2 一目惚れ
シルヴィンには、十も歳の離れた兄がいた。
メバルディ王国第一王子として完璧すぎる兄。
シルヴィンは生まれた時から兄と比べられ、評価されてきた。何をしても、完璧な兄には勝てなかった。どうしたって、優しくて、賢くて、強くて、頼りになる兄のようにはなれない……もう頑張ることさえ嫌になって、すべてを放棄して自分の部屋に引きこもった。初めは両親や兄、使用人たちは引きこもったシルヴィンをどうにかしようと声をかけてきたが、そのうち誰も気にかけなくなった。
引きこもったシルヴィンの心の支えは、本だけだった。
本はいい。読書はいい。シルヴィンを知らない世界に、現実とは違う世界に連れ出してくれる。自室にこもっていながら世界中を旅することだって、勇者となって戦うことだって、何もできない自分が主役になることだってできるのだ。本を読んでいる時だけは、両親に呆れられた自分、第二王子としての責任、世間の目、それらすべてから自由になれた。シルヴィンはそれで幸せだったのだ。
このまま一人部屋の中で生きて行こう、そう思っていたのに……。
『お前がいつになっても引きこもり王子だなどと言われているから、フィルーノ王国の姫君との結婚を決めたぞ。少しはわしの役に立ってみろ!』
二十二歳になっても引きこもり続ける息子を心配して、というより呆れ果てた父王の一言で、シルヴィンの引きこもり生活は終わりを告げた。
話を聞いてみると、フィルーノ王国の国王から第一王女の婿を探していると相談があったらしい。それを聞いた父は、じゃあうちの引きこもりの息子をもらってくれないか、ということであっさり縁談がまとまってしまったのだという。当人不在のままで。
しかしシルヴィンも、王子でありながら引きこもり生活を許されていたことには感謝していたので、不本意ながらも婿入りに納得することにした。
そうして今日、フィルーノ王国に到着したのだ。父の命令だったのか、同行した使用人たちは皆、シルヴィンだけを置いて国に帰ってしまった。引きこもり王子の性根を叩き直すつもりなのだろう。父がこんな強引なやり方をするのは初めてだ。
しかし、だからといって相手がこんな引きこもり王子を好きになる訳がない。
それに、相手は十六歳の年頃の娘だ。きっと王子様に夢見ているに違いない。シルヴィンのような弱々しくて女々しい王子はお断りだろう。
そうなれば、また部屋で引きこもることができる! などと甘いことを考えていた。
本の世界にしか興味を持たず、他人とは極力関わらないようにと生きてきたシルヴィンにとって、今腕の中で太陽のごとく明るい笑顔を浮かべる娘は未知なるものだった。
どうしても、目が離せない。
この至近距離でまだシルヴィンの存在に気付かず笑う、楽しそうな彼女の視界に入りたい。その眩しい笑顔を自分に向けて欲しい。何故か、そんな思いが胸に生まれていた。
しかし、シルヴィンは自分から初対面の相手に声をかけられない臆病者である。
あははは、とひとしきり笑った後、ようやく娘はシルヴィンを赤い瞳でじっと見た。人に真正面から見つめられる経験が少ないシルヴィンは、緊張して息がうまくできなくなる。あんなにこちらを見てほしいと思っていたのに! 実際は、見られたら見られたで何もできないのだ。
しかし、じっとこちらを見つめる赤い瞳からはやはり目が離せない。シルヴィンはどうにか話しかけるきっかけを掴もうと必死で頭を使うが、目の前の娘の美しさに脳が思考を停止してしまう。
そして――――
「……リリー様あああぁ!」
突然現れた黒い影がシルヴィンの腕の中から美しい娘を奪い去った。
ほんの一瞬の出来事だった。
「リリー様、勝手に出歩かないでくださいとあれほど申しましたのに……」
黒い影の正体は、背の高い女性だった。ぴしっとまとめ上げた長い黒髪と、意志の強そうな黒い瞳を持つ、なんだか冷たい印象の女性だ。侍女のお仕着せを着ている、ということは娘に仕えているのだろう。
「だって、フィーがまたどこかに行ってしまったから」
そう言って笑った美しい娘は、いつの間にかその細い腕の中に赤い猫を抱いていた。
(リリー……? どこかで聞いたことがあるような)
「フィー様は大丈夫ですよ。それよりも、もう着いているみたいですよ」
「え、誰が?」
「リリー様と結婚するなんておこがましいメバルディ王国の引きこもり王子が、です!」
ぎりり、とこちらを睨みながら告げた侍女の言葉に、シルヴィンは叫び声を上げた。
「……ももも、もしかして……フィルーノ王国のリリアーヌ姫であらせられますかっ?」
興奮と緊張と久しぶりの他人との会話でしどろもどろになりながらも、シルヴィンはリリーの元へ歩み寄る。しかしその間に背の高い侍女が割り込み、リリーの姿を隠してしまう。それでも、その向こうにいるリリーからの声は届いた。
「えぇ。そうですが、あなたは……?」
「ぼ、僕は……その、ひ、ひ、引きこもり王子です!」
やってしまった。
引きこもりだという自覚はあるものの、自分で言って悲しくなる。しかも、初めての一目惚れの、のちに夫婦となるであろう女性相手に。
もうダメだ、終わった、そう思った時――――
「うふ、あはは、ははは……!」
リリーの可愛らしくも元気な笑い声が聞こえた。笑ってくれた、この美しい人がシルヴィンの言葉に。
しかし時々ごほごほと咳き込み、血を吐いているのが心配で堪らない。
リリーの後ろには死の影が見えていた。今は明るく笑っているが、先程までは確かに死んでいるようだったのだ。医者でもないシルヴィンが一目見ただけで死の影を感じたのだから、その身体の持ち主が感じないはずはない。フィルーノ王国の王女が病弱だという噂は真実だったのだ。
それなのに、今、目の前で微笑むリリーからは死の影は一切感じられない。死の不安と恐怖という闇を持ちながらも、その闇に呑まれず光を求めて前を向いているからだろうか。初対面のシルヴィンには、彼女がどれだけの苦しみをその笑顔に変えているのかは分からない。そして、知らないことがどうしようもなく嫌だと思った。
リリーのことをもっと知りたい。
その笑顔をいつも見られるように側にいたい。
「近寄るな。貴様のようなひ弱な男がリリー様に何ができる? さっさと国に帰って引きこもってろ」
笑いながら血を吐く姫の背をさすりながら、侍女が冷たく言った。無意識にシルヴィンはリリーに近づいていたらしい。侍女の鋭い視線と暴言が胸を刺す。
(あれ……? 僕、王子だよね……?)
明らかにシルヴィンがその引きこもり王子だと分かった上での言葉に、唖然とする。
一応王族であるシルヴィンは、面と向かってきつい言葉を投げつけられたことはない。もちろん、影で引きこもり王子だと呼ばれていることは知っていたし、実際引きこもっているのだから何も言い返せないが、こんな風に真正面から敵意をむき出しにされるのは初めてだ。あまりの衝撃に、シルヴィンはぽかんと口を開ける。
「もう、シアったら。そんな風に言っちゃダメよ。私の旦那様になる方なのだから」
ね、と片目を瞑ってみせたリリーに、シルヴィンの心臓はがっしりと鷲掴みにされた。
(旦那様、旦那様……あぁ……僕が旦那様……!)
これが一目惚れ! これが恋!
そのあまりにも強い衝撃に、シルヴィンの心臓はドクドクと激しく脈打つ。鼓動がうるさくて敵わなかった。
この日、シルヴィンは初めて恋を知った。
小説や物語の中ではない、現実の恋を……。