黒猫は
黒猫は欠伸を噛み殺した。
この黒猫の名は、スペンサー。
正しくは、スペンサー・ヒンメルという。
綺麗な毛並みに、曲線を描く尻尾。
手足は白い靴下をはいたように。
スペンサーは人間の足元を縫うように歩いた。
ある未来では、猫のロボットが人間の言葉を発して、様々な道具で人間の都合ばかりに合わせて動く。
それを漫画、或いはテレビというもので人間は喜んで見ていた。
スペンサーはそれを嫌った。
ロボットというのは、動く機械だ。
そんな冷たいものに都合良く感情はうまれない。
スペンサーは「私の方が綺麗で暖かな体をしているわ。」とそっぽを向いた。
どうして、此処にこんな素敵な猫がいるというのに、人間は猫型ロボットというものを見つめて喜ぶのか、スペンサーにはわからなかった。
ある過去では、長靴をはいた猫がいた。
それは本に登場して、それを人間は好んで読んだ。
スペンサーはその猫をあまり知らないけれど、二足歩行が出来るのだとわかった。
長靴をはいて、なんておしゃれ。
スペンサーは、「そんなものをはかなくても私はおしゃれだわ。」とそっぽを向いた。
どうして、ここにこんな素敵な猫がいるのにそちらばかりを見つめるのか、スペンサーにはわからなかった。
様々な場所を歩いた。
スペンサーはどんな作られた猫よりも、美しくて、素敵な黒猫だった。
ある時、スペンサーは自分と同じ靴下をはいたような黒猫を見つけた。
それは、真ん丸の目に可愛い靴下にゃんこ。
スペンサーは叫んだ。
「私を真似たって私の方が素敵だわ!」
それでも、人間はその猫を手に取って、可愛いと言う。
スペンサーはそっぽを向いた。
自分の方が、美しく、素敵で、可愛いくて、おしゃれで………。
だから、どんな作られた猫よりも、素晴らしい猫なんだと言い張った。
人間はスペンサーを一度は見るのに、直ぐにその目をその作られた猫へと向けてしまう。
スペンサーは人間の手が自分を撫でることが当たり前だと思っていた。
スペンサーのご主人様が、亡くなるまで、ずっと、そうだったから。
スペンサー・ヒンメル。
それは、ご主人様がくれた大切な美しい名前。
人間がスペンサーを指差して、別の名前を言うと、スペンサーは怒った。
「私は、スペンサー・ヒンメルよ!」
けれど人間は聞いてはくれなかった。
人間には、猫の言葉がわからない。
それでもスペンサーは、言った。
暖かい手を失って、それを探してスペンサーは街を歩く。
ご主人様がもう、亡くなっていることは、スペンサーは知らないのだった。
スペンサーが街を歩いていると青年が近付いてきた。
青年はスペンサーを撫でて、「可愛い。」と言った。
スペンサーは嬉しくて言ってやった。
「当然よ!」
青年はスペンサーを抱き上げる。
そして、スペンサーを飼うことにした。
知らない部屋に連れてこられて、スペンサーは不安になった。
此処は何処なのか。
わからない。
知らない匂い。
「スペンサー・ヒンメル、君の名前だ。」
青年は言う。
スペンサーは首を傾げた。
「それがどうしたの?」
スペンサーは青年があのご主人様の息子だと知らなかった。
青年も、この黒猫が父親の飼い猫だったなんて知らなかったのだ。
スペンサーを撫でる手が、暖かくてご主人様のようだと思った。
いつの間にか、スペンサーは青年の飼い猫になっていた。
青年は作られた猫よりも、スペンサーを可愛がって、美しい猫だと言った。
スペンサーは当たり前が帰ってきたようで嬉しかった。
青年の部屋には、テレビも、漫画も、本というものも、なかった。
あるのは、スペンサーを撮った写真と、カメラというものと、机と椅子、そしてベッドだけ。
スペンサーは言った。
「私は、どんな作られた猫よりも素敵な猫なのよ!」
青年は笑顔でスペンサーを撫でた。
「どんな猫よりも、素敵な猫だ。」
それが永遠に続くことはなかった。
青年の前から、スペンサーは姿を消した。
死期を悟ったスペンサーは、街を通り過ぎて、一匹で、こっそりと、息を失った。
青年は街を歩く。
スペンサー・ヒンメルというどんな猫よりも素敵な猫を探して。
ある路地裏で、黒猫は産まれた。
名前はまだ無い。
黒猫は足に白い靴下をはいたような柄を持っていた。
そんな仔猫を、ある紳士が抱き上げる。
「私の家に来ないかね?」
猫はその暖かい手に抱かれて、知らない部屋に連れてこられた。
この部屋には、机と椅子、そしてカメラだけがあった。
「スペンサー・ヒンメル。」
紳士は仔猫に言う。
仔猫は首を傾げた。
「それはなぁに?」
紳士は仔猫を撫でて言った。
「君の名前だよ。」
暖かな手は、スペンサーを撫でる。
そして紳士は言う。
「どんな作られた猫よりも、スペンサー、お前は綺麗で素敵な猫だ。」
スペンサーは嬉しかった。
それは当たり前になった。
毎日、紳士が言うのを聞いた。
毎日、紳士が撫でてくれるのを喜んだ。
紳士が出掛けたら、スペンサーは毛繕いをして紳士を玄関で待った。
綺麗で、素敵な猫でいなくてはいけないから。
そして、帰ってきたら「おかえり。」と言う。
スペンサーは幸せだった。
スペンサー・ヒンメルは、その日々を思い出しながら、その暗闇で寝転んで、息を失う。
確かに、作られた猫は綺麗で可愛くて、美しくて、素敵で、おしゃれかもしれない。
でもそれは、存在しない猫である。
此処で息を失った猫、スペンサー・ヒンメルはそんな作られた猫を嫌った。
妄想や想像は楽しいだろう。
好きなんだろう。
それでも、そんな作られた猫にはない魅力が生きている。
そして、目を向けて貰えないまま死んでゆく猫もいる。
殺される猫もいるし、虐められる猫もいる。
生きているこの猫たちに、目を戻して欲しい。
そして、幸せにしてあげて欲しい。
現実にいない作られた猫は、人間にとって都合が良くてきっと魅力的なんだろうけれど、それはどうなのだろうか。
スペンサー・ヒンメル。
この猫は実在した猫の話を元に産み出された存在。
これもまた、作られた猫だろう。
殺処分になっていたかもしれない。
二次元ばかりでなく、すぐ傍で生きる命は人間にとって、邪魔であろうか?
スペンサー・ヒンメルは言った。
「私はどんな作られた猫よりも、素敵な猫なのよ。」
猫だけであろうか?
現実の猫も、人間も、どちらも作られたモノよりも、素敵である。
貴方はどう思いますか?