其の一匁、染井吉野
全くこの世はくそったれだ!俺が何をしたって言うんだよ。
昨日は学校の帰りに河原を歩いていたら、
何もない場所で躓いて、そのまま川に真っ逆さまだったぜ?
周りの友人には笑われるし…まあ、俺のことだからギャグで終わらせたけど。
一昨日なんかはスクールバッグに鳥のフンを落とされた!
だから注意して上を見て歩いていたら、今度は目前の電柱に気づかずに衝突だ。
そんでもって今日、たった今。
3年間ずっと恋焦がれてきた憧れの女の子に告白して、見事にフられた。
今日は卒業式だった。春休みが終われば俺たちは高校生だ。
その女の子とは別々の高校に進学するから、
想いを伝えるなら今日しかないと思ったのに!
しかも、フられた理由が「染井くん、格好悪いんだもん」だってさ。
確かに俺はドジばっかり踏んでるぜ?
というか、ドジの一言で片付けられるレベルじゃない、もはや不幸体質だ。
トラブルなんて日常茶飯事。
故に耐性が出来てしまって何が起こっても冷静に対応できる…
その場面で、俺一人であれば。
周りに友人なんかがいたら話は別だ!
恥ずかしくて弁解するので精一杯だっての。
でも、俺には自慢できるものがある…それは、剣道だ。
小さい頃からじっちゃんに教わって、みるみるうちに上達していき、
小学生にして全国大会クラスにまで上り詰めたんだ。
しかし、中学2年の時インターハイ中に俺宛に来た一件の電話で、
俺は剣道部を退部した。
じっちゃんが亡くなった、という内容だった。
精神的な揺らぎで反射的に退部届けを出してしまったものの、
数ヶ月経ってまたやりたくなってしまい、
けれど部活のメンバーに合わす顔もないから、
家でこっそり練習していた。
傍から見れば、途中で部活辞めた根性無しのクソ野郎だ!
大好きな女の子に自慢できる点と言ったらそれしかないのに、
自慢のしようがねェ!
周りからした俺の評価はゴミみたいなもんしかねェ。
一体俺が何をしたって言うんだよ、神様仏様。
「ごめんね染井くん。友達が呼んでるから、バイバイ」
「あ、うん…いきなりゴメン。じゃ…」
俺をフった女の子は、清潔そうな長い髪を翻し、友人のもとへ駆けていった。
女の子の背中をぼんやり見送ってから盛大なため息を吐く。
俺の名前は染井吉野。
どっちが苗字なんだ、なんてしょっちゅう突っ込まれている。
ポケットから体温で生ぬるくなった板ガムを取り出し、口へと放り込んだ。
桜味、俺のお気に入りの味。
よく桜味なんてよくわかんねーって言う奴いるけど、俺も実際よくわかってねェ。
ただ、香りが上品っていうか…落ち着くんだよな、この味。
春なんかになると受験生応援!なんていって"桜咲く"にかけて桜味の商品が増える。
そうだ、帰り道に適当な店にでも寄って期間限定の菓子でも買い漁って、
家でやけ食いしよう。
そんなことを考えていると、いつもつるんでる野郎達に声をかけられた。
「おーい吉野!帰り?一緒帰ろーぜ!」
「あー無理!ちょっと親に買い物頼まれててよー」
「なんだよ連れねーなぁ…」
適当な嘘で誤魔化してから両手を合わせ、スマン!のジェスチャーを送り、
急いで校門を出る。
いつも行かないような少し遠めの店がいい、
ゆっくり長く歩きたい…そんな気分だ。
フられた痛みで上手く取り繕えない顔を誰にも見られたくないから、
人通りの少ない裏道を抜けたところにある、古いスーパーにでも行こうか。
そうと決まったら俺は歩くぜ。足がもつれ無いようにと地面を見張りながら、
それに空から天敵(鳥のフン)が落下してこないように、
空を見上げながらと交互に。
裏道は森の中だ。
俺の住んでる場所は所謂田舎というやつで、学校までは歩きで通っていたが、
田んぼのあぜ道や河原なんかを歩いて、
よく靴が泥で汚れるから週に一度は洗って磨いた。
やっぱり俺くらいの年代になると都会に憧れるヤツが周りにいっぱいいて、
俺もその一人だった。
けれどどうせ俺が行ったところで、
車に跳ねられたりチンピラに絡まれたりしそうだ。
都会に対しては興味半分、恐怖半分と言ったところだろうか。
朝露に濡れた小枝を払いながら裏道を進む。
時々、払いきれなかった枝がしなって思いっきり俺を叩きつけたりして、
気がついたら制服はびしょ濡れだった。
俺はまた盛大に溜息を吐いた…幸せが逃げるとかどうでもいい。
不幸体質の俺が願う幸せは、平凡に毎日を過ごせることだっての!
こんな切実に平凡を願う男子中学生(さっき卒業したけど)
なんて他にいるだろうか?
ぶつくさ文句を垂らしながら歩いていると、生暖かい何かにぶつかった。
「わぶっ」
顔面衝突したそれは黒く細身で、見慣れない制服だった。
人だ…とりあえず謝らなければ、と顔を上げようとすると、
ぽたりと温い雫が俺の手に落ちた。
鼻がじんじんする。赤いその雫は、俺の鼻から滴り落ちていた。
思わず俯いて鼻を押さえる。
ぶつかった相手の制服を恐る恐る目線だけで見ると、
ああやっぱり…相手の制服に俺の鼻血がついていた。本当についてない。
思ったよりガッツリ行ったみたいで、
鼻をつまんで抑えているのに血が溢れ出てくる。
その匂いに噎せ返りそうになったのを堪えると、口内にまで垂れてきて、
吐き気に催されて視界がぐにゃりと歪み始めた。
「いきなりぶつかってゴメンね、坊や…大丈夫かな?」
優しげな男性(?)の声に、
すっかり謝り損ねていたことを思い出し俺は顔をばっとあげた。
視線が絡む。長い前髪からちらりと覗く、睫毛に縁どられた赤い瞳。
ざあっと風が吹くと、男の髪は舞い上がり、
線の細い彼はまるで女性のように思えた。
ぼんやり見とれてしまっていたが、我に返り気まずいため視線を逸らして謝る。
「あ、いや…俺がぶつかったんス、すいません。大丈夫ッス」
「鼻血が出てるじゃないか。そうだ、これ…ハンカチ、使いなよ」
「いやいや、悪いッス!」
「だってそれ、止まりそうにないじゃない。
特別派手にぶつかった訳でもなかったのに、場所が悪かったのかな?
とにかく、使いなよ。ハンカチなんて幾らでも持ってるから、あげるよ」
半ば押し付けられる形で受け取ったハンカチは、
高級そうなちりめん柄で懐かしい香りがした。
お礼を告げ渋々受け取って鼻を押さえると、
男は満足そうに微笑みを浮かべていた。
「それよりどうして坊やはこんなところに?」
「ああー…ちょっと、スーパーに行こうと思って。
この裏道を抜けると着くんスよ」
「…へえ、スーパーに…ねえ」
男は一瞬俺を疑っているかのような表情を見せたが、
すぐにその表情は消えてしまった。
男の着た制服は、よく見ると現代の制服とは少し違った外見をしていた。
学ランのボタンの数が普通よりも多めで、
その上から襟のついた黒いマントのようなものを羽織り、
さらには帽子を被っていた。
歴史の教科書にある、明治時代の学生の格好によく似ていた。
「あの、あなたの制服にも俺の鼻血ついちゃってその…」
「え、ああ、これか。また新調するから気にしなくていいよ」
「そうスか、俺にできることがあれば何か言ってください。
迷惑かけっぱなしなんで」
「キミに出来ること…か」
また、強い風がぶわりと吹き抜ける。
男の真っ黒いコートが舞い上がった時、彼の二の腕に金色の腕章を確認できた。
そこには"世棄立桜小路並木学園 生徒会"と書かれていたが、
全く聞いたことのない学校名だ。
不意に視界に桃色のひとひらが映り込み、はっとして辺りを見回した。
俺が歩いていたはずの裏道こと森の抜け道は、
先程まで朝露に濡れた新緑の木々ばかりであったのに、
今、俺の視界にあるのは、見事に満開の桜の木と、
それを背景に凛と立つその男だけだ。
息を呑むほど美しい景色だった。
咽せ返るほどに、甘い花の香りが立ち込めていて、
風が吹くたびに桜の花びらが舞い踊っては、空へと吸い込まれていく。
ここは、何処だ―…?
「ようやく気づいたみたいだね、"染井吉野"クン」
まるで自分以外の花の存在を許さないかのような、桜ばかりの森であった。
中性的なその男によく似合う。彼が微笑むだけで、花が綻ぶ。
総てを見抜くかのような男の瞳に、俺は視線を逸らすこともできないままだ。
…情けないが、絞り出すような声で質問するのが精一杯だった。
「どう、して、俺の名前…」