10 奇跡を
「リリー、辛かったね」
フリージアの話を聞いて、シルヴィンはリリーが何故あんなにも明るく笑うことができるのだろう、と不思議に思った。
毒に蝕まれた身体よりも、リリーの心は苦しんでいたはずなのに。
辛く悲しいことがあったとしても、前向きに“今”を生きるためには、どれだけの強さが必要だっただろうか。
リリーを支えたい。心からそう思った。
(リリー、どうして毒を盛られたなんて嘘を……?)
全てを知っていたリリーが何故、シルヴィンにあんなことを言ったのだろう。
シルヴィンは青白い顔をしたリリーを見つめ、考える。リリーの本当の気持ちを。
誰かに殺されそうになった……ということにした方が、自分が母を殺したと思うよりも気持ちが楽だったのかもしれない。
しかし、現実を受け入れられない人間が、あんな眩しい笑顔を見せられるだろうか。
あえて嘘をついたのだとしたら、一体何のために?
と、考え始めて、シルヴィンはすぐにやめた。
リリーが嘘をついた理由や目的を知ったところでシルヴィンには関係ない。
たとえリリーがフリージアを陥れるために嘘をついたのだとしてもシルヴィンは受け入れていただろうし、リリーが男をたぶらかす完全な悪女だったとしても側にいたいと思う。シルヴィンは、どんなリリーだって、リリーであればそれでいいのだ。
リリーに嫌われることはあっても、自分から嫌いになることは絶対にない、そんな自信がシルヴィンにはあった。
美しいその姿、明るい笑顔、透き通る声、リリーのすべてにシルヴィンの心はもう囚われていたから。
「……フィー、教えてくれ。どうすればリリーを助けられる?」
おそらく、昨日読んだ本に書かれていた妖精の毒がシュリの花で間違いないだろう。本には、その毒を消す方法が“奇跡”だと書かれていたが、どうすればその奇跡を起こせるのか。頼みの綱は妖精であるフィーしかいない。
真剣な瞳でじっと見つめると、フィーは小声で何か呟いた。
「…………」
「……え? どうすればいいんだ?」
あまりにもぼそぼそと喋るものだから、シルヴィンには聞き取れない。猫の姿だから、喋りにくいのだろうか。だったら、少年姿に変わってくれればいいのに。そう思いながらも、シルヴィンはフィーの言葉を聞き逃さないよう集中した。
「……キ…ス……」
「ん? き、す?」
なんだろう。何かの暗号だろうか。おまじないか何かだろうか。顎に手を当ててシルヴィンはじっと考える。
「……あーもうっ、キスだよ、キス!」
ぱっと少年の姿になったかと思えば、フィーが顔を真っ赤にして叫んだ。
キス……?
その一拍後、シルヴィンの頭は考えることをやめた。二拍目でようやく言葉を理解した。そして三拍目でシルヴィンは感激の雄叫びをあげた。
「うおおおおおおおおっ……! キス、とは人間が愛情表現に行う、あのキスのことで間違いないか? おとぎ話の姫君たちは王子様のキスで目覚めるというが、現実にもあり得るのか! この僕が、リリーにキスを……いいのか! ……いいんだよな!」
リリーが意識を失って危険な状態だ、ということを一時忘れてシルヴィンの頭の中はピンク色に染まっていた。あまりに興奮するシルヴィンの様子を見たフィーは、しばらく何も言うことができなかった。
「……あ、あぁ」
「でも、どうしてキスで?」
興奮が少しおさまり、会話ができるようになったシルヴィンはフィーに向き直った。リリーの毒を浄化するためのキスだ。何か特別な力が必要なのかもしれない。リリーのために、シルヴィンは絶対に失敗はできないのだ。
ただキスをするだけ、というシルヴィンの希望に忠実な甘い話があるはずがない。
あれこれと考えたシルヴィンは、最終的に自分の命を懸ける覚悟までした。
「妖精には、仲間意識はあっても人間のような愛情は持ち合わせていない。だから妖精にはない強い愛の力で“奇跡”が起こせるかもしれない……」
なるほど、とシルヴィンは納得する。
妖精にはないものだったからこそ“奇跡”と言われたのか、と。
人間の感情には様々なものがあり、そのどれもが複雑に絡み合っている。その中でも愛情は生まれた時から側にある感情で、赤子は誰かに愛されなければ生きてはいけない。
それだけ、愛情は重要なものなのだ。
――“奇跡”が起きてもおかしくはないぐらいに。
「でもま、それはリリーもあんたのことが好きだったら、だけどな」
フィーによって付け足された言葉は、脳内から追い出した。要は、シルヴィンは今まで最高の愛情を優しくリリーに与えればいい。
シルヴィンの愛が“奇跡”を起こすほど強く深ければ、リリーを助けられる。
これは、やるしかない。役得とはまさにこのことだろう。他の誰にもリリーに触れて欲しくない。それに、シルヴィンはリリーに対する愛情ならば、誰にも負けないと自負できる。
「……ということは、僕はただ、愛情たっぷりのキスをすればいいのか!」
愛するリリーに口づけをすることは、シルヴィンの幸せでもある。キスでリリーを救えるのなら、いくらでもしてやろうではないか。
「いや、だからそれはリリーもあんたのことが好きだったら、の話だから! もし愛情がなければ、キスしたってリリーの身体は治らないよ……!」
せっかく聞こえないふりをしていたのに、フィーは釘をさすように強く言った。アイリシアにもっと早くリリーの好みの男性を聞き出しておくべきだった、と後悔する。
しかし今更シルヴィンの性格や体格が変わる訳でもないし、それはもう諦めよう。
「いやいや心配ない、きっとリリーも僕のことを好きでいてくれているはずだ! 問題ない!」
リリーはありのままのシルヴィンを受け入れてくれていた――そう信じたいだけかもしれないが。
「……まあでも、そんな気持ち悪いくらい愛情があれば、何とかなるかもしれないかな」
さらっと気持ち悪い愛情、などと言われて地味に傷ついたシルヴィンだが、自分の愛情が認められたということだろう、と肯定的に受け止めることにする。
「フィー、今までリリーの身体を守ってくれてありがとう。きっと、リリーのことを助けてみせるよ」
「……別に。俺は人間と妖精の子どもが珍しかったから側にいただけだよ。でもま、少しは俺の力も貸してやらなくもない」
素直ではないこの妖精が、シルヴィンは初めて可愛いと思った……のだが、少年姿に変わったフィーの顔が近づき、なんだか唇に暖かい感触が訪れた時には心の中で絶叫した。
(リリーとキスする前に男の子とキスしてしまったあぁぁぁぁ……!)
この後リリーとキスをしたら、フィーとリリーが自分の唇を通して間接キスするみたいじゃないか! それだけは、なんだか許せない。妖精だとしても、フィーは男。他の男との間を取り持つなんて絶対に嫌だ!
しかし、フィーの唇が触れた後から、なんだか身体に力が溢れているような気がする。
「俺の力を分けてやったんだ。有り難く思え! 俺だってしたくてした訳じゃねぇのに、お前がそんな絶望的な顔すんなっ!」
フィーはすねてまた猫の姿に戻った。
どうせなら、猫の姿でキスしてくれればよかったのに……。
少し悲しい気持ちになりながらも、シルヴィンはリリーの寝顔を見つめる。
蒼白でも美しく滑らかな肌、伏せられた大きな目、それを縁どる白銀色の長い睫毛、色を失っていてなお形の良い唇……すべてのパーツをじっくり見つめてから、シルヴィンはごくり、と生唾を飲んだ。
そして、人形のように完璧に整ったリリーの顔にゆっくりと自分の顔を近づける。
今この空間には、二人しかいない。フィーは妖精だし今は猫の姿だから、数には入れないでおく。恥ずかしがることは何もない。
シルヴィンはリリーの唇に触れる手前で愛の告白をした。
「リリアーヌ、愛しているよ。僕の側に戻っておいで」
触れたその唇は雪のように冷たく、柔らかい。
自分の体温、血、生気、すべてをリリーに捧げたい。
それでリリーの笑顔がもう一度見られるなら。
(僕のすべてを君にあげる……)
だからどうか目を覚まして。明るい笑い声を聞かせて。
何度騙されたって、利用されたってかまわないから――――。