11 侍女と王子の攻防
(いない。どこにもいない……)
アイリシアは、雪の積もった中庭、サロン、図書室、厨房、騎士の控えの間、侍女の部屋にいたるまで、リリー様が行きそうな場所はすべて探したが、どこにもいなかった。
気まぐれに帰っているかもしれないと再び部屋に戻っても、やはりいない。おかしい。
もうすぐ夜になると言うのに、どこへ行ってしまったのだろうか。
こんな事は今までなかった。リリー様がどこかへ消えてしまっても、アイリシアは見つけることができたのだ。それは、アイリシアがリリー様と築き上げた信頼関係あってのこと。
今までと違うことと言えば……と考えて、あの馬鹿王子の顔が浮かぶ。
(まさか……いや、そんなはずはない。あの馬鹿はまだ牢屋の中)
そう自分を納得させようとするも、アイリシアの足はシルヴィンを閉じ込めた地下牢へと向いていた。
「おい! 引きこもり王子!」
声をかけても、返事がない。いやいや、寝ているだけなのだろう。そう思って何度も呼びかけるが、地下にアイリシアの声が響くだけで、何の返事も聞こえてこなかった。さすがにおかしい、と思ってアイリシアは用意していた鍵で鉄扉を開いた。
(……いない! どういうことだ? どうやって抜け出した?)
しかしあの馬鹿王子に脱獄の素質があるとは到底思えないし、半日で脱獄など不可能だろう。
考えられる可能性は一つだけだ。あの赤い猫が妖精の道を使って引きこもり王子をこの牢から出した……そうとしか考えられない。
赤い猫は、アイリシアがシルヴィンを牢屋にぶち込んだことをリリー様に告げ口してしまっただろうか。リリー様に懐いているフィーというあの妖精は、自分と同じようにシルヴィン王子を気に入らないと思っている同士だと信じていたのに。これは思わぬ裏切りだ。
しかし、フィーがそこまでしてシルヴィンを牢から出したとなると、リリー様の身に何か起こったのかもしれない。
その考えに思い至ると、アイリシアはすぐに地下牢を出て、固い表情で王妃の部屋を目指した。王宮内でリリー様に危険が及ぶ場所、といえば王妃のところしかない。
二年前、フリージアに会いに行ってから、身体の調子が悪くなったのだ。聞けば、リリー様は自分で毒を飲んだのだというではないか。一体どう転べばそんな状況になるのだ。心優しいリリー様はフリージアを庇っているだけに違いない。そう確信したアイリシアは、その日からずっとフリージアを敵視していた。リリー様の手前何もできなかったが、もし次何かあればただではおかないと心に決めていた。
何故かあの引きこもり王子に対しては、リリー様は誰かに毒を盛られたと嘘をついていたが、アイリシアにとってはそれこそが真実だ。フリージアは妖精話で誤魔化しているに違いない。
アイリシアはフリージアを心底嫌いだが、リリー様はそうではない。
自分が毒を飲まされる状況に置かれていたにも関わらず、ただ怖いだけで嫌いではない、などと生ぬるいことを笑顔で言ってみせる。リリー様はフリージアと接する時だけは緊張して表情が固くなってしまう。きっと、毒を飲んだ時のことを思い出すのだろう。
リリー様が悲しそうな表情をする度に、アイリシアはフリージアに小さな嫌がらせをしていた。わざと水をぶちまけてみたり、虫の大群がついていくように仕向けたり、部屋の前の床を滑りやすくしてみたり……リリー様からお願いだから何もしないで、と止められていたから、地味で誰も気付かないような嫌がらせしかできなかったことが残念で仕方がない。
フリージアは、ただ身分が高い貴族の家に生まれて、たまたま王妃様の侍女になって、王妃様が亡くなったことでこれまたたまたま王妃になっただけの女である。
アイリシアが畏れ敬うべきは、リリー様と国王モルゾフだけだ。
娘が大好きな国王モルゾフは、リリー様の信頼厚く、忠実で能力の高い自分を簡単に追い出したりはしない。それに、自分ほど大胆で行動力のある侍女はいない!
実際、アイリシアはかなりの無茶をしながらも、追い出されることなくリリー様の侍女として残っている。
そんなことを思いながら王妃の私室に近づいていると、アイリシアの進行方向から見覚えのある……というか目的の人物、王妃フリージアがやってきた。
夜だからか、大胆に胸元が開いたドレスを着ているフリージアは、世間一般でいえば美しい部類に入るのだろう。アイリシアは何とも思わないが。
腹の中では色々と思うことあれど、一応アイリシアは頭を下げる。
「顔を御上げなさい、アイリシア。あなたに頭を下げられると逆に怖いわ……」
今までの嫌がらせがアイリシアの仕業であると気づいているのだろう。アイリシアをどうにかしようと思えばできたはずだが、フリージアが何かしてきたことは一度もない。しかし、だからと言って大切なリリー様を怖がらせる人物を許せるはずがないのだ。
アイリシアは不機嫌な顔を隠しもせず、目の前のフリージアを睨んだ。背の高いアイリシアから見れば、小柄なフリージアを見下ろすことになり、そのまま冷たい視線を向けると、かなり威圧感がある。
自国の王妃を威圧しながら、アイリシアはリリーのことを聞いた。
「リリーなら私の部屋で寝ているわ。心配しなくても大丈夫。今、シルヴィン王子が……」
フリージアの言葉を最後まで聞かずにアイリシアは駆け出していた。
(やはりあの王子、リリー様のところにいたのかっ……!)
凄まじい速さと勢いで王妃の部屋に辿り着き、扉を開く。しかし、そこにはリリー様の姿も忌々しい王子の姿もない。入ってすぐの部屋は、テーブルの上に茶器と食べかけのお菓子があるだけだ。アイリシアは一直線に奥の扉へ走り出す。
この扉を開ければ寝室だ。
扉の向こうにリリー様がいる! そう思い、アイリシアには珍しく笑顔を浮かべて扉を開くと、そこには信じられない光景が待ち構えていた。
笑顔は一瞬で凍りつき、身体は勝手に動いていた。
「やぁめぇろぉ――――っ……!」
美しい眠り姫を目覚めさせるため口づける王子様の図……に見えるはずもなく、アイリシアは目の前で繰り広げられている悪夢――無抵抗な姫を執拗に追い回し襲う悪質ストーカーの図――に悲鳴を上げていた。
そして、アイリシアは全力で、全身全霊をかけて、リリー様の婚約者とか友好国の王子だとか関係なく、シルヴィンに向かって湧き上がる怒りそのままに見事な飛び蹴りをくらわした。
「私のリリー様に何てことをしてくれる! これでリリー様のお体がさらに悪くなったらお前どう責任をとるつもりだ! あぁ、ほら、こんなにもお顔が赤く…なって……?」
シルヴィンを押しのけてリリー様の美しいお顔を覗き込んだアイリシアは言葉を詰まらせた。あんなにも青白く、冷たかったリリー様の顔には赤みが差し、頬に触れると暖かい。
フィーが妖精の力でリリー様の身体の毒を何とかしたのだろうか? そう思ってベッドの上に寝転んでいる赤い猫を見ると、素知らぬ顔をして消えてしまった。何故リリー様の元へよりにもよってあの王子を連れてきたのか、ということも聞きたかったのに逃げられた。
「……僕の愛の力だよ」
アイリシアの飛び蹴りを受けて床に突っ伏していたシルヴィンが、得意げに言った。
そのままずっと眠っていればよかったのに、とアイリシアは冷めた目で睨む。そうすると、ふふ……と勝ち誇ったような笑顔みを向けられた。
ボカッ……!
無意識に手が動いていた。やってしまった。アイリシアは少し後悔する。それはもちろんシルヴィンを殴ったことに罪悪感が生じて、という訳ではない。
(あ~、拳で殴ると自分の手まで痛くなる。次は何か武器を使おう)
しかし、何が愛の力だ。胡散臭い。卑しい欲望の塊のくせして何を誇らしげに言っているのだろうか!
「馬鹿の気色悪い愛など、かえって身体に毒だということが分からんのか! リリー様には私の愛だけで十分だ。馬鹿王子はさっさとお家へ帰れ! そして引きこもれ!」
「嫌だ! 僕は絶対リリーの側から離れない!」
冷たく言っても食らいついて来る。非常にうっとおしい。だとすれば、次は脅しだ。
「性質の悪いストーカーめ! 国に強制送還されるのと、知らないうちに消されるのどっちがいい?」
「どっちも嫌だ! というか、何それ怖い……でも僕だってリリーを思う気持ちは誰にも負けない!」
「いや、私の方が!」
「いや、僕だ!」
「私だ!」
「僕だ!」
という言い合いをアイリシアとシルヴィンが繰り広げていると、明るい笑い声が聞こえてきた。
「リリー様っ!」
「リリーっ!」
馬鹿王子と声が被ってしまったことにイラついたが、リリー様の元気そうな姿を見るとちっぽけな王子の存在などどうでもよくなった。
「ふふふっ……ありがとう、二人とも」
リリー様の笑顔で、薄暗い寝室に明るい花がぱっと咲いたようだった。
そうだ。こんな風に心から笑うリリー様が見たかったのだ、自分は。その笑顔につられるようにして、アイリシアもふっと笑った。