6 脳内お花畑
「恋とは、こんなにも人を馬鹿にするものなのか……」
暗くじめじめした空間に、シルヴィンの呟きが響いた。石造りの壁に四方を囲まれたこの空間、唯一の出入り口は頑丈そうな鉄の扉……だが、扉には鍵がかかっていて開かない。
そう、ここはシルヴィンのような王子には到底縁のなさそうな場所、牢屋だ。この牢屋は大の男が四人両腕を広げて寝転べるくらいの広さを持ち、背の高いシルヴィンがおもいきり飛び跳ねられるくらいの高さはある。
光が差し込まず、じめじめしていることからおそらく地下牢だろう。
どう考えてもシルヴィンが鉄の扉を壊せる訳がないし、暇をつぶすための本もない……となれば考えるのはリリーのことだけだ。
可愛さと美しさを併せ持つリリーの姿を十分思い浮かべたシルヴィンは、ようやく現状について考えることにする。
リリーの毒のことを問い詰めるために王妃の私室へ入り込んだ……ことは覚えているが、その後の記憶がない。
シルヴィンはそっと後頭部を触る。鈍器のような物で強く殴られた所は、まだズキズキと痛む。幸い、血は出ていないようだ。
後ろに人の気配は感じていたが、害はないと思ったのだ。しかし目を覚ませば牢屋にぶち込まれているのだから、シルヴィンに人を見る目はないのかもしれない。
(でも、そうだよな。本ばかり読んでいて、生身の人間と接したことなんて数えるほどしかないから……)
だからこそ、驚いたのだ。
そんな自分がこんなにも強く惹かれる存在があったなんて。誰かのために自分を犠牲にしてもいいと思えるなんて。一人がよかったはずなのに、誰かとずっと一緒にいたいと思うなんて。
リリーに惹かれたのは、親が決めた相手だからではない。リリーに出会えたことに関しては父に感謝するが、もし相手がリリーでなかったなら、自分がこんなにも馬鹿になることはなかっただろう。シルヴィンにはない明るくて前向きな強い心をリリーが持っていたからこそ、これほどまでに惹かれたのだ。
リリーに会いたい。
今、シルヴィンの中にはその思いしかなかった。
牢屋の冷たくて固い地面にずっと座っていると、身体のあちこちが痛くなる。せめてベッドでもあればいいのに、と思うがもちろん何もない。こんな状況ではゆっくりリリーのことを考えることもできない。
――ん? これ、便所どうすればいんだ?
誰かに殴られて気絶し、牢屋に入れられても危機感なく落ち着いていたシルヴィンが、ここで初めて焦りを覚えた。
ただでさえ「引きこもり王子」だのと呼ばれているのに、「お漏らし王子」という不名誉な呼び名がついたら困る……という極めて深刻で重大な問題にシルヴィンが直面した時、鉄扉の向こうから足音が聞こえてきた。
「気分はどうだ?」
聞こえてきたのは、あの時シルヴィンの後ろに居たであろう人物の声だった。
「あまり良くはないかな。アイリシア、君がどうしてこんなことを?」
リリーの大切な侍女であるアイリシアが、シルヴィンを牢屋に閉じ込めた。これはリリーの意志なのか、それともフリージアによる命なのか。アイリシアのはっきりした性格上、後者は考えられないような気がする。あるいはリリーもフリージアも関係なく、アイリシアの個人的な感情から、ということも考えられる。悲しいことに、シルヴィンはアイリシアに心底嫌われているようだから。
しかし、アイリシアは答えない。
リリーを大切に思う侍女が、その婚約者である王子を牢屋に入れた。このことが公になれば、アイリシアはただでは済まないだろう。そんなことになれば、リリーが悲しむ。
シルヴィンは自分に冷たい侍女に苦手意識を持っていたが、リリーが信頼している相手だから大事にしたいと思っていた。だから、後ろに気配を感じても放っておいたのだ。リリーに不利なことは決してしないだろう、と。それでこういう状況になったのだから、シルヴィンには人を見る目がないのだろう。
(ん? それとも僕が何かリリーにとって良くないことをしていた、とか?)
自分の行動を思い返す。
あの時シルヴィンは、フリージアを問い詰めて解毒の方法を知るつもりだった。手遅れにならないうちに……と。かなり冷静さは欠けていたが、リリーのことを思うなら、アイリシアだって早く解毒方法を知りたいはずだ。
それなのに、アイリシアがフリージアとシルヴィンを接触させたくなかったのは何故なのか。どうしてこんな強硬手段に出たのか。
アイリシアは主であるリリーが絶対だ。
(まさか、僕はリリーに嫌われているのか……⁉)
自分は好意を持たれているのだと信じて疑わなかったが、もし優し過ぎるが故にリリーが自分のことを拒めないでいるのだとしたら……?
そんなことは考えたくはなかったが、考えてみれば誰にでも簡単に分かることだった。
相手は暗くて弱い引きこもり王子なのだ。そんな男を好き好んで夫にしたいと望む女性がいるはずがない。何といううぬぼれだろう。ショックだ。そして恥ずかしい。穴があったら入りたい。
――あ、もう牢屋に入っているからこのままでいいのか。よかった……ってそんなことを考えている場合ではない! リリーに好かれる男にならなければ!
「もう毒の件には関わらないと約束しろ。さもないとお前をずっとここに閉じ込めておく」
鉄の扉の向こうでアイリシアが深刻な声色で脅しをかけるが、シルヴィンは今それどころではない。
「お願いだ! 教えてくれ!」
ドンッ! と鉄の扉に勢いよく体当たりする。痛い、かなり痛い。しかしこちらも人生がかかっている、必死なのだ。
「だから、もう関わるなと……!」
苛立ちを含ませたアイリシアの言葉を遮ってシルヴィンは思い切り叫んだ。
「リリーの男性の好みを教えてくれっ!」
恋する男の切実な叫びが、暗くて冷たい地下牢に響き渡った。
しかし、アイリシアは答えることなくその場を去ってしまった。
シルヴィンはモテたいという感情をこの時初めて知った。と言っても相手はリリーに限る。
しかし、リリーが自分に向けてくれた笑顔は全部本物だった……はずだ。きっと、嫌われてはいない。
「僕は、リリーの笑顔がないともう生きていけない……」
一度、その光を見てしまったら、求めずにはいられない。暖かな太陽のような陽だまりが、リリーの側にはある。本当はずっと、シルヴィンの側にもあったのかもしれないが、見ようとしていなかった。暗い部屋に引きこもって、誰とも関わらずに生きていたいと思って周囲を拒んでいたのは自分だった。受け入れられたい、認められたい、誰かと一緒に笑い合いたい、そんな思いに気付かないふりをしていた。人との関わりを求める自分の心に蓋をした。
その蓋を開いたのは、リリーだった。初めて会った時から、リリーは眩しい笑顔を向けてくれて、引きこもり王子でも気にした様子もなく、シルヴィンの話を楽しそうに聞いてくれた。
シルヴィンがずっと求めていたものを、リリーが与えてくれた。リリーの笑顔にどれだけ満たされたか。
シルヴィンは、一人ではない幸せを知ってしまった。誰かと語り合う幸せ、笑い合う喜びを知ったのだ。
リリーの笑顔は、シルヴィンの幸せでもある。初めて知った幸せを失いたくない。誰かにその笑顔を奪われるなど許せなかった。
しかし、シルヴィンがやるべきことはリリーに毒を盛った犯人を見つけることではなく、リリーの側にいることだったのだ、と気づく。
こんな牢屋で落ち着いている暇があったら、リリーの側へ行きたい。ほっそりとした優しい手を握って、大丈夫だよ、と安心させたい。
たとえリリーに拒まれたとしても諦めない。
好きだ。愛してる。
リリーの笑顔を思い浮かべると、自然と心が温かくなる。優しい気持ちになれる気がする。一人で意地を張っていた時には感じたことがない不思議な気持ち。
やっと、部屋からも自分の心の殻からも出ることができたのに、外の世界にリリーがいてくれなければ意味がない。