1 赤い猫
赤い猫がいる。
吐く息が白くなる寒い冬のある日、メバルディ王国第二王子シルヴィンは友好国であるフィルーノ王国に足を踏み入れていた。
ここは、フィルーノ王国王宮内の一室。窓から見える庭では、赤い猫が真っ白な雪のキャンパスの上を優雅に歩いている。ふわふわした赤い毛並をなびかせて、白い地面に赤い足跡を残す。しかしその点々とした赤はいつの間にかすうっと消えていく。
その様子をじっと見つめていたシルヴィンは、不思議な赤い猫に導かれるようにして自ら部屋を出た。
「どちらに行かれるのです?」
扉の外には、ご丁寧にも護衛の騎士が二人もいた。鋼の肉体を持つ屈強な騎士相手に、生まれてからずっと本ばかり読んでいたひ弱な引きこもり王子が勝てるはずがない。言葉を発することもためらわれて、シルヴィンはえへへと笑って扉を閉めた。
自分のために綺麗に整えられた部屋は、なんだか落ち着かない。壁紙や絨毯に描かれた花は目を楽しませてくれるし、調度品も無駄なものは何ひとつなく不自由を感じている訳ではないのだが、慣れ親しんだ自分の部屋のようにくつろげるはずもない。ましてや、他国の王宮で、シルヴィンはたった一人なのだから。
もし何か問題を起こせば即外交問題に発展するだろう。
そんな不安と緊張とに押し潰されていたシルヴィンの気分を変えてくれたのは、庭にいたかなり目を引く赤い猫だ。
この部屋は外庭に面しており、窓からは広い庭がよく見える。降り積もった雪は丁寧に整えられているらしく、庭一面が完璧な白の世界だった。そこに赤い色が加われば、嫌でも気付く。
――まだ、赤い猫はいるだろうか。
窓の外に目を向けると、真っ白な雪景色の上には赤い猫ではなく、赤いドレスを着て赤い血を吐いている美しい娘が倒れていた。
その赤が目に入った瞬間、シルヴィンの身体は勝手に動いていた。わざわざドアから外に出るのがもどかしい。窓枠に手をかけ、足を乗せ、シルヴィンは空に身を任せた。
「あ。ここ二階……うあああ!」
バサ、ガサ、ドサ……窓のすぐ下の花壇と深い雪に助けられたものの、姫に会うために完璧に整えていた王子様の出で立ちは消え去った。綺麗に結んでいた長い金髪の髪も、青地に金の刺繍が入っていたベストも、お気に入りのジャケットも、脚が長く見えるズボンも、すべては落ちる時に引っかかった枝と花壇の土によって滅茶苦茶だ。
しかし、今はそんなことはどうでもいい。
慌てて倒れている娘に近づくと、赤い猫が彼女の頬を優しく舐めていた。
シルヴィンは、その娘をそっと腕に抱く。
「なんと、う、美しい……!」
柔らかな白銀の髪に赤い猫がもぐりこんでいても、真珠のように滑らかな肌が恐ろしいほどに白くても、長い睫毛に縁取られた目が伏せられていても、形の良い唇から赤い血が流れていても、シルヴィンの腕の中で意識を失っているその娘は文句なしに美しかった。
しかし、生きているのが不思議なくらい彼女には生気がない。嫌でも、死、という言葉が頭を過ぎる。儚げで、触れられない美しさ。吹けば消えてしまいそうな危うい命。
シルヴィンは、彼女から目を離すことができなかった。
しばらく見惚れていたシルヴィンが人を呼ぼうかと考えた時、腕の中の娘がもぞもぞと動き、ぱちっと目を開いた。それはもう、ばっちりと。
そして――――
「フィー!」
大きな薔薇色の瞳を見開き、天使の歌声のように澄んだ声で叫んだかと思うと、娘はばっと起き上がった。
とっさにシルヴィンは手を離す。
「あはっ、あははは……」
突然、彼女が腹を抱えて笑い出した。これには、シルヴィンは目を丸くして驚いた。
ただ美しいだけで動かないはずの人形が突然、生きた人間に変わったのだ。死んだように倒れていたのが嘘のように彼女は楽しそうに笑う。
何が楽しくてそんなに笑うのだろう。
シルヴィンは、こんな風に笑ったことがない。
ずっと、暗い部屋に一人で引きこもっていたから……。