8 王子の愛
冷たい地下牢に、にゃあ……という猫の鳴き声が聞こえたのは、アイリシアが去って数分後のことだった。
牢屋の出入り口は鉄の扉だけなのに、どうやって入ってきたのか、何故か赤い猫はシルヴィンの側にいた。赤い猫は、毛並と同じように赤い瞳でシルヴィンをじっと見つめる。
「やぁ。君って、妖精なんだよね?」
そう言って笑顔で猫に語りかけた次の瞬間、赤い猫は赤髪の少年に変化した。簡素なシャツとズボンを身に着け、髪や瞳などがとにかく赤い色が印象的な美少年に。
「引きこもり王子は、牢屋でも引きこもり生活を楽しんでたの?」
何の穢れも無さそうな純真無垢な瞳で、ついさっきまで猫だった少年は言った。
しかしその言葉にショックを受けるよりも、シルヴィンは猫が少年になったという目の前の状況についていけず、ただ口をパクパク開閉することしかできなかった。
「馬鹿みたいな顔しないでよ。俺は、リリーのためにあんたをここから出してやる」
そう言うと、シルヴィンの手を引いて立ち上がらせ、鉄扉に向かって歩き出した。
「……え、でも、鍵が……うわあっ!」
扉があることなどお構いなしに勢いよく引っ張られ、思わずシルヴィンは目を閉じた。
扉にぶつかる! そう思ったが、痛みは一向に訪れない。恐る恐る目を開けると、まだ暗くじめじめした空間にいた。間違いなく地下牢だ。
しかし違うのは、先程までは牢屋の中に居たが、今は外側にいるということ。
「え……扉を、すり抜けた?」
間抜けな顔で赤い美少年を見つめると、こいつ本当に馬鹿だ、というような目で見られて悲しくなる。
「俺は妖精だぞ。お前ら人間とは違うんだよ」
その言葉を聞いて、シルヴィンは手を繋いだ少年をじっと見つめた。
「も、もしかして、フィーなの?」
「それ以外に誰がいるんだよ! お前妖精について調べてたんじゃねぇの?」
すいません、頭では理解していても現実に目の前に現れると混乱してしまって……などという弁解を考えていたシルヴィンだが、はっとフィーが来た目的を思い出す。
「リリーのために僕を出してくれるって……まさか、リリーに何かあったのか!」
「……まあ、な」
少し間を置いて答えたフィーの表情を見て、何か複雑そうな事情がありそうだとシルヴィンは覚悟を決めた。
「リリーはどこにいる?」
「なぁあんた、リリーのこと……本気で好きなのか?」
今の状況でどうしてそんなことを聞かれなければならないのだろう……と疑問に思ったが、フィーの真剣な眼差しを見れば、これが冗談ではないことぐらい分かる。
もちろん、答えは決まっていた。
「あぁ、大好きだ! 僕はもうリリーなしでは生きていけない身体になってしまったのだ!」
フィーの表情が歪んだ。うわーこいつまじかよ、という声が聞こえたような気がするが、きっと聞き間違いだろう。
「リリーのことは、何があっても守りたい」
自分は決して強くないし、話すことも苦手だし、本を読むしか能がない。そんなのでどうやってリリーを守るのかと言われても困るが、とにかく全力で守りたい。リリーのあの無邪気な笑顔を。
シルヴィンの真剣な瞳を見て、フィーはふっと笑った。
「……その言葉、信じるよ」
というフィーの言葉が耳に届いた直後、身体は宙に浮き、シルヴィンは何か強い引力に引っ張られるような感覚を味わった。
目など、開けていられなかった。叫ぶことすらできなかった。
* * *
シルヴィンが牢屋に入れられていることなど露知らず、リリーは王宮のとある一室に来ていた。
今日は珍しくシルヴィンが顔を見せに来ないな、などと考えていると突然呼び出されたのである。もしかしたらシルヴィンと入れ違いになってはいまいかと、そればかりが気にかかる。だから、目の前で大人の魅力を存分に備えたフリージアがこちらをじっと見つめているのにもしばらく気づかないでいた。
そういえば自分は王妃の部屋に来ていたのだった、とリリーは部屋に視線を移す。あえて、フリージアは視界に入れない。嫌でも入るが、視線を合せたりはしない。
グリーンで統一された、落ち着いた雰囲気の部屋。ここはかつてリリーを生んだ母ユリアが使っていた部屋だった。数えるほどしか入ったことはないが、リリーにとってこの部屋は母のものだ。
その部屋をフリージアが自分の部屋として使っているのを見たくない。それを実感してしまったら本当に母はもういないのだ、と認めてしまうことになるから。リリーは、母の遺体を見ていない、葬儀は執り行われたが、母の死んだ姿を見ていないのだ。もしかしたら、まだどこかで生きているかもしれない。そんなはずがないと頭では理解しているが、生きていてほしいと願わずにはいられなかった。
二年前、この部屋で真実を知ってからは特に。
しかし、今のリリーは二年前とは違う。いつもこの部屋にだけは近づきたくなくて、フリージアを避けてばかりいたリリーが自分から呼び出しに応じたのは、シルヴィンの存在があったからだ。リリーと共に生きたい、と本気で望んでくれた、優しい青の双眸。
リリーはシルヴィンを思い出し、ふふっと笑った。リリーの王子様は、どこまでも純粋で真っ直ぐだ。
シルヴィンに力をもらったような気がして、初めてリリーはフリージアと目を合わせる。
「何が可笑しいのです? リリアーヌ」
広い部屋の中央にある白いテーブルの上には、美しい細工の茶器と可愛くて甘い香りのするお菓子が並べられていた。今は、王妃と王女の二人だけの親子水入らずの楽しいお茶会のはずである。柔らかな物言いではあるが、目の前に座るフリージアは怪訝そうな顔でこちらを見ている。金色の髪をゆるく結い上げ、胸元の大胆に開いた藍色のドレスを身に着けたフリージアは、リリーにはない色気を完璧に備えていた。
「ふふ、ごめんなさい。気にしないで、お義母様」
気にするな、と言っても気にならない訳がない。リリーがフリージアの前でこんな無防備に笑ったのは初めてのことなのだ。フリージアはかつて王妃の侍女であったが、母が死んで六年経った今では王妃としての威厳が身についている。
しかし、リリーはどうしてもフリージアを王妃としては認められても、母とは認められない。
「リリアーヌ、あなたと話をするのはあの日以来ね」
忘れるはずがない。あの日からリリーの苦しみは始まったのだ。
「えぇ、そうですわね」
「身体の方は、どうなの?」
フリージアが少し緊張しながら尋ねる。今なら分かる、フリージアにも選択肢はなかったのだと。勝手に意地を張っていたのはリリーの方だった。
「とっても苦しいし、今にも死にそうだわ」
リリーは笑顔で答えた。
そして、そのままにっこりと笑って紅茶を飲む。
「……お義母様、そんな話をするために私を呼んだの?」
「いいえ、シルヴィン王子のことよ。あなた、彼に何を言ったの?」
やはり。リリーは予想通りの答えにまた笑った。そのことにまた怪訝そうな顔をしながらも、フリージアは話を続けた。
「昨日の夜、私の部屋に入って来たのよ。あなたの身体のことを聞かれたわ。何を話したの?」
「シルヴィン様は、私の毒について調べてくれているみたいなの」
「……何ですって?」
フリージアの目が大きく見開かれる。
「誰かが私の死を望んでいる、ということも言いましたから、毒を盛った犯人を捜していたのではないかしら?」
「犯人って、あれは……っ!」
フリージアが感情を抑えきれず立ち上がった時――――。
「リリアーヌ姫えぇぇぇぇっ!」
という叫び声が室内に響き渡った。その声の主を見て、リリーは満面の笑みを浮かべた。と同時に、罪悪感でちくりと胸が痛んだ。