第四十六話
月末の報告が届いた。
白い紙に数字が並ぶだけ。それなのに、机の上の空気が少しだけ重くなる。
「月報、来たわ」
エレノアが淡々と言い、プリントをノーマンの前に置いた。
「はいはい、確認だね」
ノーマンは、湯呑みを片手にめくり始める。いつも通りの動作だった。
だが、途中で指が止まる。
静かに、視線が一点に落ちた。
エレノアも横から覗き込む。
「……使ってるわね」
声は低いが、柔らかい。
サラスも席を立ち、近づいた。
そこには——
水の使用量。循環率。効率グラフ。
どれも、基準内。違反でも事故でもない。
ただ、以前より わずかに悪い。
「優秀」から、「普通」へ。
本当に、それだけ。
「原因、見ておきたいわね」
エレノアが端末を確認しながら言う。
画面に、浴場設定の履歴が映し出された。
温度。循環。流量。
少し前の日付に、微妙な変化。
エレノアの視線が、一平太へ向いた。
「……変えたの、あなたね?」
一平太は、少しだけ息を吸い込んだ。
「はい」
逃げなかった。
「戻しました。
前の……少し前までの、設定に」
ノーマンは眉を上げる。しかし、声は穏やかだ。
「どうして?」
一平太は、言葉を選ぶ。
親子。短い滞在。湯に入る前のためらい。
説明しにくい。
「……みんな、温まってない気がして」
それだけ。
沈黙が落ちる。
サラスが、口を開いた。
「設定そのものは、安全域の内側です」 「技術的な問題はありません」
それは“庇う”声じゃなかった。ただの事実。
エレノアが数字を指す。
「効率は下がってる。でも、まだ赤字ではない」
ノーマンは報告書を静かに置いた。
「事故は?」
「なし」
「クレームは?」
「なし」
「体調不良は?」
「なし」
ノーマンは、ふっと笑った。
「じゃあ、“失敗”ってほどじゃないね」
軽く聞こえる言い方だったが、そこには責任を放り出す感じはなかった。
「ただし——」
表情が、少しだけ真面目になる。
「数字は本社にも送る。
説明は、ちゃんと考えよう」
それは“圧”ではなく、
——相談しよう、という声だった。
「技術側の説明は、僕が出します」
サラスが言った。
「現場判断としての説明は、僕ね」
ノーマンが続ける。
そして、ちらりと一平太を見る。
「理由は、君が話すといい」
一平太は、こくりと頷いた。
誰も責めなかった。
会議は、それで終わった。
夜。
サラスは、一人で浴場に立っていた。
明かりは落ち、湯気だけが漂う。
湯の上に浮かぶ光。静かに揺れる水面。
数字でいえば、今日は「普通」。
効率は少し落ちた。利益も少し削れた。
けれど——
サラスは、湯に手を入れる。
肩まで沈んで、息を吐いた客たちの顔。 あの、短い「……ああ」。
胸の奥で重なる。
「これは……本当に、間違いなのか」
小さく呟く。
湯は、静かに揺れ続けていた。




