第五十話
《憩の湯》が静かになったのは、ずいぶんあとだった。
夜の営業を終え、湯も落ち、床も拭き終わって。残っているのは、湿った木の匂いと、どこか名残のような温かさだけ。
そのころには、みんな散っていた。
エレノアは事務机に戻り、山のような紙を前に眉を寄せ、ユーリは無線室でログを整理し、サラスは機関室の配管を見上げて腕を組んでいた。風呂の話は、誰も口にしない。けれど──胸のどこかで、まだ湯が残っている感じがした。
数時間後。
簡易会議用に使われる事務スペースへ、
ぽつり、ぽつりと人が集まりはじめる。
机の上には、端末、資料、冷めかけのコーヒー。湯気はない。けれど、視線はどこか静かだった。
エレノアが手元のタブレットを軽く叩く。
「では、始めます。これは“感情の話”ではなく、現実の確認よ。」
ユーリが端末を立て、画面を共有する。
「マーズ・ガーデンからの“新提案”。正式資料、ここまで追加されました。」
追加された表の列、グラフ、脚注。
数字は増えているが、安心感はなかった。
サラスが身を乗り出す。
「効率化……って言葉が、やたら多い。確かに悪くはない。だが、“余剰水”の扱いが軽い。」
エレノアが指で文面をなぞる。
「“余剰”という表現自体、都合の良い枠組みかもしれないわね。」
静かに頷く者、腕を組む者。
一平太は、少しだけ遅れて会議に入った。
手には、メモ帳が一冊。
エレノアが視線だけ向ける。
「小山君。《憩の湯》の様子は?」
言葉を選びながら、口を開く。
「……みんな、普通に入ってました。笑ってる人も、黙ってる人もいて。でも、出ていくときは、少し顔が違ってました。」
言葉が止まる。
うまく説明できない。
でも、嘘もつけない。
「なんか……“戻ってる顔”でした。」
しばし、沈黙。
エレノアは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「ありがとう。数字とは別の情報として扱うわ。」
ユーリが手を挙げる。
「まとめます。向こうの提案は、短期的には正解です。しかし《憩の湯》の存在は、“余剰削減”の枠では測れません。」
サラスが続ける。
「俺は、技術的なリスクを詰める。“予定どおり回らなくなった場合”を全部洗う。」
エレノアが最後に言う。
「そして——《憩の湯》の意味について、私たちは言葉を持つ必要がある。守るなら、ちゃんと説明しなきゃいけない。」
会議は、それだけで終わった。
結論は出ない。
でも、誰も焦ってはいなかった。
席を立ちながら、一平太は思う。
(あの湯に入った時間と、この机に向かってる時間は、きっと別のものだ。でも……どっちも、俺たちの仕事なんだな。)
外へ出ると、通路は冷たかった。
胸の奥だけ、まだ少しあたたかい。
《憩の湯》の暖簾は、いまは静かに下りている。
それでも、そこにある。




