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雨は私ばかりを穿つ

作者: 稲見晶

 目覚めたときにはもう天気を知っていた。絶えまなく降りつづく水の音。カーテンを開けると黒っぽく濡れた町がガラス越しにひずんで見える。


 ローテーブルに朝食を用意してテレビをつける。髪を茶色く染めた女性アナウンサーが日本地図の前に立っていた。

 単純に描かれた地図上に太陽のマークが散在する。

──今日は全国的に晴れ。絶好の洗濯日和となりそうです──

 じわりと苦いコーヒーをすすりながら窓の外に目をやった。景色は変わらず鉛色をしていた。


 のりのきいたシャツに着替える。携帯端末を片手に窓を開ける。ひんやりした空気。風が弱かったために雨が吹きこむことはなかった。

 カメラ機能を起動させる。水がかからないように空にかざす。四角い画面は雲ひとつない本当の世界をレンズ越しに私に伝えた。


 大きな黒い蝙蝠を頭上に広げて職場までの道を歩く。雨の跳ね返りの音がこもって届く。

 すれ違う人はみな奇異の目を一瞬私にむけてから去った。

 慣れている。

 蝙蝠がつくる直径一メートル余の空間は私の領分だ。周波数のあわないラジオのような音。その中心で記憶の淵に思いを馳せた。


 いつから偽の雨を感じるようになったのかは覚えていない。それが偽物だと気付いたのはいつなのかも。

 遠い昔に雨具を持たずに出たことがある。どうせ幻なのだからと服が貼りつく気持ち悪さをこらえてなんでもないように装った。人とは違う感覚をいだくことを恐れていた。

 翌日にはものの見事に風邪を引いた。高熱と全身のだるさに苛まれてすっかりと懲りた。

 天気予報がどうあれ雨が降っていると私が判断したときには相応の備えをすべきだと。


 職場が近づく。見知った顔が道のうえに現れる。

「おはよう」

「おはようございます」

 蝙蝠を傾げて挨拶をする。問われたときには「日焼けがいやで」と嘘をつくことも覚えた。

 彼はそれ以上なにも言わずに私を追い抜いた。私にしか見えない水たまりを踏んで波紋を作っていった。


 玄関口で蝙蝠をたたんだ。コンクリートの床にぽたぽたと斑点をえがく。できるだけ周囲の目を引かないように水を落とす。

 屋内に入ってしまえば普通に振る舞える。時折仕事の手を止めて外に耳を傾けることがあったとしても。


 夕刻になっても雨は降りつづいていた。同僚たちはなにを気にすることもなく体や鞄を外気にむき出している。私は窓辺に立って人が途切れるのを待った。


 厚い雲の幻覚のせいで黄昏時は私にとっていっそう暗い。蝙蝠をかかげて周囲に気を払う。ドライバーの多くはまだヘッドライトを点けない。

 住宅街の狭い道路。向こうからエンジン音を立てて乗用車が来た。いやな予感は未来予知とも呼べる精度で的中した。

 無遠慮な水しぶきが左脚をぐっしょりと濡らす。腹を立てるつもりはない。ドライバーにはこの天候は見えていないのだから。ただやるせなさばかりが浸みこむ。


 玄関で靴下まで脱いだ。ぺたりぺたりと洗面所に歩く。重くなった衣服も洗濯機に放りこむ。

 下着姿で電気ケトルのスイッチを押す。インスタントコーヒーの粉末をカップに注ぐ。湯が沸くまでのあいだにかわいたシャツを羽織った。

 

 コーヒーで体が温まるころには気分も落ちついていた。外はもうすっかり暗い。

 カップをテーブルに置いてひざをかかえた。カーテンを閉めても雨音は遠く聞こえる。頭のなかがやわらかな砂で洗われる。


 ぱちんと音がするように目が覚めた。卵の殻の中にいるような姿勢で眠っていた。

 時計を見ればもう真夜中近い。外の音は夢の残滓のように続いている。

 空腹が呼び覚まされたものの今さら料理をする気も起きない。

 冷めきったコーヒーで買い置きのビスケットを流しこむ。この時間にカフェインをとると眠れなくなるかもしれない。ふと思ったがなるようになれと首をふった。

 やはり雨は好きになれない。


 夏が近づくにつれて幻覚の蒸し暑さも増していく。そこまで真に迫る必要はないと自分の脳に文句をつけながら平日の日暮れを歩いた。

 せめて涼しげな天気にしてくれればすこしは気晴らしになるものを。

 汗と雨とがじっとりと衣服を濡らす。水中のような息苦しささえ感じる。体からの蒸気が頭上に渦巻いて溜まるのが見えるようだ。


 足を速める気力すらなく肩を落としてのろのろと歩いていた。ひからびた姿のまま雨に打たれるミミズ。避けようと道のはしに寄る。蝙蝠がブロック塀を引っかいてがりがりと嫌な感触がした。慌てて腕を上げると雨水が鞄に注がれた。

 深く深くため息をつく。足はすっかり止まっていた。雨は朝から少しも衰えない。心をからにして再び歩くこととした。


 蔦に覆われた建物。タバコの吸い殻が隙間なく詰め込まれた空き缶。何十年も前に廃業したスナックの落書きだらけのシャッター。朝に回収を拒まれたごみの饐えた臭い。

 感じてしまえば気が滅入るばかりだ。なにも見ずにただ前へ進めばいい。

 口を開けてあえぐように息継ぎをする。


 とうの昔に店主を失った酒屋。その軒下に気配を感じて考えるより先に目をむけていた。

 ぼんやりと中空を眺めながら雨やみを待つひとがいた。濡れた黒髪がその面立ちを細く見せた。

 雨燕という単語がなんとはなしに思い浮かんだ。


 朝から降っていたというのになぜあんなところで雨宿りを。疑問が歩みと同時に酒屋の前をよぎった。

 ぬらぬらした赤い自販機の近くで「あ」と声が出た。

 朝は快晴だ。傘など持っているはずはない。これは私の錯覚に過ぎないのだから。

 それなら夕立。鞄に手を入れて濡れた携帯端末を取り出す。幾許か祈りをこめてカメラを起動させた。防水性能のないこれは現実の水にはすこぶる弱い。

 

 端末は何事もなく動いた。地面に向いたカメラは白く粉を吹くような乾いたアスファルトを画面に映しだした。


 来た道を振りかえる。細かな雨滴は蝙蝠でも防ぎきれずにしんしんと肩を濡らした。足を踏みだすと小さくしぶきが跳ねた。


 雨燕はまだ潰れた酒屋の前にいた。立ち止まる私に気付いて瞳を動かした。大きくて澄んでいた。

 この目が私と同じ空を見ている。蝙蝠を握る手に力をこめた。

 雨燕は不審も怯えも見せずにただ不思議そうだった。

 もしかしたらその目には厚い雲など映っていないのかもしれない。ただ晴れた日に人を待っているだけなのかもしれない。

 雨燕のあまりにも自然な佇まいは私の胸中を翳らせた。

 たとえそうだとしても私を見つめる瞳はやはり痛いほどに胸を刺す。

 直観を信じて行動するほかに道は残されていなかった。


 開いたままの蝙蝠を上げる。雨燕をまっすぐに見て差しだす。

 ごく当たり前のしぐさで雨燕はそれを受けとった。

 細い指が蝙蝠の取っ手を握るのを確かめるや否や私は踵をかえして駆けた。

 

 雨が見る間に私の全身を濡らした。髪からは際限なく雫が滴った。

 息が上がって道ばたに立ち尽くす。

 心臓は燃えるように高鳴っていた。

 両手で顔をおおって背を丸める。笑みがこぼれる。咽び泣きにも似た声が漏れる。

 ようやくわかった。

 私が孤独に雨に打たれつづけなければならなかった理由。すべては雨燕の恵みのために。


 地をたたく水音はすっかり私の耳に染み着いている。鈍色の空をあおぐと目元から頬へ一筋の天水が流れた。

 暗雲は太陽を隠して体を凍えさせる。この冷たさに晒されるのは雨燕であってはならない。


 玄関扉を入った後も私は着替えもせずにぼうっとしていた。記憶は焼き印のように心臓に焦げついている。心身のなかでそこだけがまぶしく乾いていた。


 数日のあいだ高熱とともに床に伏せっていた。

 久しぶりに見る空は青かった。晴朗はこれほどに頭上に遠い色をしている。

 すっかりと夏の日ざし。ちりちりと肌を焼く。背に汗がにじみ出るのが感じられた。

 通りすがりに見かけた自販機には売り切れを示す赤いランプがいくつも光っていた。

 

 日陰をたどって進む。陽光は地面に照り返しながらほとばしる。

 不意に青空にあいた穴を見た。白く乾いた地面にも。

 その中心には雨燕。細い体には不釣り合いなほどの大きな黒い蝙蝠を頭上に広げて道を歩く。分厚いゴムの長靴まで履いている。

 ちらほらとすれ違う人の視線もまるきり意に介していない。心棒を軽く肩にかけて軽やかな足取り。


 雨燕のみずみずしい瞳が気まぐれのように私をとらえた。無邪気に笑って蝙蝠をくるくると回す。きっとその先端から滴が舞った。

 一瞬の真剣な表情で雨燕は足を踏みだした。幾重にも波紋が響きあう水たまり。私の知らないところでちゃぷりと歌った。

 西瓜のような土のような雨の匂いを鼻の奥に感じた。

 そっと上にむけてみた手のひら。青空の滴りがひとしずくだけ落ちてきた。

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