13 猫の独白
――――リリーが幸せそうでよかった……。
ふらふらと当てもなく王宮内を歩きながら、フィーは先程見た光景を思い出していた。シルヴィンの愛で目を覚まし、幸せそうに心から笑うリリー。ずっと毒に苦しめられていたリリーを見ているのは、本当に辛かった。ようやく、リリーは未来ある幸せのために笑うことができる。本当によかった。フィーは心からそう思っていた。
たとえ、リリーを妖精界に連れ帰ることがフィーの役目だったとしても……。
ユリアは人間に騙されて妖精界を捨てたのだ、と皆が思っていた。だから連れ戻せ、とフィーは妖精界の王に言われて人間界に来た。
しかし、それは違っていた。ユリアは人間の愛情のために妖精界を出た。そうでなければ、リリーがあんなに明るいはずがない。
フィーがユリアの居場所を見つけた時、彼女はもう亡くなっていたから、ユリアの代わりにリリーを連れ帰ることにした……が、リリーは自分が妖精と人間の子であることを知らなかった。フィーはあえてその事を教えなかった。人間界にいるリリーがあまりにも楽しそうだったから。
しかしある時、リリーは義母フリージアに真実を告げられ、自ら毒となるシュリの花を口に入れた。
かつて人間との争いで妖精側が不利な状況に陥ったのは、シュリの花が原因だった。
あの時から、妖精たちはシュリの毒を中和するための方法を研究してきた。それにより、毒を消すことはできなくても、毒を抑えることができるようになった。フィーもその力を身につけた数少ない妖精だった。まさか人間と妖精の子であるリリーのためにその力を使うことになろうとは思いもしなかったが。
人間界にいる時の一番楽な姿が猫だったので、フィーは白い猫として存在していた。
しかし、リリーの毒を抑えるたびに、真っ白だった毛並みは赤く染まっていった。
毒を抑える代わりに、毒の影響は自分に返ってくるのだ。リリーには、妖精は力を使うたびに体の色が変わるのだと誤魔化していたが、本当はフィーの生命力でもある力は残りわずかとなっていた。これ以上力を使えば、自分の存在が消えてしまう……という時に、あの王子が現れた。強烈な愛の力を持って。
うっとおしくて、面倒臭くて、頼りない引きこもり王子だったが、フィーはリリーと同じようにシルヴィンに賭けることにした。
そして、二年間もリリーを苦しめ続けた毒を消す、という奇跡のようなことを、見事あの王子はその強い愛で成し遂げたのだ。
(俺は、どうしよう……)
連れ戻すべき相手はもういない。人間界にいる理由はない。普通なら、すぐに帰るべきだ。人間は妖精を殺すような残忍な生き物なのだから。しかし、それでいて深い愛の力を持っている。相反する力を持つ、不思議な存在。
「どうした? フィーよ」
今後について考えていたフィーの頭上から、朗らかな声が降ってくる。いつの間に自分はここに来てしまったのだろう。
無意識にたどり着いたのは、国王モルゾフの執務室。
にゃあ……と鳴いてみせてから、フィーはくるりと方向転換をする。リリーの父であるこの男はどうも苦手だ。フィーがユリアを連れ戻すために来た妖精だと気づいていながら、友人のような態度で接してくる。
「おい待て。せっかく来たんだ、ゆっくりしていけ。そしてリリーの話をわしに聞かせてくれ」
モルゾフは、なぁ頼む! と白い歯を出してにっと笑う。フィーはこの笑顔を向けられると、どうも無下にはできない。
立派な椅子に座り、立派な体格をした国王が、自分の膝をぽんぽんと叩き、フィーを呼ぶ。仕方なくフィーはその膝に乗ってやり、ごろんと寝転ぶ。しかしモルゾフの膝は固くて痛い。やはりリリーの膝が一番だ。
「リリーは、あの王子の暑苦しい愛のおかげでもう心配ない……」
素っ気なくそう言うと、モルゾフは豪快にフィーの赤い毛並みをわしゃわしゃと乱した。
リリーは知らないが、本当はこの男はリリーの身体が毒に侵されていることも、その毒が“奇跡”によって消えることもすべて知っていた。愛するユリアをどうすれば救うことができたのか、誰よりも熱心に調べていたのはこの男だったから。王宮中、いや王国中からシュリの花を消したのは、国王モルゾフだ。
しかし、シュリの花の種を娘が隠れて持っていたことには気づかなかった。そのことに、この男はかなりの責任を感じていた。妖精にとって毒だと知っていたのに……と。
モルゾフは娘まで失いたくなかった。フィーの力で抑えられるのにも限界がある、と分かった時、モルゾフは娘のために結婚させることを考えた。リリーを心から愛してくれる純粋な相手を探していて、見つけたのが引きこもり王子だった。世間的にいい評価は聞かない男なのに、モルゾフはリリーの婿としてはこの男しかいない、とすぐに決めてしまった。
引きこもっていたあの王子は、一つのことに夢中になるとそれに真っ直ぐ突き進む、本当に良く言えば純粋で悪く言えば馬鹿な男だった。想像以上にリリーへの愛情がすご過ぎてフィーは恐ろしいとさえ思う。あの男の本質までモルゾフが理解していたとは思えないが、結果的にリリーは助かった。
「そうかそうか。リリーはもう大丈夫か!」
と、興奮気味に言った後、モルゾフはフィーの体を持ち上げて自分の目の高さに合わせた。
「フィー、本当にありがとう。お前がいてくれてよかった。リリーのためにも、わしのためにも……」
モルゾフは目に涙を溜めながらも、フィーに眩しい笑顔を向ける。毎回毎回会う度に同じような言葉を聞かされ、その度にフィーはむず痒い気持ちになる。だからこの男は苦手なのだ。
もう話は終わっただろうと思ったが、違った。モルゾフはフィーを抱き上げたまま見つめているばかりで、まだ下ろしてくれない。
じっと黙っていたモルゾフは、ふるふると震えながらようやく言葉を紡いだ。
「……ずっと、側にいてくれないか?」
誰の、とは聞かなかった。
リリーの側には十分過ぎる愛を持つシルヴィンがいる。
しかし、モルゾフの側にいた、心から愛していたユリアはもういない。秘密を守るために迎えた妃フリージアでは、モルゾフの心は埋められない。ただ、悲しいだけだ。
娘のリリーを可愛がることを心の支えにしていたのに、その娘にももう伴侶ができる。娘のためにとモルゾフ自身が強く勧めた縁談だが、寂しくないはずがない。
何故かそんなモルゾフの気持ちが分かってしまうフィーは、その手を振り払えない。いつの間にか、同じ妖精だからと気を許していたリリーとは違う感情を、このモルゾフに抱くようになったらしい。
人間界に来て、妖精界では知らなかった感情をたくさん知った。ユリアが妖精界ではなく人間界を選んだ気持ちが今なら少し分かる気がする。
「仕方ないな。国王のくせに俺がいないとダメなんだから」
フィーが妖精界に帰るのはまだ先になりそうだ。
強そうに見えて、かなり寂しがり屋の“友人”のために。