9 妖精と王国
妖精の抜け道を出てすぐに、シルヴィンは赤いドレスの姫に目を奪われた。
手を繋いでいたフィーはいつの間にかいなくなっている。
しかし、視界に赤いドレスを着たリリーの姿が入った途端、そんなことはどうでもよくなった。うっとりとリリーを見つめてから、シルヴィンは周囲を見渡す。壁紙や絨毯などが深いグリーンで統一された、落ち着いた部屋。調度品の数々も品の良いものばかりが揃っている。ここは、昨日シルヴィンが忍び込んだフリージア王妃の私室だった。
突然何もないところから現れたシルヴィンを見て、フリージアが顔を真っ青にして驚いていた。言葉も出ないらしい。
リリーはフリージアの部屋に何をしに来ていたのだろう。リリーに毒を盛った可能性が一番高い人物の部屋に、のこのこ一人でやって来るなんて危険過ぎる。
普段はシルヴィンを害虫扱いするくせに、あの侍女はこういう時に何をしているのだ。シルヴィンが来なければ、リリーはフリージアに今度こそ殺されていたかもしれないのに。
はっとして、シルヴィンはテーブルにある茶器を見た。毒が仕込まれているかもしれない、そう思ってティーカップをひっくり返す。
「リリー、身体は何ともないですか? 苦しかったり、痛みを感じたりは……」
リリーの細い肩に手を置いて、身体の異常がないかを問う。
「ふふふ、大丈夫ですわ。何ともありません」
とにっこり笑うリリーを見て、ほっと息を吐く。
リリーが自分に笑いかけてくれている。幸せだ。この笑顔を見るためにここに来たのだ、シルヴィンは嬉しくてにやにやが止まらない。
「……シ、シルヴィン王子っ! あなた一体何を考えているの?」
ようやくショックから立ち直ったらしいフリージアの声が聞こえた。
「リリーのことです!」
いつもおどおどしているシルヴィンには珍しく、自信満々に即答した。
そう。今、シルヴィンの脳内にはリリーのことしかない。リリーの微笑む姿を見て、シルヴィンは幸せを噛みしめる。リリーの義母に変な目で見られていたとしても全然かまわない。
というか、目の前にいるこの人こそが愛しいリリーに毒を盛った張本人ではないか!
「フリージア様、失礼ながら僕はあなたを許すことができません」
真っ直ぐにフリージアを見つめ、背にリリーを庇う。
「あなたは前王妃ユリア様を亡き者にし、こんなにも可愛くて愛おしい僕のリリーまでも毒殺しようとしたんだ!」
人差し指をフリージアにびしっと向け、シルヴィンはいたって真面目に、真剣に告げた。
しかし……。
しん、と場は静まり返っている。え、違うの? とリリーを見ると、彼女は堪えきれなくなったように腹を抱えて笑い出してしまった。シルヴィンはさらに混乱する。自分の仮説が間違っていたというのだろうか。
にっこりと涙と笑顔を浮かべたまま、リリーは首を横に振った。そして、ふいに悲しそうな表情を見せる。
「……ごめんなさい。私、シルヴィン様を騙していたの」
「え?」
「毒は、私が……」
言いかけて、リリーは急にごほっと血を吐いて倒れた。赤いドレスに、鮮明な赤い血が染み込む。シルヴィンは咄嗟にリリーを抱きしめたが、その顔色は生気を失っていた。吐く息は荒く、苦しそうに顔を歪めている。早く楽にしてやりたい、どうすればいいのか、赤い猫を探すが、どこにもいない。
「私のベッドに寝かせてやりなさい」
そう言って、フリージアは寝室があるのだろう部屋の扉を開いた。カーテンが閉め切られた、暗い部屋の中心には天蓋付きの広いベッドが置かれている。意識のないリリーを、ずっと不安定な自分の身体に預けておくことはできない。その申し出は有り難かったが、信用してもいいものか……。
そう思った時、にゃあという鳴き声がした。フィーだ。ベッドをよく見ると、白いシーツにごろりと赤い猫が寝転んでいた。フィーがいるならば、安全なのだろう。
シルヴィンは血の気を失ったリリーを抱き上げ、ベッドまで運ぶ。腕の中のリリーの身体は羽が生えたように軽く、本当に存在しているのかさえ不安になった。その感触が確かに現実のものであると確かめながら、シルヴィンはリリーをベッドに寝かせた。
そして、意識が朦朧としているリリーの手を握り、大丈夫だと囁き続ける。少しずつ、呼吸にリズムが戻り、リリーは身体を休めるための眠りについた。
「フリージア様、リリーのこと教えていただけますね?」
リリーのことでだらしない顔ばかり浮かべていたシルヴィンだが、この時初めて王族の威厳を発揮した。その有無を言わさぬ威圧感に、フリージアは反射的に跪いていた。元々侍女だったとしても、今は王妃としてシルヴィンと対等な立場であるはずなのに。
これは我が国の極秘事項であることをご理解ください、と言い置いてフリージアはまずフィルーノ王国と妖精の関係について話し始めた。
フィルーノ王国は、かつては人間と妖精とが共存する平和な王国だった。しかしある時、妖精の持つ不思議な力を利用しようとする人間が現れ、それを拒む妖精たちとの間に争いが起こった。妖精の方が優位に見えた争いだったが、ある毒によって妖精は人間に追い詰められることになった。このまま争いが続くのは双方にとって良くない、とどちらともなく争いは終結した。
そして、この争いがきっかけとなり、人間と妖精は完全に決別した。妖精たちは不思議な力で別の次元に妖精だけの世界を作り、人間が行き来できないようにした。
人間から逃れるためにつくられた、妖精のための妖精界。
しかし当然、妖精にはない力を人間が、人間にはない力を妖精が持っていた。争いから数百年が経ち、妖精と人間は再び歩み寄った。かつての争いの歴史を繰り返さないよう、契約という形をとることに同意して。その契約には、王家のみという条件がついていた。妖精の存在を伝説上のものとして忘れ、人間はその力に頼ることなく自らの力で歩むことを覚えていた。そんな時代の中で、契約を結んだフィルーノ王国王家だけが、代々妖精界とのつながりを持っていた。
人間が妖精を傷つけず、人間界の豊かな実りを分け与えることと引き換えに、妖精はフィルーノ王国を守護する……という契約のもと、お互いの利益のために関係を続けていたのだという。
しかし――――
「あの、それがリリーに何の関係が?」
フリージアの話をここまで聞いて、シルヴィンは話を中断した。本にも書かれていない妖精の話は興味深いが、シルヴィンが知りたいのはリリーのことだ。
「関係はあります。ユリア様は妖精だったのですから」
「……へ? ……よ、妖精っ?」
ユリア様といえば、リリーの実母だ。その人が妖精となると、リリーは妖精と人間の子ということになる。
リリーが妖精と何らかの関わりがあるとは思っていたが、まさか妖精の子どもだったとは思わなかった。しかしししーの美しさは人外のものであるとは感じていたので、妖精の子だという話をすんなり納得できるシルヴィンである。
フリージアの話によると、国王モルゾフは、人間界に入り込んでいたユリアに出会い、一目で恋に落ちたという。そしてユリアもモルゾフに恋をし、二人は晴れて両想いとなった。しかし、人間と妖精の結婚は簡単に認められるものではない。妖精界の者たちに猛反対をくらいながらも諦めきれなかったモルゾフは、半ば強制的にユリアを妃にした。それによって、妖精界とは再び確執が生まれてしまったという。
そして、二人の間には可愛い娘リリアーヌが生まれ、夢のように幸せな日々を送っていた。
しかし、幸せは長くは続かなかった。
元々人間界の空気に慣れていないユリアは出産後、体調を崩しやすくなっていた。
ゆっくりと、妖精の生命力が消えていく。そんな身体でも、ユリアは愛するモルゾフと娘の側にいたい、と人間界を離れなかった。
リリーが一人で歩けるようになり、言葉を話すようになり、楽しいことを見つけて笑うようになる頃には、ユリアはベッドから動けなくなっていた。
そんな母を心配して、リリーはよく花を持って見舞いに訪れた。
その花を、ユリアも喜んで部屋に飾っていた。自らに害があることを薄々は気付いていたのに。
「まさか、あの花が妖精であるユリア様の身体に毒だなんて知らなかったのです……!」
フリージアは涙を流しながら、悔しげに言った。
リリーが好きだったという植物、シュリ。
シュリは赤い花弁が幾重にも重なり合い、芸術品のような花を咲かせる。
しかし、シュリの花粉は妖精にとっては猛毒となるものだった。人間の血が入っているリリーにはあまり影響がなかったが、完全な妖精であるユリアはすぐに体調を悪化させたという。
そして、リリーが十歳の時ユリアは亡くなった。
「……そんな!」
シルヴィンは無意識にリリーの手を強く握りしめていた。母を喜ばせたくて摘んできた花が、母を殺すことになろうとは……なんて残酷なのだろう。
「ユリア様が妖精であることも、シュリの花が妖精にとっての猛毒だということも、誰にも知られてはいけませんでした。私は秘密の共有者としてモルゾフ様の妃になったのです」
ユリアに一番近い侍女として、フリージアだけはユリアが妖精であることを知っていたのだ。
しかし、リリーにずっと母の死の真相や自分が妖精の血を引くことを隠していく訳にはいかない。だから、リリーが自分から母の死について話を聞きにきた時にすべてを話そう、とモルゾフとフリージアは決めた。
そして二年前、フリージアを避けていたリリーが妖精である赤い猫と共にユリアの死について聞きに来た。
フリージアは覚悟を決めてリリーに真実を話した。しかし、リリーにとってそれは受け入れがたい真実だった。
『シュリの花が毒であるはずがない! 私が証明してみせるわ!』
そう言って、リリーは自らシュリの花を口にした。
ユリアを私に至らしめたシュリの花は城内から消えていたはずなのに、リリーは隠れて部屋で育てていたのだ。
母との思い出の花だったから。
空気を伝って花粉を吸っても影響のなかったリリーだが、直接その花を体内に取り込んだために、身体は毒に侵されてしまった……。
「私から話せることは以上です。シルヴィン様、どうかリリーのことをよろしくお願いします」
フリージアはそう言って頭を下げた。その姿は、王妃としてではなく、一人の母親として、リリーを思っているように見えた。フリージアもユリアの側でずっとリリーの成長を見守ってきたのだ。もしかしたら、本当の娘のように大切に思っているのかもしれない。きっと、胸に抱える秘密が重すぎて、リリーとの距離を測りかねていただけなのだ。リリーを大切に思う人が義理の母でよかった、とシルヴィンは思う。