5 愛する姫のために
辺りが茜色に染まりつつある夕暮れ時。
人気のない図書室で大量の本に囲まれ、鬼のような形相でページをめくっているのは、フィルーノ王国に婿入りが決まったシルヴィン王子。
侍女たちの間では、背が高く、爽やかで、かっこいい、まさに理想の王子様……という声が上がっていたが、すぐにその意見は変わることになる。
残念なイケメン、引きこもり王子、根暗、気持ち悪い等……散々な言われようである。どんまい、としか言いようがない。
背が高いと言ってもひょろっとしているし、爽やかなのは単に金色の髪がサラサラなだけで、かっこいいと言ってもアイリシアの好みではない。つまり、理想の王子様なんかではない訳だ。
この王子のマイナスなイメージを広めたのは、他でもないアイリシア自身なのだが、そんなことはどうでもいい。
アイリシアがリリー様と出会ったのは八年前。
貧しかったアイリシアは生活に困り果て、ダメ元で王宮に盗みに入ることにした。平和ボケしていたのか、アイリシアはすんなりと王宮に忍び込むことができた。しかし、広い王宮で誰にも見つからずに……なんてできるはずがない。その時、忍び込んだアイリシアを見つけたのが、まだ八歳のリリー様だった。当然牢屋に入れられるだろうと覚悟したが、リリー様はアイリシアを侍女として雇いたいと言った。国王モルゾフも娘に甘いためにそれを認めたのだ。あり得ない!
しかし、アイリシアはこの時たしかにリリー様に救われた。
リリー様は、どこにも居場所のなかったアイリシアに生きる場所を与え、今まで知らなかった暖かな愛情をもって接してくれた。リリー様に出会って、アイリシアは幸せを知った。
出会ってから今まで、アイリシアはリリー様のためだけに生きてきたのだ。
大事に大事に見守ってきたリリー様をあんな何の役にも立ちそうにない王子に任せてたまるか。
リリー様に対する愛情故に、アイリシアはシルヴィンを嫌悪の対象とみなしていた。
その王子が連日図書室にこもって何やら只ならぬ様子で本を読んでいる、と侍女や騎士たちから情報を受けたアイリシアは仕方なく図書室に来た。本当は引きこもり王子などどうでもいい。
「何をしている?」
絶対零度の眼差しで、アイリシアは本にかじりついている王子を見つめる。数拍待っても、王子がアイリシアに顔を向けることはない。無視されたことに腹が立ち、アイリシアは彼の読んでいた本を取り上げた。そして、その本の内容を見て目を見開く。
「……毒の本? まさか、リリー様の毒をどうにかするつもりなのか」
「……あぁ。だって、リリーとずっと一緒にいたいと思ったから」
いつの間にリリー様を気安く「リリー」と呼ぶようになったのだ、とまたさらにアイリシアの苛立ちが増す。しかし、頼りないはずの王子の空を思わせる瞳があまりにも真剣だったので、アイリシアは威嚇することも忘れて答えていた。
「リリー様の毒は、普通の毒とは違う」
「もしかして、妖精の力が関係しているの?」
その言葉を聞いてはっとした。他国の人間にこの国に住む妖精の存在を知られてはいけない。
「どこでそれを……!」
「今までいろんな本を探したけど、リリーの症状に当てはまる毒は見当たらなくて、何か特別な力が関係しているのかなって。例えば、妖精とか……。この国には妖精伝説の本がたくさんあるようだし」
よく見れば、王子の目の前に詰まれている本の山の中には、毒の本だけではなく、子供だましのような妖精に関する絵本なども置かれていた。リリー様の毒に関して何も教えていないのに、しかも他国の人間が妖精の存在をあっさり受け入れて、核心に触れようとしている。
「リリーは死にかけているけど、まだ死んでない。妖精の力を借りることができれば、きっとリリーを助けられる!」
アイリシアの反応を見て、妖精の力が関係していると確信を持った王子は、目を輝かせて力強く語った。知らない方が幸せなことだってあるのに、目の前で希望を持っている王子を見てアイシリアは溜息を吐く。
「何も知らないくせに……」
また本に夢中になった引きこもり王子に背を向けて、アイリシアは愛しい姫の元へ足を向けた。
*
リリーの侍女アイリシアが去った方をちらりと見て、シルヴィンは再び本を開く。
落ち着いて物事を考える時には、本に囲まれた静かな空間が一番いい。シルヴィンは窓際に陣取り、両手 いっぱいに抱えた本をバサバサと机に並べていた。
シルヴィンは、一度読んだ本は忘れない。記憶力だけはいいのだ。知識だけなら兄よりも持っているかもしれない。ただ、実践が向いていないだけで……。
リリーの毒は普通の毒ではないのかもしれない、という可能性はアイリシアによって確信に変わった。妖精が関係しているということも。
(いろんな本を読んでいてよかったな……)
フィルーノ王国は、かつて妖精国と呼ばれていた――という伝説をシルヴィンは本を読んで知っていた。王族として必要な政治学から嘘か本当か分からないような都市伝説まで、シルヴィンは色んなジャンルの本を読んできた。妖精について書かれていた本もいくつかあって、その中の一つにフィルーノ王国と妖精について書かれていた本があったのだ。
しかし、妖精が実在する、とは誰も信じていない。
この国が妖精国と呼ばれていたのは、緑豊かなフィルーノの地や穏やかな天候が妖精の加護だと言われていたからである。その名残か、この国には妖精伝説も数多く残っている。
この図書室に置かれている本は、シルヴィンが個人的に集めた妖精に関する本の数をはるかに超えていた。自分の部屋も図書室と言っていいほどに本を揃えていたのに!
ちなみにその数千冊もの本はシルヴィンの婿入りと同時に国立図書館に寄贈されてしまった。お気に入りの数冊だけ、シルヴィンと共にフィルーノ王国に持ち込んだ。
そんな妖精伝説が残るフィルーノ王国だが、妖精の存在を信じているのはごく少数だけだ。フィルーノ王国が妖精は伝説上の生き物だとしているので、信じている者はただの馬鹿だと思われる。
シルヴィンは、もちろん妖精の存在を信じている。
不思議な力を使う妖精。もし出会うことができたなら、リリーの毒を消してくれるだろうか――そう考えた時、ふと脳裏に浮かんだのは赤い猫だった。
フィーと呼ばれていたあの赤い猫は、普通ではない。もしや妖精なのでは、とシルヴィンは妖精伝説に赤い猫の姿はないかと片っ端から本にかじりつく。しかし、赤い猫はどこにもでてこない。
そのかわり、一つ気になる記述を見つけた。かつて不思議な力を持つ妖精でさえもどうにもできなかった毒がある、というものだ。その毒によって、多くの妖精が消えてしまった。現実的ではない妖精の話だが、普通ではないリリーの毒と無関係とは思えなかった。シルヴィンはその毒の対策について書かれた文を探す。
……その毒を中和できるのは――――“奇跡”だけだ。
シルヴィンは思わず力任せに本を叩いていた。リリーを助けられるヒントを得られると思っていたのに、毒を消すことができるのは“奇跡”だなんて。
今のリリーの状態を思えば、奇跡など待ってはいられない。
妖精の毒を手に入れ、リリーに飲ませた本人ならば、何か知っているかもしれない。
ユリアも同じように妖精の毒で亡くなったのだとしたら、怪しいのは一人だけだ。火のないところに煙は立たない。王妃フリージアは、ユリアを亡き者にし、その娘リリーの命までも奪おうとしたのかもしれない。
シルヴィンは図書室を出て、王宮――王妃の部屋を目指して歩く。
窓から差し込む月明かりは、もう夜であることを示していた。本を読んでいると、つい時が経つのを忘れてしまう。
王宮に続く広い廊下には赤い絨毯が敷かれていて、足音を消してくれる。白い壁には幾何学模様の彫刻が施されており、奥に行くほど豪華になっていく。王族の私室があるからだ。何人かの騎士に出会ったが、シルヴィンのリリーに対する深い愛を心得ているのか、みんな複雑そうな顔をして見過ごしてくれる。これがアイリシアだったら即刻追い出されていただろう。
入り組んだ迷路のような構造をしているこの王宮は、何も知らない人間が入り込めば確実に迷子になる。
四階建ての王宮内には部屋が千近くあり、階段の数は大小合わせて三十を超える。それに加え、同じような場所が何か所もあり、扉の向こうは必ずしも部屋ではない。開けてみれば階段室だったり、物置だったり、ただの壁だったりするのだ。外から見れば、ただのシンプルな長方形のお城なのに、中はとてつもなく複雑だ。
よくこんな建物ができたな、と思うが、妖精がいた時代からある城ならば不可能ではないのかもしれない。
住み慣れた使用人でさえ迷うこともあるという恐ろしい王宮内を、シルヴィンは地図も見ずにさっさと歩く。
もう、王宮内の地図はすべて頭に入っている。
地図に描かれていない隠し通路がある位置は、リリーとかくれんぼをしながら見当を付けておいた。もちろんそれはこんな時のためではなく、リリーの部屋に続く隠し通路を見つけるためだったのだが、今はそんな下心に感謝したい。
おかげで正しい扉の前で立っている見張りの騎士に見つからずに忍び込むことができるのだから。
かすかな物音に、部屋の主は気付いた。
「……一体誰がいるのです?」
フリージアの脅えた声を聞いて、珍しく冷たい空気を纏ったシルヴィンは影から姿を現した。
シルヴィンを見て、フリージアは大きく目を見開いた。何故あなたがここに、という疑問が分かりやすく顔に出ている。
「夜分遅くに申し訳ありません。フリージア王妃に一つ、確認したいことがあるのです」
軽く頭を下げ、鋭い視線をフリージアに向ける。フリージアは何のことだか全く分からない、といった様子でこちらを伺っている。
「リリーの身体のことです。何も知らないとは言わせませんよ」
その一言で空気が重くなる。フリージアはこちらの意図を理解したようだった。先ほどまでとは打って変わって毅然とした態度でシルヴィンと向かい合う。
「あなたは、何を知ったというのですか?」
感情を殺したフリージアの声が聞こえ、口を開きかけたが、それに答えることは叶わなかった。
何故なら、シルヴィンは後ろから何者かに殴られ、意識を失ってしまったからである。それが何者であるのか、シルヴィンはなんとなく察していた。
意識が遠のくのを感じながら、やはり自分はかっこよくリリーを救う騎士にはなれないのか……と悲しくなった。