地獄の業火編3
アパート内は凄まじい煙と荒れ狂う炎で灼熱地獄と化していた。体を包む水滴もジリジリと音を発てて蒸発していく。それでも迷う事無く階段を上がり続け、なんとかあいつの部屋の中まで辿り着く。
部屋の中には炎の影は見えない。どうやらこの部屋だけは耐熱設備が整っているらしい。これが俺らパンピーとセレブの違いだ。
しかし俺の部屋との境からは炎がチロチロと赤い舌を見せている。一刻の余裕もない状態だ。
「よお、マリア」
マリアはベッドで寝ていた。紅く染まる部屋内で、真っ白なパジャマを紅く神々しく染めて。俺は持ってきた濡れシーツをそっとマリアにかけた。安堵感でほっとため息を吐く。体中の緊張感が抜けた。
「嘘だろ?」
だが次の瞬間愕然となった。ガズーン、という頭に響く轟音。視線に映るのは、勢い良く崩れ落ちる梁の姿。
廊下側から炎が進出してして入り口の梁が焼け落ちたんだ。それにより廊下へ続く経路が遮断された。炎の勢いは堰を切った濁流の如く。空気を切り裂き壁を埋め尽くし、全てを飲み尽くしていく。
「チッ、だったらこっちだ!」
俺は舌打ちして、別な方向に視線を向ける。こんな状態だろうと活路はある。そう、俺が脱出した時と同じ窓からだ。近くにあったアンティーク調の椅子を手にすると、思い切り窓に叩き付けた。
だがそれは、俺の思惑に反し弾き返される。何度その行為をしようと、拳や蹴りを叩き込もうと結果は同じ。ガラスには傷ひとつ刻む事はない。
「まさか、強化ガラスなのか?」
俺は立ち尽くした。有り得ない話では無かった。オッサンがマリア可愛さの余り据え付けた事も考えられる。
ゆらりゆらりと蠢く炎。窓の外から立ち上がり、ガラスに襲い掛かる。ガシャン、という音を発てて、窓ガラスが弾け飛んだ。
強化ガラスってのは、熱には弱いって聞いた事がある。この下はさっき爆発した灯油置き場。炎は砕けた窓から進出し、確実に室内を侵食していく。どの道ここからの脱出は無理だったっていう事だ。
こうして俺達は全ての退路を絶たれた。肌が炙られヒリヒリと焼き付く。黒煙が包み込み喉が痛い。意識が遠退きそうな感覚を覚えていた。
ゆっくりと周りを見回した。赤の世界は恐ろしい程静かだ。いや正確にはごうごうと燃え盛る炎で騒然としていただろう。だけど俺にはそう感じていた。
「まぁ、いいか」
やがてゆっくりと瞼を閉じた。確かに逃げ場のない最悪な状態だろう。呼吸も出来ず、肌を焼かれて苦痛の中に死んでいくしかない。だけど逆を返せば、最悪な死って意味だ。つまりルカが言った最悪な痛みを伴う死って事。だったら上等。このまま死ぬのもありだと思った。これで死ねれば本望。やっとこの牢獄から解放されるんだ。……おぼろげにそう感じた。
「いってー!!」
突然額に鈍い痛みが走った。同時に上空から黒い影が飛び降りる。
「……リキ。なんでおめーが」
それはリキだ。ずっと俺の頭にしがみ付いていたらしい。呆気にとられる俺を余所に、リキはヨロヨロと部屋の奥に消えていく。暫く後何故か水しぶきの音が響いた。
俺は事態が飲み込めずその場に駆け寄る。
「何でだ、あり得ねーべよ、ボロアパートの分際で……」
目の前に広がる光景、そこはバスルームだ。リキはバスタブの中で溺れていた。どうやら熱さに堪えかねて、自分から入ったのだろう。
「馬鹿、焼け死ぬ前に溺れて死ぬぞ」
呆れてリキを拾い上げた。ハーハーと舌を出し長閑な表情を浮かべるリキ。生きてる実感を味わうような安堵の表情だ。ネコなんて小動物は、火なんかは嫌いだろう。だけど水も嫌いだ。だけどこの修羅場を乗り切る為無我夢中で飛び込んだのだろう。生きる為に必死、あっさり諦めた俺なんかとは違う力強さが感じられた。
「仕方ねーな。ここにいるのは俺様だけじゃねーからな」
ずぶ濡れのリキを頭に乗せると水滴が俺の頭を潤す。熱さが和らぎ、生きてる実感が感じられた。改めて思った。諦めるのは簡単だ。だけど俺が諦めたら、リキの奴だって死んでしまう。それに誰がマリアを助けるってんだ。
「そうと決まれば脱出あるのみ!」
刹那の衝動に駆られ、側の洗面器で水をすくう。そしてマリアの寝入るベットに駆け寄り、マリアの体に注いだ。
「ミャァ、ミャァ」
その様子を見つめ、リキが嬉しそう鳴いている。気のせいだろうけど、マリアがにこりと微笑んだ気がした。とにかくこれで当面の間、マリアが焼け死ぬ事はない。
とはいえ問題は残されている。ここから逃げ出す事、退路を確保する事だ。部屋の入り口は落ちた梁がまだ燃え盛っている。それがバリケードのように立ち塞ぎ、外部との行き来を遮断している。しかしそれを越えれば何とかなるだろう。
「シュウ様、なめんじゃねー!」
リキをマリアの傍らに預けると、再びバスルームに駆け出した。そしてすかさずバスタブに飛び込む。
洗面器に水を溜めて、真っ赤に染まった梁にぶっかけた。
そうさ炎を消すには水。水をかければ炎を始末する事は可能。水は一瞬で水蒸気と化し、辺りに飛散する。真っ赤だった炎の熱さがいくらかは和らいだ。
とはいえそれは表面だけの事。梁の内部は、まだ真っ赤な炎に侵されているだろう。この作業を何度か繰り返さなきゃ、完全に炎の勢いを封じる事は無理。……だけど時間は無かった。
「どけよ!」
俺は梁を蹴り上げた。しかし無情にもそれはびくともしない。
焦っていたのは事実だ、無茶な行為とも自覚はしてる。だけど必死だった、ただ嫌だった。
躊躇いなく梁に手を掛けた。体を覆っていた水分が一気に蒸発する。肉が焼けた匂いが鼻を突いた。
「邪魔だあー!」
気力を振り絞り、梁を横に投げ捨てる。目の前に開かれた空間が現れた。俺は火傷の痛みで遠退きそうな意識を必死に保つ。まだ終わりじゃねー、おもむろに振り返り、マリアに歩み寄った。リキは長閑な鳴き声と共にすかさず定位置に駆け登る。
「さあ逃げんぞマリア!」
マリアをお姫様だっこで抱き上げ、そのまま廊下に脱出した。
廊下もかなりの熱さに包まれていた。火の粉は容赦なく降り付ける。真っ黒い煙を吸って、気管や内臓が焼き尽くされそうだ。限界は感じていた、流石に無理はあった。それを必死に払い出口を目指す。ただ闇雲に出口を目指した。
あと少しで終わります




