罪人
朝霧萩也は旅行を趣味にしている。
今もまだ高校二年生の彼が好んで行くのは、いつも人里から離れた自然ゆたかな山。地元のパンフレットの隅っこで紹介されるかされないかの小さな山ばかり。安い民宿で一晩泊まることも多いが、テントを張って野宿することもある。そんな気楽な一人旅を、萩也は2年前、高校生になった頃から続けてきた。
学校にいる時はいつも適当に授業を寝過ごし、同級生たちと適当に話を合わせる。勉強も人付き合いも決して苦手ではないけど乗り気でやるタイプでもない。テストで赤点を一度も取ったことなく、先生からすれば無難な生徒に見えたに違いない。2年次初めての進路相談で適当に就職だと答え、その嘘がバレるまであっさり退室を許可されたほどぱっとしなかった。
教師だけではない。朝霧萩也と訊けば、旅行好きで大人しい子だとクラスメイトもご近所のおばさんもそう口を揃えよう。
当の彼はというと、そんな評価に気を揉むどころか、むしろほっとすることだろう。
所詮人はみな、自分の見えるところまで見ない、見るのが面倒くさいのだ――好都合にも。
朝霧萩也は今、高二の夏休みを過ごしている。
先輩曰く、学生時代もっとも楽しい時期であると。
そして担任の先生曰く、だからもっとも事故に気をつけるべき時期でもあると。
言われるまでもない、萩也もそれを知っている。だから例の計画の実行を二年前に思いついてすぐではなく、この時まで待ったのだ。
窓の外で蝉が鳴き声を上げている。それまでザーザーとうるさく聞こえた雨の音は空が暗くなるにつれ遠くへと消え、ロックに暴れていた風もついぞ疲れ果てたように今や静かにワルツを楽しんでいる。
入り組んだ住宅団地にある一軒家、その二階の自室で萩也は明日の旅立ちにそなえ荷造りをしている。忘れ物がないよう、入念にメモと照会しながらリュックの中身をチェックする。
現地の地図、ガイドブック、観光パンフレット、グルメ情報誌、民宿のクーポン……
一泊用の着替え、歯磨きセット、二枚のタオル、携帯とその充電器、昨日購入した文庫本……
それから水筒、コンパス、万能ナイフ、チョコレートに多少の非常食……
おっと、絆創膏か包帯も欲しいところだ。
まだ朝霧家の就寝時間には程遠いが、萩也はそっと部屋のドアを開けて、忍び足で二階からリビングへ降りた。救急セットがそこにあると記憶しているから。
リビングに明かりはついているものの誰もいない。奥の台所からも人の姿はない。みんな自分の部屋にいるようだ。
楽しげに笑う声がした。
リビングから階段と廊下を挟んだそこは妹の部屋。電話で学校の友達とたいへん盛り上がっているのがドア越しに伝わってくる。
朝霧家は今、三人の兄妹が住んでいる。一番下の妹、朝霧葛葉は二つ下の中学三年生で長男の朝霧鈴白は家から少し距離のある進学校に通う高校三年生。そして次男の萩也は家から一番近い県立の高校に通っている。
両親はいずれも他界した。三年前、葛葉と鈴白がそれぞれに進学したお祝いに行った家族旅行の道中の不運な事故で。
その事故で兄妹三人はは生みの親をいっぺんに亡くしただけでなく、兄の鈴白は片方の目、妹の葛葉は両足の自由をなくした。ただ萩也だけ、あの日、熱で留守番していた萩也だけは五体満足だった。
その代わりに、永遠に癒されない自責という名の傷が幼い彼の心に残った。
なぜなら、彼が難を逃れたのは僥倖ではなく、あの歳ならではのコンプレックスから生まれたささいな反抗がもたらす役得だったから――要するに、あの時の朝霧萩也は仮病だったのだ。
朝霧家は一軒家を建てているが、決してセレブ階級に入れるほど裕福ではない。当主の父親はめったに仕事を休まず、母親も家事に子育ての傍らに週四日パートに勤しんだ。もちろんだからと言って、両親が子供を疎ましく思ったことは一度たりともなかった。夕食はたるべく五人揃ってからにして、三人の子に平等に話しかけ、悩みがあれば夜遅くまで相談に乗った。
それでも客観的事実として、子供たち三人でいる時間のほうが圧倒的に多かった。
長男の鈴白は、小学生の頃からずっと優等生だった。それもただ勉強ができるというわけではなく本当に頭がよく気も利いた。運動神経もよく、学校のバスケット部では常にリーダー的存在で、兄にならってバスケを始めた萩也にとって自慢の兄だ。
妹の葛葉は物怖じせず元気でアクティブな女の子。外にいる時は気を張って大人っぽく見せるのに対して家に帰ると途端に甘えてくる。この家を絶えずに笑う声で満たしたと言っても過言ではない。口下手を自覚している萩也にとっては見てるだけで胸がほのぼのするかわいい妹だ。
三人で遊んでいる時、いつも鈴白が遊び方を決め、萩也がそれに必要なルールを加え、葛葉がゲームを盛り上げる役と決まっている。外で走り回ろうか家で一つだけあるゲーム機を囲もうか、この構図は変わらない。進行、審判、仲裁――ある意味ゲームを外側から常に一歩引いて冷静に見なければならない自分の役割に萩也も不満を覚えなかった。ゲームや勝負に没頭するより、熱を上げる二人の兄妹を側で見守るほうがずっと楽しく思えた。
そうだったはずなのに、いつからか、どうしてかわからないけど。萩也は家族で食卓を囲んでいても、言い知れぬ疎外感を感じてしまうようになった。
そのことを萩也は誰にも相談できずにいた。告白した時点で家族を裏切ることになると勝手に思い込んでいた。声を殺して泣いた夜もあった。けれど幸いなことに、もともと同世代の子より大人しくて、落ち着いているからか、自分さえ今まで通り振舞っていれば誰も自分のほころびに気づかないことに萩也は気づいた。
それなら別に、あえてわざわざ自分から今の関係を壊さなくても。
そう思い直して、萩也は今まで通りに家族と過ごすことにした。今まで通りのつもりで、少しずつ家族から、自分も知らぬうちに距離を置きはじめた。
あの日、兄と妹のダブル進学を祝いに父が奮発してくれた家族旅行を、生まれて初めての仮病を使って遠慮したのも、そんな無意識な行動だった。
「薬飲んで寝ていれば勝手に直ると思うから気にしないで」「お土産?じゃあ新しい置き時計がいいかな、今使ってるの時々針が引っかかるんだ」「兄さん、葛葉のこと守ってあげてよ」「葛葉、ちゃんと鈴白兄ちゃんに困らせないでね」
家族一人一人に言葉をかける自分はむしろ格好よかった。
なのにあんな事故が起きて、両親が亡くなって、兄も妹は重症を負って、自分だけは無傷。
あの時、部屋の窓から、ちょっとポーズ取って神妙に家族を見送った自分がバカバカしくて、白々しくて、憎かった。まるで事故を予見して、自分だけ助かろうと仮病したという錯覚に萩也は次第に飲み込まれ、これ見よがしに被害者ぶって泣くことを自ら禁じた。
葬式の時、右目に眼帯をつけた兄と車椅子の中で泣き崩した妹の間に、次男の萩也は挟まれるように立たされた。両親を失った悲しみよりも、場違いの居心地悪さに打ちのめされそうになった。
その日、朝霧萩也は心に決めた。自分は罰を受けるべきだと。
それからすぐ、この二年間にわたる壮大な計画を立てた。
決行の日はついに明日まで迫っている。
失敗はできない、後戻りももう許されないのだ。
ようやく見つけた救急セットから絆創膏と包帯を手に入れ、萩也は今の自分を一瞬戦場へ赴くメディック兵に思えてきて、すぐにその馬鹿げた自己陶酔を頭から追い出すよう首を振った。
そう、自分がやろうとしたことは、決して褒められる崇高なものではない。信念やら使命やら、さらには責任や義務とすら言えない。ただのわがまま、自己満足、現実逃避でしかないのだ。
蓋を閉じ、救急セットをもとの場所に戻し、萩也は廊下のほうを振り返る。妹の部屋から相変わらず無邪気な笑い声が溢れてくる。
あの事故に遭ってからしばらくの間、葛葉はまるで難破した船に取り残されたかのようにどこまでも沈んでいきそうな暗い空気をまとっていた。そんな彼女を大きな渦を巻く海から取り戻したのは鈴白だ。長年続けてきたバスケ部を辞め、毎日学校まで葛葉の送り迎えをして、母の代わりに料理やお菓子作りに一生懸命がんばった。天気のいい週末は、まだ車椅子が恥ずかしくて外出を嫌がる葛葉をできる限り外へ連れ出した。
それで喧嘩になることも当然あった。一番ひどかったのは、ある月命日にあたる日曜日だった。どうしても仏壇の前から離れたくない葛葉を、鈴白はなかば無理やり外へ担ぎ出そうとした。車椅子が倒れ、床で叫ぶ、泣く、暴れる妹を鈴白は辛抱強く抱きしめていた。大好きな鈴白兄さんを葛葉はひたすら罵倒を浴びせた。髪をむしったり、腕に噛み付いたりもした。それが一時間続いても鈴白は妹を抱く手を緩めなかった。
やがて妹は葬式以来の号泣を上げ、それが昔の元気を取り戻すきっかけとなったことを、その日バイトで家にいなかった萩也はあとから鈴白に聞いた。
バイトは自分が、妹のことは兄が。
その選択が揺ぎ無く正しかったことが証明された出来事だった。
「……萩也?」
いつの間にか伏せた目をふたたび上げると、そこに兄の鈴白が立っていた。
「兄さん……」
両親の事故以来伸ばした前髪から見え隠れする白い眼帯は、自分の中に拭いえない罪悪感を映しているかのように、萩也は無意識にまた目を伏せる。
「なんだ、まだ明日の準備してんの?」
萩也が持つ絆創膏と包帯を指差す。
明日また山へ出かけることを萩也は夕食の時に伝えてある。それも計画に必要な手順だったから。
「うん、ずっと行きたがった山だから」
「へー、そうなんだ……」
「うん」
「……」
「……」
「……」
鈴白はまだ何か言いたげに階段の前から動こうとしない。
「じゃあ、おやすみ、兄さん」
いつもの自分ならこうしただろうと考え、萩也は兄の隣をぬけて階段をのぼる。
一歩、二歩、三歩……
「あっ、ちょっといい?」
四歩目を踏み出すや、後ろから鈴白が呼び止める。
「……なに?」
努めてゆっくり兄を振り返る。
見上げてくる鈴白はわざとらしく笑っている。右手は落ち着かなくて髪を触って、腰のうしろに当てた左手の指も小刻みにズボンを叩く。
「明日、さあ……オレもついてっていい?」
「……ついてくるって、えっと、山登りのこと?」
「そう、山登り。ダメかな?」
「ダメってことはないけど……」
「けど?」
「僕はそこで一泊する予定だよ、兄さんまでついてきたら葛葉はどうする?」
「葛葉は明日友達の家でお泊り会って言ってたから大丈夫だろ」
「あぁ、そう言えば」
「だからさ、オレも明日暇でさ、一人で家にいてもやることなくてな……いいだろ?」
計画に支障はないよね、としばらく頭の中で演算してから、萩也は「いいよ」と答えた。
「よしっ、そうこうなくちゃ!」
ガッツポーズをして、鈴白はすぐさま二段飛ばしで階段を駆け上がっていた。すれ違い様に「荷造り荷造り」と呟いているのがおかしくて、萩也はふと笑った。
ま、これくらい許してくれたっていいよな、もう最後なんだから。
兄の荷造りを手伝おうと、萩也も階段をのぼった。
「つかれた――」
部屋に入るなり、鈴白はうわずった声を上げて畳の上に倒れこむ。
「お疲れ」
続けて萩也が入り、後ろ手でふすまを閉める。
宿据えつきのポットからお茶を入れ、今にも寝てしまいそうな兄に差し出す。
「お、助かるぅ」
上半身を起こして鈴白はちょうどいい湯加減のお茶を声を立てているのを構わずに飲み干す。
空になったコップを回収、すかさずもう一杯お茶を入れ兄に渡したあと、萩也は自分にもお茶を入れ、この部屋ただ一つの窓を開けてそこの藤椅子に腰を下ろした。
「兄さんがこんなに体力が落ちているとはね。バスケ部を辞めても、家事とか大変だから、体力だけは昔通りかと思ったのに」
「ああ、オレもそう思ってたけどなぁ。いやー大自然は厳しい、山こわえー」
「ふふ」
まるで二年前の自分を見ているようで、萩也は笑った。
「あっ、お前、いま笑ったろ」
「いや、別に兄さんの不甲斐なさを笑ったわけじゃないよ」
「くぅぅぅ、余裕見せやがって」
しかし、やはり兄はすごいとも萩也は感心した。
今日登った山は決して初心者向きとは言えない。来る人来る人はまるで未開の土を踏みたいがためだけのために来たようなものだ。地元のパンフレットに観光地としてすら載っていない。そのせいかこの宿も辛うじて山に寄生しているように、見るからにかなりの年季が入っている。リニューアルどころか数年に一度の耐震補強の改修工事すら赤字覚悟で敢行しているかもしれない。
だから今日、ひょっとして兄は途中で音を上げるかもしれない。バスケの試合じゃ、どんな絶望的な状況でも諦めを知らない兄の珍しい醜態が見られるかもしれないと思ったのに、結局それが叶わず、萩也は今残念のようで誇りのような心境だ。
「――なあ、萩也」
立ち上がり、ふらつきながらも萩也の手前の藤椅子に座りなおした鈴白は、弟が眺めている外を風景へ同じように目をやる。
「お前、高校卒業したら、どうする」
「……就職する、かな」
「このご時世だ、高卒での就職は難しいぞ」
「じゃあ、兄さんは?」
「オレ?」
「そう」
「オレはぁ、就職だ。去年からそう決めてる」
「兄さんは大学に行くべきだよ、成績いいんだからもったいない」
「成績なんかより、お金のほうがもったいないさ」
今の朝霧家は両親の保険金で何とかまわしている。あれ以来萩也も部活を辞め、時間さえあればバイトにつぎ込んだけど、その金額は三人分の生活費をまかなえるには到底足りるはずもなかった。加えて学費も考えるとなおさらだ。
でも自分が就職できさえすれば。
「――国立の大学なら、払えるさ」
「じゃあお前が行け。金はオレが稼ごう」
「僕の成績じゃ国立に受からないよ。でも兄さんならきっと一発合格だ」
「……もう高三の夏だ、間に合わない」
「そんなことないよ、兄さんなら大丈夫、今からでも」
「……」
「お金のことは心配しなくていいよ。どこに就職したって今よりは確実に収入は増えるし、なんなら僕が高校を自主退学して――」
「中退はダメだ」
割り込むように発した鈴白の言葉は、とても穏やかだった。
思わず兄のほうを向く。声にこもらなかった力強さがその左目に凝縮されたかのように、萩也はすぐにまた目を逸らし、「……冗談だよ」と笑ってはまた窓の外へ向けさせた。
古くても小さくても宿は宿。遠いふもとにある町の明かりが絢爛に連なっているのが窓からよく見渡せる。喧騒はここまで届かない。変わりに夏の虫たちは姿を見せずともミンミンと鳴いているのがキレイに聞こえる。目に見えるものとの不一致、ただそれだけで風流だとは言えるものか。
その是非を定めるかのように、仲居が夕食のお呼びに来るまで黙ったまま外を眺め続けた。
想像以上に美味しかった夕食に気持ちよかったお風呂の後、二人が自分たちの部屋に戻った時、すでに布団が敷かれてあった。それ幸いと鈴白は疲れ切った体を布団の上に倒した。
本当ならまだ寝る時間には程遠い。
もっといえば今日くらい寝なくてもいいと萩也は考えている。
もう寝てしまったかのように動かない鈴白を見て、結局は萩也は部屋の電気を消すことにした。
「――覚えてるか、お前が中学生になったあの頃」
天井から垂らされる紐に手を伸ばしたところ、地の底から這い上がるような低い声がした。
「ほら、お前がバスケ部に入ったばかりの頃だよ」
声のひどさに自分でもびっくりした鈴白は、軽く喉をならし、けれど布団から起き上がる様子を見せずに寝たまま言葉を続ける。
「オレは二年生になってやっとベンチに座らせてもらったけど。新一年生のお前は小学五年生の時からぜんぜん伸びてない身長のことを監督に言われ、フォワードからなかば強制的にガードへコンバートさせられただろ」
「そうだったね、もちろん覚えているよ」
小学校に続いて中学も兄と同じ学校に入った萩也は、もちろん同じバスケ部にも入った。今も年々身長を順調に伸ばしている鈴白と違って、萩也は高校に上がるまでずっと伸び悩んでいた。もしかしてすでに打ちとめではないかと疑ったこともあった。バスケにおいて身長はとても重要である。小学生の頃はあるいはそれほど差はないにしても、中学生には無視できないファクターになった。
フォワードからガードへのポジションチェンジは結果として萩也に早めのレギュラー入りを果たしたが、その過程は容易ではなかった。今までと違ったプレイスタイルを新たに身にしみさせるには膨大な時間と研究と、練習が必要だった。
いろいろ苦労した時期だったが、一番楽しい時期でもあった。
「あの年の誕生日、葛葉はお前にリストバンドを贈っただろ、毎日練習で汗だくだからって」
「ああ、あれね」
萩也は窓際の席に腰を下ろし、バスケをやめてからすっかり使わなくなった紺色のリストバンドを思い出す。ちょうどこの夜空と同じ色だ。
「そう、紺色の生地にはっぱが一枚ついたあれだ。今だから言うけど、オレ、あれがすっごく欲しかった。あの後バレないようにいろんなスポーツ用品店を探し回ってたけど見つからなかった。そんでお前がすっげい羨ましかった」
「羨ましい?なんで?」
同じその年に、鈴白は葛葉からスポーツタオルもらったのを萩也は覚えている。むしろ僕は兄さんが羨ましかったと言ったら、鈴白は「ちがうちがう」と笑い飛ばした。
「お前わかってねいな。ポイントはリストバンドそのものじゃなくて、あのはっぱ模様だ」
あの頃は何とも思わなかったけど、改めて言われるとなるほどわからないこともない気がした。
「そう。葛葉の『葉』が模様についてるものを、オレは一つももらってないんだ、今もね」
「え、そうなの?」
「ああ、たぶん葛葉もそんなこと覚えてないんだろうよ」
ありふれた模様のはずなのに、と萩也は不思議につぶやく。
「――オレ、あの年に初めて知った」
「なにを?」
「オレの名前『すずしろ』ってさ、字は違うけど、春の七草の一つなんだよね」
「へー」
萩也は知らなかった。けれど母の名前「すみれ」も花だというのを考えると納得もする。葛葉はもちろん、自分の「萩」も植物だというのは知っている。
「で、お前の『萩』と葛葉の『葛』は秋の七草なんだ」
「あ、そっか、僕と葛葉は秋生まれで、兄さんは春生まれだもんな」
「そう、なんだか自分だけ仲間はずれって感じでさ、随分としょぼくれてた」
まさか兄さんの口からしょぼくれてたなんて告白を聞くとは想像もしなかった。いつも勝気で格好良く先頭で闊歩するような兄さんが、一人部屋に帰るとベッドの上で丸くなっていたなんて。
「ふふ」
「あっ、笑うなよ、オレも子供たったんだから!」
それから二人は次々とエピソードを引っ張り出していた。楽しかったこと、おかしかったこと、当たり前だったこと、幸せだと知らずもったいなかった日々のこと。やがて鈴白の声がどんどん小さくなり、変わりに寝息が聞こえてくるようになっても、萩也は布団に入ろうともせず、兄さんの寝顔をただ穏やかに見つめる。
兄は何を思って今回にかぎって同行を申し出たのか、萩也にはわからない。血を分けた兄弟だから無意識に何かに勘付いたか、それとも神様のお情けだったか。
もしこれが神様の気まぐれだったら、萩也は少しだけ、1ミリ程度なら神様に感謝してもいいと思った。自分をこんな人間に仕上げ、朝霧家にあんな不幸を背負わせても、最後にこんなすばらしい一日を送ることができたのだから。
音を立てないようそっと、萩也は起き上がる。
自分のリュックから一冊の文庫本を取り出す。窓をちょっと開く。雲の間から覗く中途半端な形の月を見上げる。表紙をなでる。腰をおろす。本を開く。目を凝らす。読む。ちょっと笑う。ページをめくる。また目を凝らす。読む。ちょっと感心する。読み終わったら最初のページに戻ってもう一度読む。
やがて空の青が薄くなって、萩也はその本を閉じた。
葬式が始まる二時間前、朝霧葛葉はすでに式場にいた。
あと半年もすればこの制服ともさようならするのに、まさかまたこれを着て葬式に出るとは思わなかった。そのせいで今朝着替えていた時、不謹慎にも一瞬笑ってしまった。
葬式は前のと同じ会場を借りて行われることになった。仏壇の設計、棺桶の型、進行スケジュールや天気までもが、二年前のとそっくりだから、先日、業者の方から葬儀の進行の説明を受けた時、もしかして自分は二年前の夢を見ているのではないかと錯覚した。
はっきり違っていたこともある。
二年前の葛葉は車椅子に慣れず、何から何まで同級生の女友達の手を借りていた。それが二年後の今では、お手洗いも着替えも、時間こそかかるが、ちゃんと一人でできるようになった。車椅子を動かすコツも掴めた。だから一人ででも家から会場まで来れた。
目の前に飾られた兄は小さな枠の中で笑っている。これはまだ中学生で、学校のバスケット部にいた頃の、一番元気で格好よかった兄の顔だった。
毎日毎日バスケのことしか頭になくて、汗だくになって帰ってきた兄に汗臭いって言ってもまったく気にしてくれなかった。でもその甲斐あって、試合に出してもらえるようになってからの兄はコードにいる誰よりも速く、誰よりも高く、誰よりも輝いていた。
そんな兄を喉がつぶれるくらい声を上げて応援していたらこっちまで汗びしょになったことは何度もあった。それで試合が終わって、兄に汗臭いと指摘されても、今度はこっちから「お陰で勝ったんでしょう」と言い返してやった。この不毛な言い合いは家に着くまで続くこともあった。お互い興奮して、一緒に見に行った母に注意されることもあった。それでも家に着いたら、必ずお風呂を先に入らせてくれた。
しかし、写真立ての中におさまった兄はもう何も言ってくれない。
その制服似合ってるねかわいいね、とか。赤点一つも取らなかったのかえらいな、とか。今度の練習試合先発で出るんだ、とか。ゲームに付き合って、とか。
兄がしゃべれなくなったって、じゃあわたしがしゃべって聞かせる。
そう思って早くに来たのに、いざ兄を目の前にすると、用意してきた言葉がどうしても出て来ない。かろうじて搾り出した二三の言葉も、結局この無駄に大きい会場に溶けてなくなるばかり。
わたし、どうしてこんなに早く来ちゃったんだろ。
いつしか葛葉の頭の中は、そればかり堂々巡りするようになった。
静まり返る会場に、ドアが開く音が反響する。
「……ここにいたのか、葛葉」
「……」
体がこわばる。呼びかけに振り返らない。
かつ、かつ、と足音が近づいてくる。無駄に大きい会場内を響く革靴の音は無遠慮に飛び交う。抑えようにも抑えられない。
少しずつ大きくなる音は、やがてぴたっと止んだ。もうすぐ後ろに来た。
意を決して、葛葉は車椅子を回転して相手の目を正面から捉え、言った。
「――今日を最後に、もう私はあなたのことを兄とは思わない」
「……」
「金輪際、私に話しかけないでください!」
「……」
耳鳴りを起こさんとする大きな声は、震えていた。
しかし彼女の目にもう涙はなかった。まっすぐ、相手の射抜く強い意志にだけ満たされた。
もうこれ以上、言葉はいらない。必要ない。
彼女にとっても、自分にとっても。
朝霧萩也は深々と頭を下げて、出て行った。
三年生になってから、朝霧萩也は教師陣の中で一目置かれるようになった。
それまで成績は起伏の少ない横線を描いて目立たなかったが、三年に上がってから――いや、おそらく二年次の三学期からすでに右肩上がりの傾向を示した。あと数ヶ月もあれば学年トップを取るよも知れん勢いだ。
それと見るや担任は萩也を呼び出し改めて進路を聞いた。はっきり就職だと答えた彼を、担任の先生はたっぷり時間をかけて説得を試みたが、ついに萩也の決意を揺らすこと叶わなかった。
比べてクラスメイトの目に映る萩也のイメージはそれほど変わらなかった。むしろ以前より無口で影が薄くなった。
兄の鈴白があの日、自分の代わりに崖から落ちて死んだあと、朝霧家はその生命保険でしばらくの間家計は安泰だ。兄が自分と同じ、両親の事故のあとすぐに自分に生命保険をかけたのをその時初めて知った。それでも萩也はアルバイトを増やした。平日休日祝祭日お構いなく、毎日夜遅くまで家に帰らなかった。そのことを誰も咎めなかった、というより朝霧家にもうそれを咎めてくれる人は一人もいなくなった。
葛葉は隣町の女子高に受かって、春から寮生活を始めた。
あの日以来すっかり口を利いてくれなくなった葛葉だが、ある日無言でその女子高の入学案内をリビングの食卓に置いた。偏差値の高いお嬢様学校だ。学費は当然萩也が通う公立と比べて桁違いだが、萩也はそれに難色を示すことなく、翌日に学費を全額一括で振り込んだ――鈴白が残した保険金の不足分に、自分がバイトで貯めていたお金を足して。
葛葉が学生寮へ引越しの際、萩也は率先して荷物を運ぶ役を買って出た。そうでもしなければ、葛葉は無理に一人で運ぼうとするだろうと思った。それに対して葛葉は、萩也に礼を言うどころか、勝手に触らないでと文句すら言わなかった。タクシーに乗り込んだ葛葉は、一度も振り向かずに去っていった。
これは、もう卒業するまでこの家には帰って来ないのだと、萩也は悟った。
かと言って、卒業したら帰ってくるのかというと、萩也は分からなかった。
あの日、事故死を覚悟した萩也は、朝の霧に呑まれ、何も見えない崖の下を覗いていたら怖気づいてしまった。その一瞬のためらいだと感じた長い時間のせいで、自分を探しに来た鈴白に気づかず、兄の目の前で崖から飛び込む羽目になり、兄に引き戻され、代わり兄が崖から転落してしまった。
ああ、どうして僕はあの朝、事故に見せかける工作にメモを残したんだ。どうしてあの時になって足がすくんだんだ。どうして追ってきた兄さんの足音に気づかなかったんだ。そもそもどうして、こんな大事な計画に兄の同伴を許したんだ。
どうして、どうして、どうして……口に出せない幾百の「どうして」についぞ誰も答えてはくれなかった。ただ兄を死なせたという結果だけが目の前に呈された。こんな残虐な手札を切ってくる神に、一度でも感謝した自分の浅はかさに萩也は悶え死んでしまいそうだった。
でも、もう死んではならない。
二年前の時とは違う、葛葉をこのまま一人に残して死ぬなんて許されない。
兄さんがそれを許すはずがない。
朝霧萩也の死に方に、もはや生き続けること以外の選択肢を許されない。
ほかに誰もいなくなった朝霧家で、萩也はこれからも行き続けなければならない。
外食に逃げず、どんなにバイトが忙しくても自分だけの食事を一日に三回きちんと作る。週一回に家中の大掃除を欠かさない。勉強もおろそかにするわけにはいかない。人付き合いを避けてはいけない、かと言って楽しんでもいけない。
こんなことがあった。
三年次一学期が終わる直前、萩也の机に一通の手紙が入れられた。
差出人は同じクラスの女子生徒。ほとんどの女の子にとって高校生でいる間はお洒落や化粧するのが一番楽しい時期なのに、この子だけずっと地味で大人しいまま三年生になった。けれどその慎ましさは男子の間では評判を呼び、密かに人気があった。
手紙は萩也が三年になって急速に成長したことを綴った。授業をまじめに受けたこと、成績が上がっても驕らないこと、雰囲気が大人っぽくなったこと、身長が伸びて格好よくなったこと――そして最後には放課後、学校の裏庭で待っている、と。
手紙をくれた彼女のことを、実のところ萩也も二年生の時からちょっとかわいいと思った。授業中、居眠りのふりをしてよく彼女の横顔やうなじをぼんやり眺めていたりした。特に髪を小指でかき上げ耳の後ろに整える仕草にいつもドギっとさせられた。
その日の放課後、萩也は裏庭に行った。
彼女が先に来ていた。
萩也が来るのを見るや、恥ずかしそうに頬を染め、笑った。かわいらしい控えめの微笑みだった。
手紙を読んでくれた?、と口を開こうとする彼女より先に、ごめんなさい、と萩也は言った。
今日この手紙をもらうまで、貴女が今年も同じくクラスにいることを知らなかった自分に、貴女と付き合う資格はない、と続くと、この言葉を言葉通りに受け取れず、地味すぎてまったく興味を持てなかったと勝手に察した彼女は、けな気にももう一度笑顔を見せ、そのまま振り返ることなく小走りに去った。
萩也は思う。きっとこの誤解が解かれることはないだろう、と。
もし怨まれることになっても、そのまま怨まれていよう、と。
そして、また夏がやってきた。
もう登山を趣味に偽る必要がなくなった萩也は、当然夏休みの時間を全てバイトにつぎ込んだ。
朝イチは郵便局へ出頭、お昼は宅配業者か大工さんのお手伝い。夕方は一旦家に戻って夕食し、日が暮れてからは工事現場周辺の交通整理にまた家を出る。重労働ばかりだが、山登りと比べたらまだ楽だった。
その日、いつも通り夜十時を過ぎて家に着いた萩也の目に、見慣れた靴が一足きちんと玄関にそろえてあるのが映り込む。大人サイズで女性用にしても靴紐ではなくマジックテープという子供向き仕様のスニーカー。それも、底のゴムだけやけに新品同様の状態をたもっている。
息を吸うのも忘れて、萩也はリュックをしょったままスニーカーの持ち主の部屋へ急いだ。
ドアは閉まってなく、少し開いた口から電気の明かりが溢れてくる。その隙間から彼女の姿がうかがえた。
はやる気持ちを抑え、萩也は半開きのドアをノックした。
「……葛葉?」
軽く叩いたつもりだが、久しぶりに主を迎えたドアはノックの力を受け、ギシギシと喜びのファンファーレをあげる。
「……」
車椅子に見覚えのない私服を身にまとう葛葉は、学習机の前でなにやら折り紙をしっている。萩也のノックにも声にもまったく反応を示さないその様子は、春先、彼女がこの家から出て行く姿を思い出させる。
「はぁ……」
止まっていた息を静かに吐き出す。
このままここにいてもらちが明かないと思って、ひとまず部屋に戻ってリュックをおろそう。そう思って離れようとした途端、かかとにかすかな違和感を覚えた。目をやると、さっきまで何もなかったそこに紙飛行機が落ちていた。
妹を見る。
やはり机に向き合っている、たださっきと違って今は雑誌を読んでいる。
とりあえず紙飛行機を拾おうと腰を曲げたら、機体のあっちこっちから印刷された文字が目に飛び込む。拾って慎重にばらして見てみる。どうやら学校から配られたプリントのようだ。
もう一度葛葉のほうを見る。一分前とまったく同じ姿勢のようだ。
読め、ということだろうか。
萩也はその場でプリントの最初から最後まで、一字一句丁寧に読んでいく。
夏休中の注意事項と題されたこれと似たようなプリントを萩也も自分が通う学校からもらった。内容も途中までさほど変わらない。ただ最後の項目に「学生寮の利用について」と書かれた部分があり、それがそのまま葛葉が帰ってきた理由だった。
「……ありがとう」
つぶやくように萩也は言う。
これから夏休みが終わるまで、葛葉のご飯も用意しないと。リビングへ向かう萩也の足取りはまったく疲れを感じない軽やかなものだった。
葛葉が帰ってきてから、萩也は少しだけバイトの時間を減らした。
適当だった食事を栄養バランスのいい献立に変え、リビングやトイレの掃除をこまめした。葛葉はほとんどの時間自分の部屋で過ごすが、晴れた日は決まって一時間くらい外へ買い物に行ったり近所を散策したりする。そのたび萩也は妹に付き添った。もちろん、二人の間に会話などあるはずもなかった。
夜は安全を考慮してバイトしないことにしたが、それでも助っ人で呼ばれたりした。そんな日は手ごろにチャーハンなどを作り置きにして、それを入れた冷蔵庫に付箋を貼る。
初めてそうした日、帰宅したら冷蔵庫にチャーハンもメモもちゃんとなくなっていることに、萩也はとてつもなく嬉しくて夜遅くまで眠れなかった。こんな形ははたから見てけっして健全とは言えない、それでもコミュニケーションが取れたってだけで萩也は大いに満足した。興奮のあまり翌日も、本当は夜にバイトなんか入っていないけど、昨日と同じ冷蔵庫に夕食とメモを残して近所を何時間もぶらぶらしてしまった。
そんなことが断続的に繰り返されたある土曜日の朝、自分の部屋を出た萩也はドアの腰くらい低い位置に付箋が貼られているのを見てはっとした。
――明日、友達三人遊びに来る。
驚きのあまり、そこに書いてある短い一言を何度も目をこらして読み直しては、大事にシャツの胸ポケットに入れた。それからすぐ、萩也は自分の部屋に駆け戻り携帯電話を乱暴に掴んで、クビ覚悟で今日と明日のバイトをすべてキャンセルした。
とにかく家中をこまなく掃除しよう。洗濯物は乾燥機に入れて一気に片付けよう。トイレに消臭スプレーをかけよう。客用のコップと食器、スリッパを出しておこう。念のため使い捨ての紙コップも探してみよう。ケーキはあの店で買おう。飲み物に何がいいかわからないから、麦茶ジュース炭酸全部揃えよう。昼食は男の自分がいると気構えるから四人分だけ用意して自分は外で済まそう。夕食の時間までいないかもしれないがとりあえず五人分の食材だけは買い足そう。
そうだ、友達と出かけたりするかもしれない、葛葉のお小遣いで足りるだろうか。そう思ってドア下の隙間からお金の入った封筒を妹の部屋へ差し込んだ時はすでに月が笑っていた。
翌朝、久しぶりに客人を招きいれることになった朝霧家は、眩しい夏の日差しをいっぱいに受けていつもより明るく感じた。
朝食を食べている時から萩也は落ち着かなくて、まだ誰も鳴らしてないのについつい玄関のほうを振り向いてしまい、テーブルの向かいでいつものように黙々と食パンをかじる葛葉にほんの一瞬睨まれた。
朝食後、葛葉はすぐに自分の部屋に戻った。萩也は食器をかたづけに台所へ入った。
まだかな、まだかな、と緊張するあまり、食器を全部洗ったら今度は客人用の食器を手にとる。
永遠に続くかと思われた作業を、ついに鳴り出した玄関のチャイムによって打ち切られた。
濡れた手を拭く間、葛葉の車椅子の走行音が聞こえた。エプロンを脱ぎ捨てる間、玄関のドアが開く音が聞こえた。慌てて萩也が玄関へ向かった時、そこにはすでに知らない三人の女の子がいた。
「おはよー」
「一週間ぶり」
「お邪魔しまーす」
「おはよう、待ってたよ。さ、上がって」
手振りをまじった黄色い挨拶そこそこ、四人の女の子はあっという間に輪を作った。
半年ぶりに聞いた妹の声に嬉しい戸惑いを感じ、客人へ挨拶するタイミングを逃した萩也は、いっそうこのままそっと自分の部屋へ退散しようと考えはじめたところ、その三人のうちの一人、モデルのようにスラっと細身の子がちょこっと輪から頭を出してこっちを向いた。
「あっ、くーちゃんのお兄さんですね。はじめまして、お噂はかねがね」
「えっ」
「はじめまして」
「お邪魔しまーす」
続けざまあとの二人もぺこっとお辞儀をする。
「あ、いいえ、こちらこそ。いつも妹がお世話になっています」
自分の存在が妹によってすでに知らされたことに、萩也は耳を疑いたくなった。いや、家に招くわけだから邪魔な兄がいるってだけ言っておいただろう。そうだ、そうに違いない。
「お、お茶入れてくるね、あとで葛葉の部屋に持って行くから」
「……(ひそひそ)ふふ、くーちゃんから聞いた通りだね」
「……(ひそひそ)うんうん、素敵なお兄ちゃん」
「え?」
「いえいえ、何でもないでーす。ありがとうございまーす」
幻聴に戸惑いながら萩也はリビングへ戻る。
台所に入ってお茶を入れる間、「広い家だね」「キレイ」「羨ましいなー」と葛葉の友達三人が朝霧家をもの珍しげに見学して回った。二階にも興味があるらしく、階段を上り下りする複数の足音がこの家を賑わす。
やがて萩也が4人分のお茶にケーキも切り分けたころ、彼女たちはすでに葛葉の部屋に集まった。
ドア越しに漏れ聞こえる声はいつまで待っても途切れる気配を感じず、萩也は息を飲んでドアにノックした。
「はーい」
足が不便な葛葉のかわりに、例の細身の子がドアを開けた。
部屋に入った瞬間、友達と楽しくじゃれ合う葛葉の笑顔が半年ぶりに目に入り、思わず視覚以外の身体機能がフレーズしてしまった。けれど萩也に気づいた葛葉は、すぐさまいつもの不機嫌な顔に戻り、あからさまに明日の方向へ顔を向けた。
「……お兄さん?」
「あ、いえ……すみません、何でもない」
現実に引き戻された萩也は、女の子が囲むちゃぶ台にお茶とケーキを並べはじめる。
「えっと、駅前の店でケーキを買ったんだ。よかったらみなさんでどうぞ」
そしたら「うわ美味しそー」「ありがとうございまーす」とみんな口々に歓声を上げる。
友達の前でならもしかして葛葉も礼くらい言ってくれるのではないか。ズルいとは思いながらもついつい葛葉のことを盗み見てしまった。しかし、結局「僕はこれからちょっと買い物に行って来る」と空になったトレイを持って退室するまで、葛葉からは目も合わせくれなかった。
買い物と言ったのはもちろん嘘、方便だ。ただ葛葉やそのお友達が気兼ねすることなく楽しんでいってくれればと思う。そのために男の自分はいないほうがいいと判断した。
念のためもう一度台所を見回る。見やすいところに飲み物とお菓子を置いた。冷蔵庫に料理の作り置きとその旨を書いたメモもちゃんと貼った。いざの時連絡できるよう、携帯のバッテリーも十分充電してあるのをもう一度確認して、萩也は家を出る。
玄関を開けたところで、萩也は自分はどこへ行けばいいかまったく考えていなかったことにようやく気づき、笑った。
兄さんの墓参りにでも行こうかな。
――と足を踏み出したその時。
「あ、ちょっと待ってお兄さん!」
家の中から、葛葉の友達、あの細身の女の子が玄関へ走ってきた。
どうしたの、と萩也が声をかけるより早く、その子は玄関で自分の靴に履き替え、ドアのこっち側、つまり家の外まで出てきた。
「あのね、お兄さん。くーちゃんはお兄さんのこと大好きなんだよ」
「……はい?」
いきなり何を言われたか聞き取れず、敬語で聞き返してしまった。
「だからぁ」
もどかしそうに彼女は語尾を延ばし、ため息をつく。
「さっき、くーちゃん、お兄さんに冷たく当たってたでしょ?あたしお二人の様子を見て思ったんだけど、もしかしてくーちゃん、普段からそんな感じでお兄さんにツンツンしてるんじゃないかって」
見事に正解だ、とは言えず口を半開きに固まる萩也の心を正確に読み取ったかごとく彼女は続く。
「でも本当はね、あれはくーちゃんの照れ隠しだから」
「……てれ、かくし?」
「そう、照れ隠し。くーちゃん、お兄さんのこと大好きのはずだから」
「……」
「あ、それ信じてない顔だね」
そりゃ信じられないよ、とまた言えずに萩也は苦笑いを浮かべる。
だからといって彼女も簡単に引き下がらず、一度肩をすくめてから「本当は言わないでって言われたけど」とためらう様子もなく言い出す。
「くーちゃんはね、お兄さんのことすぐ自慢してましたよ。自分と違って勉強ができるとか、バスケやってる時はすっごい格好いいとか、あと料理も美味しいし家事も上手。どこの漫画にそんな完璧なお兄さんがいるんだーっていつもみんな笑ってた。ホント、耳にタコができるくらい聞かされてたわ……ああいや、別にだからってうっとおしいだなんて思ったこと一度もないからね。と、とにかく、くーちゃんがこーんなにお兄さんのことが大好きなんだよってわかって欲しいわけ、いい?」
「はぁ……」
あの葛葉が学校ではそんな風に自分のことを言っていたなんて、やはり萩也には信じられない。目の前の彼女が初対面の自分にこんな嘘をつくのと同じくらい信じられない。
しかし頭とは別に、心はそれを信じたいと訴えかけてくる。頬の筋肉は自分のコントロールから逸脱したように勝手に溶けていくを萩也は感じた。その些細な変化を見逃さず、彼女は「うんうん」と満足げに頷き、身軽にかかとを返す。
「じゃあ、あたしそろそろ戻るね」
ドアをそっと開き、軽やかなステップを踏むようにしてその隙間から家に入る。
「――頑張ってね、スズシロ兄ちゃん」
取り残された人をあざ笑うかのように、ドアはギシギシ音を立てて閉まった。