化物の具現
とあるモンスターの話を聞いたことがある。
機関銃の弾が通らない程頑丈な皮膚を持ち、
毒や薬の類がまるで効かない強靭な肉体を持つと言われていた。
その腕の一振りはレベル4のアサルターぐらいなら即死させると言われ、皆、一人で遭遇したらまず生きて帰ることは諦めろと口を揃えて言っていた。
それも全てゲーム内での話だ。
俺がそいつに出会うのはこれが初めての経験だった。
形態的に虎や獅子の類を十メートルクラスまで肥大化させた生物とでも言うべきか。
灰色の体毛で身を包み、頭部には立派な赤い角を生やしている。
俺が出会ってきた生物のどれにも当てはまらない、ただ言えるのは凄まじく獰猛でそれでいて凄まじく強いということぐらいだろう。
その名も『ベヒーモス』怪物或いは化物の具現、竜種ですら喰い殺すモンスターであり、勝てるなんて決して思ってはいけない相手だ。
岩の陰で俺とアンリはただ息を殺して、目前の化物が通り過ぎてくれるのを待つしかなかった。
一歩、また一歩とこちらに近付いてくるベヒーモスに俺は今までにない恐怖を感じていた。
ベヒーモスが俺達の隠れる岩の前で止まった時、背筋に氷でも入れられたような錯覚を覚えた。
心臓の鼓動が急激に早まり始めた。死ぬ覚悟と生きたいという願望が交錯しだす。
冷静になろうとすればするほどこのどうにもならない状況に焦燥してしまう。
すると、ベヒーモスが俺達の隠れる岩の前で足を止めた。漏れそうになる悲鳴を必死に押さえ、一秒でも早くベヒーモスが去ってくれることを祈った。
背後でグチャリと水音のような音が聞こえてきた。ベヒーモスがアシッドバットを食べているのだと直ぐに分かった。
ベヒーモスが失神したアシッドバットを捕食している間、俺とアンリは永遠にも感じる時を過ごしていた。怯えた子猫のように縮こまり、無意識の内に震える手を必死に抑えて見つかるまいと努めた。
後悔してももう遅い。ここまで強大なモンスターがいるなんて予想だにしていなかった。
停止しかけている思考の片隅で、何故こんなところにこんなモンスターがいるのか疑問を自分の中で投げ掛けていた。
アンリの話によれば昨日までダンジョンは平穏そのもので、ゴブリンを狩るには絶好の環境であったらしい。それがどうだ。当のゴブリンは惨殺され、目の前には俺が十人いようと歯が立たない化物が一匹、明らかにおかしな話だ。
首を巡らし、俺はアンリの方を見やった。彼女もお手上げのようで、人形のようにぴたりと固まって脅威が過ぎ去ってくれることを待っている。
そうこうしている内にベヒーモスがアシッドバットを丸々平らげて満足げな吐息を漏らした。微弱なものとはいえ毒腺毎喰らい尽くしていることに変な笑いすら起きてくる。
そのまま通り過ぎてくれるよう祈った甲斐があったのか、アシッドバットの小骨を齧りながらベヒーモスは俺達に気づく素振りもなく、地響きを鳴らしながら俺達の隠れる岩を横切っていった。
ベヒーモスの姿が完全に見えなくなるのを確認すると、俺は何か抑圧されたものから解放されたように息を吐きだした。
「なんだってんだ……なんだってんだよアレ!?」
「静かに頼む。こっちも気が気じゃないんだ」
平静を装っているもアンリも精神的にかなり参っているようだった。
長い時間呼吸を堪えていたこともあって、こっちも目眩がしそうだった。
小型の竜種程度だと高を括っていた俺が馬鹿だった。これは明らかな迷宮の異常だ。
ゲームの知識なんてクソの役にも立たない。予測不能な事態に陥っていた。
今からでも遅くはない。撤退も時には必要なことだ。
「アンリ、大きな口叩いて本当にすまなかったと思う。今からでも遅くない。今すぐこの地下迷宮を――――」
『逃げ出そう』そう言おうとしたその時だった。
血相変えて飛び掛かってきたアンリに突き飛ばされ、数メートル先の岩肌の壁に叩き付けられる。
理由を聞こうと、一瞬暗転した視界をアンリに向けた矢先、何もかも手遅れなのだと悟った。
俺達が隠れていた岩は跡形もなく消し飛び、岩の礫を撒き散らして現れたのは今まさにやり過ごした筈のベヒーモスだった。
鋭い爪を持った前足を振りかざし、礫を巻き上げながらアンリに襲い掛かった。
ただ、アンリの動きは至って冷静で的確なものだった。
飛び交う岩の礫を縫うように掻い潜り、ベヒーモスの一撃を躱し、渾身の力でその下顎を蹴り抜く。
スナイパーとはとても思えない威力の蹴りは一瞬ベヒーモスの巨体を浮かせ、怯ませた
「……やはり無理か」
ベヒーモスが態勢を立て直す前にアンリは俺の方へ駆け寄ると俺の腰に腕を回し肩に抱えると全速力で駆け出した。
並のモンスターなら先ず追いつけないだろう、アサルター顔負けの脚力でアンリはベヒーモスを引き離していく。
「なんでばれた!?」
「喋るな舌を切るぞ。きっと最初から気付いてた。気付いた上で素通りして隙を作ってから私達を襲ったんだ」
「そんなことって――――」
俺が口を開いた瞬間、傾斜に差し掛かって衝撃で舌を噛んでしまう。
後方からベヒーモスの怒号が響いてくる。意地でも俺達を殺すという意志が伝わってくる。
ちらりと後方を見やると見たことを後悔する程恐ろしい形相でベヒーモスはすぐそこまで迫っていた。
確実に距離が縮まっている。このままでは不味い。
「アンリこのままじゃ不味いぞこれ!」
「あぁその通りだ」
斜面を降り、緑の生い茂る開けた道へ出るとアンリは渾身の力で地を蹴り、一瞬だけベヒーモスを引き離すことに成功する。
「バッキー、私では奴から君を守ることが出来ない。許してくれ。これしか手はないようだ」
ポーチから小さなボールを幾つか取り出し、次々に辺りにばら撒いていく。
するとボールは小さな爆発を起こし、通路に刺激臭のする濃い煙が立ち込めてくる。
「私が囮になる。君はこの煙で奴をやり過ごせ。私が奴を誘き寄せてる内に上の階に逃げるんだ」
「死んじまうぞアンリ!」
「心配する必要はない。10階層に奴を確実に撒ける地点がある。そこで引き返して君と合流する。それまではすまないが自分の身は自分で守ってくれ」
返答する間もなく、アンリは肩に担いだ俺を茂みの中へ放り投げた。
顔面から茂みに突っ込んだが、俺は声も上げず、その体勢のままジッと息を殺した。
「生きて会おうバッキー!」
既に遥か彼方へ走っていったアンリから激励の言葉が聞こえてきた。
同時に俺の隣をベヒーモスが凄まじい速度で走り過ぎていった。
独りになってしまった。
何を間違えてこうなってしまったのか。確かに言える事は俺が無力だって事だ。
「ちくしょう、クソったれ。ファック!!」
ただただ自分に苛ついてくる。それでも自分にはアンリの手助けになることは何も出来ないからなおさら腹立たしい。
今は言われた通り、安全なところまで避難するしかない。
悔しさは一度胸にしまい立ち上がると、逃げてきた道を振り返り、見るも無惨に破壊された跡を辿って歩き始めた




