第一楽章『魔法をかけたい少年と、魔法をかけた少年』
「ピアノは、とっても怖いんだ」
幼い光太郎と智也は、そんなことを言った先生の顔を、不思議そうに見た。ピアノの前で座る先生は、しわくちゃの顔を、悲しそうにしかめる。
智也は無邪気に尋ねた。
「どうして怖いの?」
「ピアノは素直なんだ。どんな人でも弾ける代わりに、演奏する人の中身をすべて表してしまう。自分のすべてをさらけ出してしまうから、ピアニストはたいへん辛い思いをするんだ」
子どもたちは首を傾げた。この頃は、まだ理解出来ない光太郎は、先生に聞く。
「じゃあ、なんで先生はピアノをひくの?」
先生はまたニッコリと微笑んだ。今度は、優しい顔だった。
先生は遠い目をして「そうだなあ」と少し考えて、答える。
「魔法をかけられるんだ」
「まほう?」
「観客を魅了する魔法を、ピアノを弾くとかけられる時があるんだ」
先生はピアノの鍵をポンと鳴らす。
「僕たちは、そんな魔法を練習しているのさ」
――*――
ピンポーンと、玄関のチャイムが鳴る。はーいと間延びした女性の声が、それを鳴らしたスポーツ刈りの少年を出迎えた。冷たい風が吹く中秋、玄関の扉が開き、手袋をした中学生が挨拶する。
「こんにちは」
「いらっしゃい、光太郎君。これで30日連続ね」
とニコニコとして言われ、野村光太郎は恥ずかしそうにうつむいた。彼女の厚意に甘え切っていることに、中学二年生ともなれば、羞恥心を覚えるものだ。
彼はせめてもと、襟詰めの黒い制服を整えて「よろしくお願いします」と深々とお辞儀をした。黒い短髪のつむじまで見せる。
彼の目的は、この家のグランドピアノと出迎えたおばちゃんの指導だ。
「本当に練習熱心ね。また学校からそのまま来たのでしょう」
「はあ」
早速その前に座って、学校カバンを傍らに置き、鍵盤のふたを上げる。そして課題曲の楽譜を開いた。
おばちゃん先生は隣の椅子に座ると、ポンと手を叩く。
「じゃ、昨日の続きからしましょう。音の強弱を意識してね」
「はい!」
光太郎は指紋がすり減った指で弾いていく。住宅街に、熱のこもった演奏が響いていく。難関である音階を、今日はなんとかクリアする。
一回弾き終わった後、おばちゃん先生は拍手する。
「すごいわねえ、光太郎君。さすが予選を通過したことはあるわ。これなら神崎君にも負けないわよ」
「…………」
褒められても、絶対に「神崎智也に勝てる」とは言われない。彼女もまた、彼の『魔法』にかけられた、彼の演奏の虜だ。
(最初に魔法をかけたのは、俺ではなく、神崎だった)
小学生の間、光太郎は、智也と一緒の音楽教室でピアノを習っていた。慕っていた先生は老齢のため途中で引退したが、代わった新しい先生に教わった。2人は仲良く教室に通っていた仲間だった。
小学5年生の時に出場したコンクール。その時、すべてが変わる。
(なんだよ、この音)
舞台袖から聞いていた光太郎は、唖然とした。
ヨハン・パッヘルベル「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ」
パッヘルベルのカノンという呼び方で有名な曲である。おそらくピアノを習う人は誰しも弾くであろう、クラッシック音楽の入門曲だ。ゆっくりとした二長調で、単純なメロディー。簡単で、光太郎がすぐに弾くのを飽きてしまった曲だ。
ところが、智也が弾くピアノから出てきたのは、光太郎が聴いたことのない音だった。
(なんて、やわらかい音なんだ)
智也が一音奏でるたびに、その音はシャボン玉のようにふわりと浮き、会場に響いていく。優しいとしか言いようのない音が、聴衆の耳に届く。彼らがホウともらすため息が、会場中から聞こえてきた。
わずか11歳の男の子に、コンクール中の人間は支配された。
そして丁寧に鍵盤から手を離し、智也が顔を上げた瞬間、魔法にかかった彼らから惜しみない拍手を受けた。智也が目を丸くしていたのを思い出す。
そしてその時、光太郎も思わず手を叩いたことを、彼は覚えている。この日を境に、光太郎と智也の間に、明確な壁が出来たのだ。
それから数年、神崎智也の名前は、音楽界の中で『天才』として知られるようになった。当時の先生の推薦を受けて、今は有名な外人講師を自宅に招いて、教わっているという。
(俺とは全然違う)
と光太郎が苦々しく思った瞬間、パンとおばちゃん先生が手を叩く。光太郎の弾く手が止まる。
「集中していなかったでしょう。音が力んでいたわ」
「すみません」
「もう一度、最初から」
はい、と返事をして、再び鍵盤に触れる。楽譜を覚えた指が勝手に、正しい白鍵へと動いていく。
自分には才能がないと、光太郎は気づいていた。だからこそ、人一倍練習するしか、彼には手段がない。中学校で音楽を教えていた初老の女性に頼み込んで、彼女の家に毎日通って教わっているのも、その想いからだ。
しかし、これだけ練習していても、智也に勝てる気はしなかった。
先日まで光太郎は、自分は必ず上手くなっているに違いないと、ひそかに自信をつけていた。
ところが、コンクールの予選で、その自信は打ち砕かれた。智也の演奏を聴いてしまったのだ。同じ課題曲に挑むはずなのに、彼のピアノからは全く違う音が聴こえてくる。
(神崎だけが別の世界にいる。あいつは特別だ)
また目の前で、彼の魔法を見てしまった。光太郎は、感動してしまった自分にいら立ちながら、思う。
俺は、あいつに勝てない。俺は凡人だ。でも、俺も……
(いつか魔法をかけてみたい。観客を魅了する演奏をしたい)
幼い頃の老先生に教わった、ピアノの神秘を信じている。光太郎は黙々と、ピアノに向かい続ける。陽が落ちても、冷たい夜風が吹いても、同じフレーズを弾き続けるのだった。
魔法使いになれない少年は、はてしない夢を見る。
――*――
同じ日、先生を玄関先で見送った母親が、息子の部屋の前に立つ。
「先生、太鼓判を押してくださったわ。これならコンクールできっと優勝が出来るって」
喜びが混じる声で呼びかけ、母親は軽い足取りで台所へと去った。
薄暗い部屋の中、神崎智也はピアノの前で座っていた。肩まで伸びた茶色の髪を、白い頬に垂らし、うつむく。
開いたままの楽譜と鍵盤が、彼を見つめる。その視線を避けるように、細い両手で顔を覆った。
「ふう……」
智也のため息が、電気が点いていない部屋の中を漂っていく。外で風に舞う枯葉の影が、窓から映しこまれる。
魔法使いと褒められた少年は、目を閉じて、体をこわばらせていた。