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Lost the Key

Lost the Key

作者: 下弦 鴉

 俺の名前は、風海 春(かぜみ しゅん)。どこにでもいる、普通の中学生だ。

 「春〜!まったなぁ!!」

 「ああ、じゃあな」

 中学生と言っても、一年とかじゃない、もう受験生だ。

 そんな俺の悩みは一つ。

 どうやったら、この世をされるのか。

 ただ、それだけ。

 俺は、この世界に飽きていた。いや、嫌気が差していたのかもしれない。進歩だけを望み、国民を見ない政府。未来の事だけを考える、くだらない親。その全てに、何の関心ももてなくなった。だから、俺はこの世界から、早く解放されたかったんだ。

 あんたらだって、思った事はあるんじゃねぇのか?こんな世界、大嫌いだと。この世界にいる意味なんて、ないんだと。

 絶対ないって言いきれる奴、いないと思う。心のどこかで、絶対にこの世界に失望するからだ。

 汚いこの世界に、いる意味なんてない。そう思ってたんだ、あの人物と、出会うまでは―――。


 家に帰る途中の道。そこは人通りも少なく、夜はよく、引ったくりがある。

 そんなのが当たり前な道を、一人静かに俺は歩いていた。そりゃ、周りに誰もいないんだから、静かで当たり前だ。だけど、今日は少しだけ、様子が違かった。

 まだそんな季節でもないのに、霜が降り、霧も出て、寒々としている。周りにあるはずの民家や、ミラーさえも霞んで見えるほどに。

 「……何だよ、気味悪ぃな」

 そんな愚痴をこぼしながら、俺は歩調を速めた。怖いわけじゃない、本能だ。本能が、ココは危険だと告げている。この場所を、早く去れと―――。

 「……誰か、いる?」

 そんな俺の霞んだ目の先に、ゆらゆら揺れる、人影があった。その影は、全身真っ黒だ。何故分かったかだって?そりゃあ、白い霧の中にいれば、当然黒は目立つだろ?

 そんな黒い影は、やはり揺れながら俺に近付いてくる。咄嗟に引き返そうかと思ったが、足がそこに縫い付けられたかのように、動こうとしない。畜生、こういう時に、仕事をサボるなよ、足。

 「まあまあ、そんなに慌てないでください。危害を加えるつもりなど、さらさらありませんから」

 ムカつくほどにのんびりとした声は、この霧の中に良く通った。そして目の前に現れたんだ、あいつは。

 「……誰だよ、テメェ」

 「怪しいものではないのは、確かですよ」

 ニッコリと笑った気配がした。本当にそれだけしか、分からない。前身黒でまとめられたスーツは、ほっそりとしたそいつに良く似合い、目深に被ったシルクハットのせいで、表情が読めない。いや、読ませないのか。

 「貴方に、お渡ししたいものがあって、ここに来ただけです。他に用は、ございませんよ」

 そう言って、右手に持った、少し短いステッキをもてあそぶ。

 「ああ、そうです。一つ言い忘れました。そのお渡ししたいものは、ご自分で探してもらわないと」

 何か落としたものがあったかと探し回っていた俺は、その動きを止めて、目の前の男を睨む。渡したいものを、その持ち主に探させる?どういう意味だ?

 まだステッキをもてあそびながら、彼は少し笑ってから言った。

 「混乱して当然ですね。だって失くしたものは、『鍵』ですから」

 「鍵?家の鍵なんて、俺は持ってねぇぞ」

 薄く笑って、男はステッキを左手に持ち替えた。

 「ふふ、そう思っても、仕方ありませんね。私が貴方にお渡しするその『鍵』は、普通の鍵じゃないんですよ。特別な、『鍵』なんです」

 やけに鍵を強調して言った。それほど大切な鍵を、俺は持っていただろうか?

 「考えても、その『鍵』は浮かばないと思いますよ」

 また面白そうに男は笑って、コツンと、左手で持っていたステッキで地面を叩いた。やけにその音は、この場に響いた気がした。

 「私が持っているものは、記憶の『鍵』なんです」

 「……記憶の、鍵?」

 「はい」

 そう短く答えた男は、また嬉しそうに笑った。そう分かったのは、白く細い口の両端が、上へと引き上げられたからだ。

 だが、そんな事は関係ない。記憶の『鍵』。それが問題だった。

 俺は、これまでたいした事故もなく、健康的に生きてきたつもりだ。失くした記憶なんて、ないはずだ。それに、それと鍵とは、何の関係もないじゃないか。記憶喪失だなんて、一切ありえない。

 「貴方が思っている事、全てが現実とは限りませんよ?」

 そう言って、彼はまた笑う。なんだか怖くなってきた。だが、役立たずの足は、まだ復旧のめどがない。

 「だから、さっきから言っているでしょう?そんなに恐れずともいいと」

 そう言われて、『はい、そうですか』と簡単に行動を起こさなくする事など、絶対できない。それに、あんなにニコニコされていたら、逆に怖くなるんじゃねぇか?

 「……そろそろ本題に入りましょう。私もこう見えて、結構忙しい身なので」

 また微笑を湛えて、ステッキをいじる。黒曜石のように滑らかに光るそれは、彼のお気に入りなのだろうか。いつもいじっている。

 「貴方は、今、この世界に飽きれていますね?」

 単刀直入に、自分が思っていた事を言い当てられ、俺は言葉に詰まった。声が、言葉が紡ぎ出せない。

 「そんなに驚かないで、スマイル」

 そう言って、黒い手袋をつけた手で、俺の頬に触れ、無理矢理笑顔を作らせた。

 いつの間にこんなにも近付いてきたのだろうと思っていたら、また、元の距離に戻った。さっきのは、なんだったんだ……?

 「では、もう一度、問います。……素直に答えてくださいね?」

 そして、さっきの質問を繰り返した男は、器用に指先でステッキを回す。それを見ながら、俺は軽く頷いた。

 「では、貴方はこの世界に生きている意味がないと、そう思っている訳ですね?」

 何かの魔術なのだろうか、あの口調、ステッキの動きに、不思議と見入らせられる。

 再び俺は、無神経に頷いた。

 「これで最後です。貴方は、もうこの世界にいる意味がない、死のう。そう思っていましたね?」

 「……ああ、こんな世界に生きてても、何の意味もない。俺がいて、嬉しい奴もいないだろうからな」

 自然と、口が動いて、心の奥の言葉を紡ぎだした。何故、この男にこんな事を、しゃべってしまうんだ?疑問が頭を埋め尽くす。

 そんな焦点の合わない、ずれたレンズの先で、また男は笑っていた。それにしても、本当に良く笑うな。

 「やはり、貴方の『鍵』だったようですね。さあ、貴方の失くした『鍵』を探さなくては。あなた自身の力で」

 「……失くした、『鍵』?」

 「そうです。『鍵』です。その『鍵』は、とても大切な、大切なもの」

 「……大切な、もの」

 「さっきも言いましたでしょう?記憶の『鍵』だと。それは、忘れ去られてしまった記憶を開く、唯一の『鍵』」

 「……」

 「貴方には、忘れてしまった『記憶』があるのです。そして、それを閉ざしている『心の扉』を開くには、『鍵』が必要なのですよ」

 「……信じ、られねぇな」

 「ふふ、そうでしょう。でも、それでいいのです、貴方が正常な証拠ですから」

 返す言葉もなく、ただ突っ立っているだけの俺に、男は最後と言ったのに、もう一つだけ、問うた。

 「貴方は、失われた『鍵』を、探しますか?」

 自然と耳に入り、解読された言葉に、俺はなぜか頷いていた。本当に、何故頷いてしまったんだろう?

 男がまた、霧に紛れながら言う。

 「では、失われた『鍵』が見つかる事を祈って」

 最後に、耳障りなステッキが地面を叩く音が聞こえ、俺の思考回路は、運転を中止した。



                     *



 気が付いた時、俺は真っ白な道路に倒れていた。どこもかしこも真っ白なその世界に、俺はいた。

 「……なんだ、ここ」

 思わず出た疑問に、答える声はない。静か過ぎるその空間に、俺はたった一人で立っていた。どこに連れ去られたのか、定かじゃねぇが、ココは元の世界と違う気がする。そんな事言うの、変だとは思うが、そう思った。

 「何をしているのです?探さないのですか、『鍵』を」

 どこからか、あの男の声が聞こえる。現れた時のように、姿はない。真っ白な空から、その言葉は降ってきているようだった。

 「早く探さないと、『鍵』を手に入れる機会を、失う事になりますよ?」

 「何の事だよ!」

 怒鳴らないと聞えないような気がして、空に向かって叫ぶ。なんだか、自分が馬鹿らしく思えた。

 「『鍵』の事……では、ないですよね?」

 「当たり前だろ!?機会を失うって、どういう事だよ!!」

 「はい、単刀直入に言いますと、ここは生身の人間が長時間居ていい場所ではないのです。ですから、1時間以内に『鍵』を探し出さなければなりません」

 「生身の人間?1時間以内?」

 「私は特殊な身ですから、何時間、何年居たとしても、問題はありません。ですが、この『記憶の世界』は、普通の人間が居ていい場所ではないのです。ここは、寝た時に見る、夢のようなものですから」

 「だったら、お前が探せばいいだろう?」

 「私じゃいけません。もし、私が貴方の『鍵』に触れてしまったら、もう二度と、『鍵』は手に入らなくなります」

 「何でだよ!」

 「『鍵』とはつまり、『人の記憶』のようなもの。人が勝手に触れていいものではありません。見てもいけないのです。ですが、見つける事はできます。だからこうして、『鍵』の持ち主を探し、その『鍵』を見つけさせるのです」

 「だったら、その『鍵』とやらがある場所を教えろよ!」

 「それはできません」

 「んでだよ!!」

 つくづく人を怒らせる事が好きな奴らしい。説明の言葉が、あまりにも足りなさ過ぎる。

 「自ら見つけるからこそ、『記憶の鍵』なのです。他人は、手出しできません」

 「もし、お前の力を借りたら、どうなるんだよ?」

 「『鍵』は消滅し、貴方の『記憶』も、消滅します」

 「って事は、思い出す事は、もう二度とできねぇって事か?」

 「はい、その通りでございます。そして、一度失われた『鍵』は、戻らない為、私と会った事も、貴方は忘れるでしょう」

 「……」

 「さあ、考えてる暇なんて、ありませんよ?おしゃべりが過ぎてしまいました。あと、40分弱しかありません」

 「それを早く言え!」

 「問われなかったので、聞く必要はないのかと」

 「……ちっ」

 これが舌打ちせずにいられるだろうか。知っていながら言わず、問われなかったから言わない。ふざけてる、この世界も、あの男も。

 「ああ、一つ言い忘れていました。……いや、二つですね」

 「んだよ!こっちは急いでんだ!」

 走りながら問う俺に、冷ややかな声は降ってくる。まるで、みぞれのようだ。冷たく、ゆっくりと体を冷やしていく。まさに、今のあの男のしゃべり方そっくりだ。

 「いや、失礼。……早速言いますと、一つ目は、『鍵』は普通の鍵とは違うのです。だから、道端に落ちてたりする事はないのです。ある、特定の場所にしかありません。その場所に行けば、きっと『鍵』は見つかるでしょう」

 「で、二つ目は!?」

 「二つ目は、『鍵』を見つけたら、自分の胸に抱いてください。そうすれば、『心の扉』は開かれますから」

 「それだけか?」

 「はい、以上です。では、『鍵』探し、頑張ってくださいね」

 それきり降ってくるみぞれは、ピタリと止んだ。



 あてもなく走り続けていた俺は、もう諦め始めていた。絶対に見つけなくてはならない訳ではない、『鍵』。なのに何故、俺はこんなに必死になってそれを探してんだ?

 「おい、どこぞの男!」

 「……それは、私の事ですか?」

 「そうだよ、名のらなかったんだから、適当な名前でいいだろう?」

 「……」

 返事をしなかったのは、肯定だろうか、否定だろうか。

 でも、今は、そんな事関係ない。聞きたい事が、一つだけ生まれた。

 「もし、お前が言う『鍵』とやらが見つけられなかったら、俺はどうなる?」

 「どうなるも何も、記憶が失われるだけです」

 「それって、ヤバイか?」

 「ヤバい?……ああ、いけない事かと申すのですね。はい、そうですね。失われた記憶は、封印され、もう開かれません。『鍵』が失われるんですから」

 「……思いださねぇと、いけねぇ事なのかよ」

 「人それぞれですね。ですが、貴方の場合は、思い出していただかなくては困ります」

 「んでだよ」

 「死んでもらっては、悲しむ人がいるからです。……おっと、言い過ぎました。今度呼ばれるときは、『鍵』が見つかった時がいいですね」

 そうして、男はいなくなったようだ。何度叫んでも(例え汚い言葉を吐いても)、返事がなかったからだ。

 ―――死んでもらっては、悲しむ人がいる―――

 そんな訳、あるもんか。だって俺は、親からの愛情なんて、ちっとももらわずに生きてきたし、友達だって、心からのものではない。ただ、一人が怖いから、付き合ってるだけだ。親だって、俺が死んでやった方が、生活が楽になって、幸せになれるだろうし。

 俺の家は、12人家族だ。曾婆さんも、爺さんも、両親とも健全だから、それだけで6人。そして、子供も6人。俺が次男で、長男が一人、俺の下に、双子が一組、長女が一人。元々フラついていた長男は、いつの間にか家を出て行って、ロクな収入はない。だから、突然帰ってきたと思ったら、家の金をかっぱらって、勝手に去っていく。双子は双子で手がかかる。いっぺんに小学校に入学した為に、学費もギリギリ払える程度。一番下の長女に至っては、まだほんの赤ちゃんだ。何もできるはずがない。

 だから、お袋が面倒を見て、親父が働きに出てる。中学に通ってる俺が居なくなれば、少しは家の事になるんだ。だから、俺がいなくなれば、家の奴らは喜ぶはずだ。無駄な金を使わずにすむって。そんな奴らが、俺の為に泣く事なんて、あるのだろうか―――。

 そんな事を考えながら、走り続け、道に迷った。右に曲がるか、左に曲がるか。はたまた直進してみようか……。

 「……あれは……?」

 真っすぐ前を見つめてみると、この白い世界で始めて見る、色があった。……アレは、……病院だろうか?

 何故だか、それに引き寄せられるかのように、俺の足は進んでいく。この足、また命令に逆らいやがって。なんて思いつつも、そこへ行ってみたい気がした。

 「……どっかで、見た事があるような気がすんな」

 それは、どこにでもあるような、こじんまりとした病院だった。お年寄りでも段差を気にしなくていいように、階段の横にスロープがある。そして、少し行った所に、ガラス張りの入り口がドンと構えていた。丁寧に並べられたイスやスリッパが、ここからでも見える。靴をしまえるように備えられた、靴箱も。その先に、何か輝くものが見えた気がした。

 はやる気持ちを、無理矢理抑えつけて、階段を一段抜かしに登り、震える手で扉を開く。何故、あの時手が震えていたのか、今も俺は分からない。

 扉を開けるとすぐに目に飛び込んでくるのは、長いす。そして、その上にある、輝く『鍵』―――。

 その鍵は、金色の光を放ち、宙に浮いていた。といっても、少し浮いている程度で、プカプカと浮いている訳ではない。普通の鍵とは違って、綺麗な装飾が施されてある。差し込むところは、昔の鍵、そのものだが、握る所は、蔦が複雑に絡まったような模様だ。それは心なしか、ハートの形をかたどっているように見えた。

 「……これが、『鍵』なのか?」

 「そうですよ、さあ、早くその『鍵』を使って、心の扉を開いてください。時間がありません」

 「時間?」

 「前にも言ったでしょう?もう、お忘れになったのですか?」

 「忘れたよ!早く言えよ!」

 白塗りの天井に叫ぶ俺の姿が鏡に映って、馬鹿みたいに見えた。

 「ここは、夢のような世界、生身の人間が居ていい所ではありません。早く現世に帰らなくては、この世界に閉じ込められてしまいます」

 「おい、後の方の事、聞いてねぇぞ!!」

 「言い忘れていました、すみません」

 本当に謝っているのか、疑問に思いながら、長いすの上の『鍵』をそっと手に取る。ほんのりと暖かいそれは、手にとってもまだ宙に浮いているようだった。

 「さあ、『心の扉』を―――」

 「分かってるよ!」

 ごくりとつばを飲み込み、両手で暖かな『鍵』を包み込む。両手の暖かさが、全身に伝わるようだ。そして、ゆっくりと胸元に近付ける。

 『こんな事で、扉なんか開くのかよ』

 そう思った時、頭の奥で、何かが開く音が聞こえた気がした。

 ―――カチリ

 「さあ、思い出してください。大切な、思い出ですよ―――」

 男の声が、遠くで響いた。



                      *



 「……ここは、どこだ?」

 ゆっくりと間を開いた時、俺は、まだあの病院にいると思っていた。だが、場所は違っていた。

 古ぼけた、黄ばんだ壁。粗雑に置かれた家具。散らかったおもちゃ。つぎはぎだらけのカーペット。……ここ、見た事あるような―――。

 「しっかりして、どうしたの!?ねぇ、返事をして!」

 ふすまで閉じられた部屋の向こう側から、女の人の声がする。……あの声は、……お袋?

 「返事を、返事をしてよ!!」

 ふすまを開けようとした時、他の手が通過した。言ったとおりに、その手は俺の手を貫通した。空気のような俺の手は、その手には何の影響も与えていないようで、その手は迷わずふすまを開ける。親父だった。

 「どうした?」

 「……しゅ、春の様子が、おかしいの」

 開いたふすまの先に、苦しそうに呼吸する子供の姿が見えた。

 ……嘘だろ?……アレ、俺じゃねぇか?

 今の面影が全くない、丸っこい顔が見える。それは頬をリンゴのように染め、急スピードで心臓を働かせていた。

 「春、春。どうしたんだ?」

 親父が心配そうに小さな『俺』を抱き上げ、汗ばんだ額をそっと撫でる。まるで自分がそうされたようで、ちょっとだけ額をさすった。

 「熱がある。昨日はあんなに元気だったのに……」

 親父が眉をひそめ、苦しげな表情をした。お袋も、同じような表情で、苦しそうな『俺』を見つめる。

 「……まだやっている病院があるかもしれない。急いで春を連れて行こう」

 「……でも、お金が……」

 「借金でもすればいいさ。金なんて、こいつの命に比べりゃ、何の価値もねぇ」

 ……俺の心に、その言葉が響いた。

 お袋が身支度している間に、親父は『俺』を抱えて、「大丈夫。大丈夫」と言い続けていた。今の親父の面影がない、優しい瞳で、心配そうに……。

 「さあ、早く行きましょう」

 「ああ。……春、もう少しだからな、もう少しで、楽になるからな」

 今の面影がない、優しい両親は、今、そこにいた。俺の目の前に、当たり前のように。


 何軒も近くの病院をあたったが、どこもやっていなかった。やっている所もあったが、急患は受け付けられないと、追い返されてしまった。こんなに必死で、こんなに一生懸命な両親は、見た事がなかった。


 「お願いします!突然苦しみだしたんです!どうしたらいいか、分からなくて……お願いです、この子を診てやってください!!」

 「……すみません」


 「昨日まで、庭で跳ね回ってたんだ。けど、急に熱出して、寝込んじまって。どうしたら助けてやれるか、わからねぇんだ。頼む、俺らの子を、助けてやってくれ」

 「すみませんが、私の専門分野ではないので……」

 「そんな冷たい事言わないで、助けてくれよ、頼む、金はいくらでも出すから」

 「……そんな事言われましても」

 「お願いです、お願いです―――!」

 無残にも、扉は閉められ、光は消えた。

 そんな光景を見て、何故だか妙に心が苦しい。何かで締め付けられているような、そんな苦しさだ。

 どうしてだ。俺は、何で泣きそうなんだ……。


 「それは大変だ、さあ、その子を私に……」

 「お願いします、先生!この子を、春を助けて」

 やっと見つかった病院の医者にすがりつくお袋は、止まらない涙を気にせずに、必死に医者に頼み込んでいた。その隣で、親父も深々と頭を下げていた。

 何で、俺の為にこんなに一生懸命になってんだ?今は、あんなに冷たくて、非常なやつらなのに……。どうして、俺なんかの為に―――。

 「大丈夫だよ、母さん。きっと、春は大丈夫だ」

 聞いた事のない、優しい親父の声がする。待合室で、肩を抱いて、お袋と手を繋いでいた。今じゃ全然考えられない姿だった。

 「春は俺達の子だ。頑丈で、強い子だ。あんな病気に、やられるような子じゃないよ」

 「……でも」

 泣いているお袋を、さらにギュッと親父は抱きしめる。

 ……いいなぁ、と思った。

 「心配すんな、俺らがこんなんじゃ、春が病気に勝てねぇだろ?だから、な?泣くなよ」

 「……私がもっと、もっとあの子に気を使ってあげてれば」

 「……」

 黙りこむ親父の顔が、とても悲しげに見えた。いつでも威張っているはずの親父の威厳が、今はなかった。

 「……春、ゴメンね」

 消え入りそうな、小さなお袋の声が、心の奥底を突いた。

 二人しかいない部屋が、妙に悲しげだった。


 夜が明けた頃だろうか。医者が、寄り添っている二人の前に姿を現した。それを見て二人は、掴み掛かるような勢いで医者にすがりつく。

 「ねぇ、うちの子は?春は?」

 少し黙って、医者は疲れたような笑みを浮かべた。二人の胸に、不安がよぎった事を、その表情から読み取った。

 「……ハハ、そんな顔しなくても、大丈夫ですよ」

 「じゃあ、春は……春は、生きているんですね?」

 返事の変わりに、深々と医者はうなずく。その顔に、疲れたような表情は、もうなかった。すがすがしい笑顔が、そこにあった。

 「本当に強い子です。あんなに高熱だったのに、元気になりましたよ。今は、病室で寝ています。行って上げてください」

 両親の顔に、希望の光が燈った。

 ぱたぱたをスリッパを鳴らしながら、医者が言っていた部屋の戸を開ける。そこには、安らかな寝息を立てている『俺』がいた。

 その姿を見て、お袋はその場に崩れ落ちそうになった。それをそっと、親父が支える。……こんなに二人って、仲良かったっけ?

 そのままお袋を支えながら、『俺』の眠るベットの傍による。そして、見舞い用のイスに、力が抜けたかのように、ドスッと腰掛けた。

 「……良かった」

 「……良かったな」

 柔らかな笑みが包む顔に、生気はほとんど感じられない。なのに何故、あんなに嬉しそうに笑っていられる?

 お袋が、そっと『俺』の前髪を退かして、顔が良く見えるようにする。あんなに苦しそうに歪んだ顔が、今は嘘のように天使の寝顔だ。優しい手が、その頬を、頭を愛しそうに撫でていく。普段はそんな事、絶対にしなかった。それが今は、本当に頭を撫でている。

 「うぅん……」

 声変わりしていない声が、眠そうな声を出し、その瞳を開く。それを見て、お袋の目から、雫がこぼれ落ちた。……嘘、泣いてる?お袋が?

 「……お母さん?お父さん?」

 小さいけれど、しっかりと声が聞こえた。その声に応える二人の目から、次々雫がこぼれ落ちていく。泣いている、嬉しそうな顔して、二人が泣いている。

 「どうしたの?何で、泣いてるの?」

 無垢な言葉に、返す言葉がないのか、両親は何も言わない。鼻を啜る音と、嗚咽を抑える声が、狭い病室に響いては消える。両親は、こんなに脆かっただろうか。こんなに、俺のためを想ってくれていただろうか。

 「泣かないで、お母さん、お父さん。どうしたの?僕に、何かあった?」

 ニッコリと微笑む幼い顔は、本当に天使だ。今の俺じゃない。そう思うしかなかった。

 「ねぇ、どうしたの―――?」

 「……春」

 耐えられなくなったのか、お袋は泣きながら、小さな俺を抱いて泣き続ける。そんなお袋を見て、親父はそっと小さな『俺』の手を握りしめる。大切そうに、壊してしまわないように―――。

 「ゴメンね、ゴメンねぇ―――」

 「お母さんも、お父さんも、どうかしたの?いい子いい子してあげる」

 開いている手で、そっとお袋の手を撫でる『俺』は、無邪気な笑顔でその大きな頭を、小さな手で撫でていた。握られた手を、握り返して。

 「ゴメンね、春。ゴメンね。お母さんを、許して……」

 「?」

 「春の様子がおかしかったのは、昨日から本当は分かってたの。なのに、なのに、―――」

 「お母さん?」

 「大丈夫だろうって、勝手に思ってたんだ。家計の事を考えたら、ちょっとした事で病院には行けなかったんだ。ゴメンね、こんな悪魔のようなお母さんを、許しておくれ」

 「ダイジョーブだよ、お母さん。ダイジョーブ」

 舌足らずな声は、お袋の心に届いたのか、いっそう嗚咽が大きくなった。

 「春、お前が死んでしまうんじゃないかと、本当に心配だったんだ。私がちゃんとお前の事を見てやってなかったから、天罰が下ったんだって、そう思ったんだよ。私が、本当に春の事を思っているのか、神様は試そうとしたんだ。……私は、本当にお前を愛しているのに、心から、お前を愛しているのに、ちゃんと、お前を見てやれなかった。だから、だから神様は―――」

 「お母さん、神様はね、そんなに酷くないよ?僕を助けてくれたもん」

 ニッコリ笑うのは、子供ならではか。純粋な、温かな笑顔。

 「……春」

 「僕ね、お母さんの事、だぁいすきだよ。それに、お父さんも、だぁいすき!」

 何で、こんなに純粋で、無垢に笑えるんだろうか、子供とは。何でこんなにも、この笑顔に癒されるのだろうか。

 「……私も……春が、大好きだよ。本当に、本当に、心から、大好きよ。……死ななくて、本当に良かった。生きててくれて、お母さんに笑ってくれて、本当に良かった」

 「うん!」

 「……俺も、本当に好きなのか、春?」

 「うん!お母さんとおんなじくらいに!」

 「……ハハ、ハハハ。やっぱり春は、いい子だなぁ。よく笑って、よく人を想ってくれる。暖かいよ、春の心が」

 「そーぉ?」

 「ああ、春の木漏れ日みたいだ。あったかくて、優しくて、純粋で。『春』って言葉どうりだな」

 「?エヘへ」

 良く、言葉の意味を理解していないようだが、今の俺だったら、それが理解できた。それが、心からの言葉じゃないとしても、こんなに嬉しい言葉はない。

 親父は、お袋は、この俺が産まれてきてくれた事、元気に育ってくれている事が、本当に嬉しかったんだ。生きていてくれて、心から嬉しかった。死ななくて、良かったと。

 何故だろう?頬がやけに熱い。目の前がかすれて、前が見えないや。それなのに、心は躍っていやがる。何なんだよ、この矛盾。嬉しいのか、嬉しくねぇのか、はっきりしろよ、俺。

 本当に、心から心配してくれる人がいると思っていなかった。本当に、心から涙を流してくれる人がいるなんて、思ってなかった。そう思ってたのに、本当にいたんだな、こういう人。

 馬鹿みたいで、情けねぇけど、今は、本当に家族が愛しい。あの、狭い部屋が、家が恋しい。たくさん見守ってくれている人がいる、あの家に、俺は……帰りたい。

 自然に胸に当てていた手が、とても暖かい。なんだか、とっても懐かしい、暖かさだ。その中で、俺は声を聞いていた。

 「良かった、良かった。無事に、『鍵』を見つけ出せたようですね。本当に、安心しましたよ」

 「……お前は」

 「忘れてくださって、結構ですよ。と、言いますか、忘れてくださいね。頼みます」

 ……変な奴。

 「風海 春、思い出せましたか?大切な記憶を」

 「ああ、とっても暖かい、思い出だ」

 「それはそれは」

 どこかで、クスクスと笑う声がする。近いのか遠いのか、よく分からない。

 「……これで、貴方は死ぬ理由はなくなりましたね」

 「……そういえば、俺は、死のうとしてたんだっけ?……ハハ、今考えれば、馬鹿みたいだな。自分が笑えてくる」

 また、少し特徴的な笑い声がする。

 「その『鍵』があれば、いつ、どんな時でも再び心の扉を開く事ができます。失くす事がなければ、いつでも」

 「……」

 「私の役目は、ここまでです。これで、貴方とはお別れですね」

 「……また、会えんだろ?」

 くすぐられた時のような笑い声が、すぐ傍で聞えた。なんだか、ホッとする。

 「いいえ、会えません。いや、会わないかもしれないと言う事が、一番当たりに近いかもしれませんね」

 「んだよ、それ」

 「ふふ、そういう事ですよ。私の役目は、貴方に『鍵』をお渡しする事。それ以外、何もないのです。そして、また貴方が『鍵』を失くした時、私は再び貴方と会う事になるでしょう」

 「……それって、いい事なのか?悪い事なのか?」

 「う〜ん、両方ですね。会える事は嬉しいですが、また『鍵』を失くす事は、非常に悲しい事。もう、失くしては欲しくないですね」

 あの男の笑みが、薄っすらと見えた気がした。でもやっぱり、顔は見えない。

 「……では、またお会いしない事を祈って。その『鍵』を大切に」

 その声に誘われるようにして、俺はあの帰り道で目が覚めた。



                    *



 あの時の事は、今もはっきりと覚えている訳じゃない。特に、男の事。どんな格好をして、どんな顔をしていたのか、ぼんやりとしか出てこない。

 けど、その代わりにはっきりと見えるのは、あの日の記憶。今まで思い出せなかった、大切な記憶。俺に、生きろと、生き続けろと教えてくれた、あの記憶に関しては、はっきりと見えるのだ。瞼を閉じればすぐ、ホラ、もう見えてきた―――。

 あの日からもう、自殺なんて考えなくなった。馬鹿らしくなったからだ。せっかく、こんなにも自分を愛してくれる人達がいるのに、感謝もしないでこの世を去るのは、ちょっと失礼な気がしたから。もっともっと長く生きて、親孝行してやらないと、あの時の恩は返せない。あの時の愛情も、返せない。

 何となく、心細くなったりする時は、こうやって、胸元に手を置く。そうすると、あの不思議な『鍵』の暖かさが、手元まで届いてくるような気がしたから。そこにある、大切な『鍵』が、ここにある事が、本当に嬉しかった。

 ……もし、あの男に礼を言えるのなら、言わせて欲しい。

 失われた『鍵』を、見つけてくれて有難う、と。

 もう失くさない、と。




 初の短編&シリアス系です!そうでしたか?ものすごく変なところとか、ありませんでしたか?

 と、まあ、そういう事はいいとして。『Lost the Key』、楽しんでいただけたでしょうか?少し長くなってしまった気がするんですが、どうでしょう?もしよかったら、評価、お願いします。あ、よかったら、感想も……。

 これは、一瞬の閃きさえあれば連載できたんですが、めんど……無理そうだったので短編とさせていただきました。もしかしたら、気が向いたら続きのようなものを書きたいと思っているので、その時はよろしくお願いします。

 では、皆様、さようなら。どうか、大切な『鍵』は失くさぬように……。

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― 新着の感想 ―
[一言] いい話だぁ〜! 「鍵」って言葉が深い… 特に最後の一行が深い! …うまいですねぇ
2008/07/13 23:29 退会済み
管理
[一言] 凄く心にぐっときました。文の長さなんて途中で忘れてしまう程でした
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