄せて、その姿を見送る。
「なんだよ、呼びかけておいて」
不満を呟くと同時に、光太郎は気になった。
あいつ、あんなに顔が白かっただろうか。
――*――
コンクールは順調に予定を消化し、いよいよ智也の番になった。
運営側があつらえたのか、中学生の部、最後の演奏者である。この日の午後は中学生の部だけ。つまり、この日の大トリだ。
この後すぐに、審査員による採点が行われ、順位がつけられることになる。
しかし、その順位のてっぺんに、神崎智也の名前が刻まれることを、この会場にいる観客全員が知っている。この智也の出番は彼らにとって、優勝者の演奏を聴くようなものだ。コンクールという緊張する環境から早々と解き放たれ、ワクワクとしながら智也の演奏を待っている。
他の演奏者も一緒である。控室にいる彼らは、舞台を映すモニターにくぎ付けとなっている。光太郎もモニターを見つめていた。彼らと同じように、嫉妬や憧れを入り混じらせた複雑な表情を浮かべる。
智也の曲は、ハイドン「ソナタ 第53番 ホ短調 第一楽章Hob.XVI 34」
重厚な音階の中に、大人の憂いを表す、課題曲の中で最も難しいものだ。曲調は何度も変化し、ち密なコント―ロールを要する。光太郎は真っ先に見送った曲だった。それをどのように聞かせてくれるのか、コンクール中の注目が集まる。
智也が舞台に現れた。その途端、今までの演奏者に向けられたものよりも、何倍も多い拍手が、彼に降り注ぐ。
(いい気なもんだ)
あんなに注目されるなんて、気持ちがいいだろう、と光太郎は腕を組みながら思う。自分は見たことのない世界だ。
その拍手は、彼がピアノの前に行くまで続いた。智也は座る椅子の高さを調整する。
(あれ?)
思うように調整できないのか、何度も椅子のネジを動かしている。モニターの端、つまり舞台袖からスタッフが出てきそうになった時、やっと彼は椅子に座った。
会場は一層静寂に包まれる。光太郎たちも息を飲む。智也の指がピアノに向かった。
ところが、次の瞬間、彼らの予想は大きく裏切られる。
「おいおい」
「どうしたの?」
モニターを見ていた他の演奏者から声が上がる。モニターの中の会場からも、どよめきが聞こえてきた。
智也は鍵盤に指を置かなかった。その手で、顔を覆ってしまったのだ。
背中を丸めた彼の姿を、観客の誰しもが見たことがない。
(神崎?!)
光太郎は立ち上がる。それと同時に、画面の中の智也も立ち上がった。
彼は椅子を蹴飛ばすと、そのまま舞台を走り去ってしまう。会場からも、この控室からも、悲鳴が上がる。
光太郎は思わず廊下へと出た。ちょうど智也が戻ってきていた。声が出る。
「神崎、お前!」
智也は真っ青な顔のまま、一目散にトイレに駆け込む。光太郎もその後を追って、トイレへと入った。
トイレの個室から、吐く音が聞こえてきた。それと同時に、彼の嗚咽も聞こえてくる。
(あっ)
光太郎は気が付いた。彼は別の世界になど、いなかった。彼は特別じゃない。同じ舞台に立つ、先生の言った怖いピアノと向き合う演奏者の1人なのだ。そして、その恐怖に怯えて泣いている、ただの中学生だ。
大人たちがトイレに入ってきた。必死に、智也に呼びかけている。
光太郎はトイレの端で、ドアひとつ隔てて泣く彼を前に、ただ茫然と立ち尽くしていた。